第5話

僕も、本が好きなんだ。好きと言うか、無いと暇でね。無聊を紛らわすためだけではないが、よく読むよ。


間を挟むように青空の遠くへまた目線を投げ、彼は話題を戻して一転明るく問う様に話しかけた。

へえ、どんな本を読むんですか、と、ちょっと気になって問うと、とても覚えきれぬほどの種類の、幅広い分類が挙げられた。洋書も読むには読むらしい。きっと彼の性格とその言い分では、読むには読む、と言っても私にしては大分難易度の高い本格的な洋書も度々読まれるんだろう。それから、一か国語ではないようだった。英語さえ一杯になる私にとって雲を攫むような話に思えた。



「ちょっと僕は以前、いわゆる閑職に回されたことがあってね」


彼はふと、切り出した。自然に、いつも通りの流れの様に切り出されたそれは、しかし私の意識を十分に引いた。彼は、余り自分の過去の事について、身上について、語ったことが無かったからだ。私にとって、彼についての情報はほとんどすべてが真新しく、珍しいものであった。


彼は目線をちょっと上方に投げる。空を見るとも、向こうの木々を見るともつかない曖昧な視線。


「その時は、きっと人生で一番じっくり本を読んだ。」


…それは僕にとって、実りあるものだった、と、今更だがそう思う。ゆとりや余裕は、案外収穫に直結するのかもしれない。


そう含みを持たせるような口ぶりで言い、目を細めた。


――見えないものが、案外に外に、常に顕れるものだよ。


彼はそのひとまとまりの文だけを口にした。言葉を尽くそうと思えば更に一段落ほど紡げそうな含みがあったが、それは彼のすることではなかった。彼は余りを、ただし重要な「余り」をのこしてゆく。それは重りになって、私にそっと再考を促す。採光とも云えるその作業が、私は好きだった。彼の言を受け取って、そしてそれを大切に思い浮べてはその内に含む彩光をゆっくり認識するのである。


先程の言も同じく私に深い余地を残していた。彼の文脈から、きっとそれは、本を、…いや本に限らず、経験として得た教養、知識が、その人の言葉で直接表現されていなくとも、目に見えぬ雰囲気に豊富な色を与えるという事なのであろう。

ゆっくりゆっくり反芻する。私は物分りが良い方でも無く、寧ろ不器用であった。其れだから余計に、彼の言を受けて、このゆっくりと浸透させていくような見解をまっすぐに重ねていくこの時間が、タスクが、好きなのであろう。

そう思うと、図らずも、私の不器用さと、彼の言葉の少なさ、全てを含むような大きな意味合いのあるような、しかし決して長くない言葉、…それは、綺麗にとは言い切れないものの、相補うように二者一体の観を成しているのではないか?

…なんて、私はちょっと、はっと気づいたような嬉しい気分になってしまった。


彼は、気付けば私を見ていた。その視線に気付いたのは、彼が言葉を発したからであった。それほど私は思考に没してしまっていた。少し声を洩らすような優しい音で問うてから、彼は「なんだか、すこしうれしそうに見えるね」と、私の表情を横に覗きながら口にする。


私はそこまで表情にふと、思いが滲んで出てしまっていたのかと自省のような念に駆られた。というよりは少々、一瞬、心象を見られたような錯覚に陥って極まり悪くなったのだ。考えていたことが、何より彼に係わりのある事であったから。

言葉による接点が少ないから余計、私は、私の存在や行動が図らず少しでも彼に近づけると言い様の無い歓喜が内に興った。それは自然なことであるようにも思えたが、だが一方で、あまり近付き過ぎてはいけない、乃至多くこれ以上知っては、……と、警告が何処からともなく、…奥底の意識が、そう発するのも事実であった。彼は実際に霧だか、見えない層だか、空気の違いだか何かをその身に、無意識にであれ纏っているような雰囲気であった。確かにそこに居るのに、ふとそれを意識すると、本来は遠くに居る人の様に思わせられる。


…彼は一体、誰なのだろうか?何処に居たのだろうか…

それは私に取って、誰に禁止されてもいない禁句でもあった。私は自らそれを聞くことを自分に拒否した。追ってはいけない、余り纏わりついては、しつこくなってはいけない、彼の妨げになってはいけない、彼に邪魔に思われたらきっと私は二度と彼に顔を向けられやしない、…そんな念が奥底で確かに渦巻いていて、それを、取るべき距離を守るという、即ち一歩二歩も手前で抑えておくという、その行動によってずっと私は封じてきたのだ、守って来たのだ。私は知る事が恐ろしい。それは事実であったが、あまり直視するのも易い事では無かった。誰にでも、背けているものはあるものだが。…彼にとって、それは過去の「抱え物」であるだろうか。…これも、「訊いてはいけない」事に属するのだが、…私は余計、自分を思うと余計に、その抱え物に、今は少なくとも自分からは触れてはいけないと、一層そう認識を明らかにするのだ。

況してやこれ以上の疑問は私の直観の警告に強制的に切り上げられる。


彼とのぼんやりした、しかし有意義な時は、全てを口にしないという、謂わば煙に巻いたような曖昧さによっても、しっかりと支えられていたのだった。


私は、彼の先程の言葉に、そうですか、と無難なことを返し、「なんだか、含蓄のあるお話をされるからじゃないですかね」、と言った。「考えるのが、好きなので。その余地が貴方の会話には充分あるんです」


彼は、じっと、ひとつも動かずに、言葉を呑み込むと、きっと頭でゆっくり次の言葉を整えていたから一拍置いて、うん、「僕は本来、口数の多い方じゃないからね」と。



「良く言われた、僕は何もしてないように見えるって。」

彼は、そういっていた人たちにひとつ食らわせる様に、珍しく物言いたげな顔をして、その言い分を口にした。

「でも、僕だってやるべき時は、やるんだよ。自分には、信念があるから、信念に真っ向から反対する人には、僕はひとつも容赦しなかった」


口数が多くて、意見をコロコロというよりひょろひょろと替える人は寧ろ弱々しい頼りない人で、すぐ襤褸が出る。


そう言って少しだけ下方を見た彼の横顔は、そのような人を思い出していたのか、ちょっといつもよりも変化が窺えた。きっと何か思い出している。その口調からするに、彼は実際にそのような人と関わったのだろう。だがこれ以上の穿鑿は私には無用である。彼についての知識が無い限り、私にはどう考察しようも無い。

…ただ、そんな彼を見ながら、私はふと思い出した。

私が以前伯父さんの話をした時、少し彼が、…何であったか、軍人であったなら、等と言ったような記憶が、今現在の私の意識を引いた。

その時は気にしていなかったが、彼はそのとき真っ直ぐに私の目を見ていた。いやきっと私の目を通じて、彼の知らぬ伯父さんの目を見ていた。真っ直ぐに射抜かれた私の目は、はっきりとそう察した。それほどに彼の瞳に映る心情の揺れは何時もよりも顕著であった。それは揺れていてもしっかりと、寧ろ真っ直ぐにこちらを見ていたのであった。


私は僅かながらに、彼についての情報の断片の端を確かに得ていたのであった。ただ、見過ごしていて、忘れてしまっていた。それだけだった。けれど、それ以上にやはり探りようも考えようも無かったから、これによって私が彼に抱く印象など変わりようがない。これまでもこれからも、彼はぼんやりとした何処か、好意的な浮世離れをした人として私の脳裡に浮かび、のこるだろう。それは現状を好んでいる私にとって、縋るような安定を与えることであった。


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