第8話

私は今日もあの公園にやって来た。あのオーロラ以来、政府の人たちは情報のやりとりに多少の不便を感じているらしくて連日忙しそうに対応に追われている。

そんな様子を私は朝食を取りながらテレビで横目に見ていただけだった。大人が何か言ってるけれど、私は特に影響を感じない。電波がどうだろうと、彼と私の間には暗黙の日常があるのだから、関係も無いのだった。

ほら、居た。公園の時計は午前十時を指している。そしてベンチに腰掛ける彼のいつもの姿だ。

私はいつものように、無難に挨拶を述べた後、彼の横に腰掛けて、ちょっと彼の方をなんとなしに見上げた。

…途端に、この前のオーロラを見上げる、いつもの青空とは違う深い黒の背景に包まれた彼の横顔を思い出した。夜ではあったのだが、荷電粒子の光を見上げる彼の瞳は僅かに光を以て反射していた。網膜にオーロラを受け入れている彼の瞳はその夜一番印象的であった。否、宵に佇む彼の姿そのもの、そのすべてが、私にとっては何よりも感覚を揺さぶられるものだった。


私は回想をふと現在に戻して、今は昼に漂う彼の目からちょっと視線を外した。その時に彼は口を開いて、ぽつりと話し始めた。


「ねぇ君、」と、私にだけ語り掛けるような最小限の音量で、最小限の言葉で彼はそっと私に注意を促した。ただ呼びかけられただけなのかもしれないが、それでもその声調には、何か次に大事なことを言う為の布石である意を含んでいたように思わさせられた。


「僕は、どうしてあの光を見せて貰ったんだろうか」


そう言ってから、空に投げていた目線をこちらに寄こした。目が合った。私は人の思いを読み取ることが酷く苦手だけれど、そうだとしても、彼の物言いには、口元が惧れで歪んでしまいそうな、儚く小さな迷い、戸惑いが映されているように思えたのだ。彼の表情も、ふと見た途端にはっとするような、どきりとするような、いつもとは違う色を持っていたような気がする。そしてじっと見ると殊更に、ああ、「かなしいのだな」と、此方に分かってしまうような、純粋なゆらぎを彼の表情は纏っていたのだった。何がそうさせているのかは分からないし、問うまでもないと思った。彼はかなしいのだ。目尻もいつもと違う描き方をしている。その意思を反映するかのようにいつも固く一字に結ばれている口元は心なしか(他の人から見たら、誤差程度なのだが)、綻んでいる。裏を返せば意志が揺らいでいるということなんだろう。意志が…、何の心情が?私には解りそうにない。彼の事は私は、知らないようにしてきたのだ。知らないようにして、私はまるで平穏に接して来たのだ。知った後の答えが見えないから私は現状をことさら求めて来たのだった。


彼を見ていると、不意に此方までかなしみを受けてしまいそうになった。頭が彼の表情に拘束されたかのように、喉が涙で詰まって止められなくなりそうだった。

目尻まで涙が込み上げてきたような気がして、私は必死で感傷をおしとどめた。

それから、なにか答えなければならないと思い、義務感から私は彼の問いに対する返事を練った。

何で、彼に天があのような幻想的な光景を見せたのか、如何して…、…彼はそれが知りたかったのだろう。だけれど何故彼がそうして泣きそうな顔をしているのか分からなかった。ああ私は到頭ここまで彼を分からずに来てしまった。彼が抱えて居るものは、あまりに大きかったのだ。何であろうと私には理解の及ばぬ残照だった。それは……確か大切なものであった気がする。


「きっと意味はあります。意味はないかもしれません。なくても、貴方がそれを見たという事に、ここでそれを目にして、なにかを想ったということに、意味があります」


私は考えた挙句にひどく曖昧な返事をした。


「そうだね、僕は、それが僕でなくとも、僕であったからには、何処に就いても、最大限の、働きをしようと……そうして来たんだ……、意味を生むのは、のちになされた自分そのものである、…」


彼は最後を、なにか思い出したように言いきって、その途端に、私は少し救われた様な気がした。彼は、私の言葉で、…いや、言葉は関係なくてただ時間が経ったから思い出しただけなのかもしれないけれど、なにかを取り戻したのだ。ひとつ、何かの欠片を。


「…僕は、それを聞きたかったのかもしれない」


彼は漸く、…笑んだ。心だけで笑んでくれた。表に出ている情ではひとつも笑っているように見えないのだろうが、笑ってくれたのが分かった。私には何故か判った。少なくともかなしみは吹き飛んで、もとの青天に戻ったようだった。

私は彼のひどく安心するその常態が、この上なく私を安定させる妙薬の様だと、此の時も陽気に、そう思ったのである。


まるで彼が永久に変わらない存在であるかのように、ずっとそこに居るかのように錯覚して、私は勝手に安泰を得ていたのであった。

全てのものにおいて、永遠に変わらないものなど一切ないのだと、私でさえ知っていたのにも係わらず。目を、…彼に真っ直ぐ、純粋に向けていると同時に、たしかに背けていたのだった。

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