アイちゃんとひとりぼっち
此処
アイちゃんと緑の女
じりじりと日差しが白い肌を照らす。小粒の汗をこぶしで拭って、涼しくもない、じめじめとした木陰に腰を下ろした。目の前に見える深泥池は暗い緑の水が波打っていて、とてもじゃないが、触れて涼もうなどという気分にはなれない。近づくと喉につっかかるような、気持ちの悪い、腐ったような臭いもするからだ。
流れる風の中で、鼓膜をうつのは蝉の声だ。夏の初めに地中から這い出してきた、いちばんの蝉の声。いつの間にか時はたって、夏になっていく。昼休みに学校を抜け出して、買ってきたペットボトルのアクエリアスは、すっかり皮の鞄の中でぬるくなって、人肌のまでになっている。そのまま、再び鞄にしまおうとすると、二メートルはあろうかという巨大な女が、ずるりとあたしの股の間から顔を出す。
そのままペットボトルを、女が、ナイフのようにするどく、赤い爪の生えた手で取ると、あっという間にペットボトルは凍りついてしまう。頬に当てられると、最初はきりりと痛んだがすぐに首元が心地よくなってきた。
「あら、やりすぎたかしら……」
冷えたペットボトルを受け取って蓋をあけると、下のほうだけが凍っているようだった。
「じゅうぶん」
そう、女を見ずに言った。
「そ。なら、良かったわ。隣にいてもいい?」
「勝手にしたら」
「ありがと」
女の緑の長い髪が、木々の、葉とかぶる。深い緑の髪。肌もほんのりと緑で、まさか人間だとは思わない。頭からは血の色をした角が生えて、腕も同じような角に串刺しにされている。日常だった。
「いいわね、ここは。すごく気分がいいわ……」
綺麗な声をしていると思う。艶めかしすぎないが、子供らしくもない、大人の声。うっとりとした表情で、深泥池の、よごれた波を見つめていた。少し気にして女を見ると、大きな緑の目を見開いて嬉しそうにする。
「ねえ、またここに来たいの。なんだか、すごく落ち着くから。私、アイちゃんと一緒に過ごせてとっても嬉しい。アイちゃんと出会う前は、こんなに穏やかな気持ちでいることなんて、あの人としかなかったのよ」
「……また、あの人?」
女は頬を染める。あたしはちょっと気分を害したようなふりをした。まさか、そんなことで傷つくはずはない。女とあたしの仲は服従、でしかない。今は、最初から、最後まで。
「ええ。ごめんなさいね。でも、私の大切な思い出だから」
そう言って、女は、ぽっかりと穴のあいた腹を見つめた。大きな穴。向こう側まで見通せる、大きさはちょうど、赤ん坊が入るくらいの穴だ。真ん中には、キラキラ光る氷のような、透明な背骨が通っている。女は、子供を宿すことができない。
「アイちゃん。アイちゃんには、悲しい恋はしてほしくないわ」
女が赤い爪で、傷つけぬようにと、あたしの髪にそっと触れた。人差し指の爪が少し触れるくらいのものだった。
恋、なんて、そんなこと言われても。あたしは人から嫌われるし、考えるだけで心が押しつぶされそうになる。恋とか、愛とか、そんな人間らしいと言いながら、やることは獣と同じじゃないか。
「ゆっくりでいいの。私はたくさん生きてられるから。私を踏み台にしてもいいから、誰かを好きになってみるって、とても素敵な感情だから、わかってほしいな、って、そう思っていただけなのよ」
「そんな身体にされたっていうのに?」
大きな、赤ん坊の穴。女は動揺しない。ふふっと軽く、優しく、聖母を思わせるような笑みをつくるだけだ。
「ええ。それでもいいって私は思って、幸せだった。恋の行き着く先って、契りを結んで子供をつくることだけではないと思うから。だから私はアイちゃんが好きよ」
恥ずかしげもなく、そんなことを。これが大人の余裕って、ものなのか。ごまかすみたいにペットボトルを口にした。喉に氷に近い液体が通っていって、ぶるりと全身を震わせる。
すると、ちょうど目の前に、先程まで泣き散らしていた蝉が仰向けになって落ちてきた。足をむずむず動かしながら、ジージーと強く泣いている。もっとそばに寄って観察していると、泣き声は弱くなり、動いていた六本の足をたたんで、ついには動かなくなる。
すこしつついてみるが、蝉は、動かない。そこで命が消えていったことを知った。あたしの行く先行く先で、命は消えていくのを、女は、死の匂いがするというのだ。
女は蝉の死骸を拾い上げて、じっと、大きな掌に乗せて見つめている。
「どうするんだよ、そんなもの」
「え? 埋めてあげようかしらって」
「放っておけば、鳥とか、蟻とかが食うんだからさ」
「いいのよ。私がしたいだけなの。目の前の死に対して、私の感情を表したいだけなのよ」
そうして立ち上がると、木の根の近くを爪を使ってうまく掘ったかと思うと、蝉の死骸を入れて埋めてしまった。そうすることで鳥には食われないだろうが、それだけだ。蝉の死骸に起きることが対して変わってはいない。女の、エゴだ。
「こういう風になれたのってこの世界のおかげだわ。この世界は、死と生と愛に満ちていて、眩しくて、とても素晴らしいところね」
大きな腕を広げ、日差しを全身に受ける女。獣のような腕に、馬の蹄のようになった足。この世のものとはとても思えない姿をしている。
「この世界で、私は人間になれたの。ずっと憧れていたのよ。人を愛せるようになった。死を悲しむようになった。私は弱い怪物じゃなくなったのよ」
女の過去は、そう、あの人のことしか知らない。この女が何であるのかと言われ、説明するならば悪魔と言うのが正しいだろうし、女も悪魔と言ったり、今のように怪物と言ったりする。
あたしは、女の、この言葉に揺れることはない。世界を見る目は冷たくなっている。決して、たとえば同年代の少女のように、ファッション雑誌やアイドルのブロマイドに高い声を上げたり、薄っぺらい恋愛ソングに自分を重ねたりしたくはなかった。あたしは皆と違う。だから嫌われる、だから同じことはしない、それだけだ。
「ねえ、アイちゃん。アイちゃんは、私のこと邪魔かしら?」
それでも、そんなに愛に対して経験があったとしても、そこは不安なのか。あたしははっきりしている。
「……邪魔じゃない。だったらとっとと追い出してる」
「じゃ、じゃあ、好き?」
「それは答えないといけない?」
「強制はしないわ」
緑の髪、緑の肌、緑の目は、たまにらんらんとルビーのように輝くときがある。あたしの背はせいぜい百五十と少しほどなのに、二メートルの女がすがっている様子はなんだか笑ってしまいそうだ。
「邪魔になったら、追い出すだけ」
女は、落ち込むかと思えば、緑色だった目を赤くさせた。本物の宝石がまぶたの裏に埋まっているみたいに輝いた。
「私は、だからアイちゃんのことが好きなのよ。だから、いつまでも好きでいさせてほしいの。アイちゃんは、私のことを好きになる必要はないわ。だから、好きでいることだけは許してほしいの」
ふ、と息を吐いた。女は興奮しているらしく、肩を上下にするような息遣いだ。
「それを否定することは、あたしにはすることができない」
赤い爪で首に触れられると、ぞわりぞわりと背中が冷えた。白いセーラー服の中を流れる汗は、下着に引っかかってしみていく。
「ごめんなさい。嫌じゃなかったら、だけど、でも、あの、少しだけ触ってもいいかしら」
どこに、とは聞かない。首には触れられている。命を奪える場所。相手は二メートルもある怪物だ。あたしなんて小さな人間を殺してしまうことなんて容易いだろう。プツンと切れそうな命の糸に、ナイフを当てられている。
「少しだけなら」
するするとセーラー服の中に緑の大きな手が入り込んでくる。下着越しに、あるわけでもない小さな胸に爪が食い込むのを感じた。左胸だった。どきり、と、もっと深く食い込めば心臓を貫くのではないかという恐怖も、ただ、ひとに、触られているという心地よさで思考が揺らいでいる。この心地よさは死に触れられている危うさからなのか、ただ、安心感と愛とやらに包まれているからか。
少しだけはっと声を漏らすと、髪に女は顔を埋める。
「アイちゃん。ありがとう。好きよ。大好き」
「殺すなよ」
「信じて。アイちゃんは私を信じてくれたでしょう?」
耳に舌と、歯が触れた。咀嚼するような唾液の音が鼓膜に直接やってくる。暑いのもあってか、汗がとまらない。冷たいペットボトルをぎゅっと両手で握る。
茹だるようなじっとりとした熱気と、歪んだようで真っ直ぐな好意、そして行為。命のやりとりに半歩進めば落ちてしまいそうな場所。あたしは深泥池を見る。暗くて深い緑の水。はくはくと死にかけた魚のように息をしながら、肺を潰されるような気持ちの中で。何かに似ている。脳の裏側でそう考えている。欲の成れの果て。
どうあがいても、あたしは、愛なんてわからないのだ。傷を舐め合うような獣のことなど、人間のあたしには、わからないのだ。
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