第4話

君の好きなものは何だい。


…私は彼のその言葉をもう一度頭でゆっくり繰り返してから、漸くその意味を現実的に理解し、そして考えた。

彼が自分から私のことをふと、聞いてくれることはめったに無かった。この、「踏み込まない」という要素が、私たちの一見妙な、しかし安定した前提を形作っていたとも言えたから。

しかし、前を向きながら横の彼に問われたその事は、私にとって他でもない歓びであった。「好きなもの」。それを語る際は自然と前向きな気分になる。別に踏み込まれたくないような話題でもない。


…好きなもの、か


私は、問われると妙に言葉が出てこなかった。それは質問者が彼であったからだ。彼への言葉は誠実で真っ直ぐでなければならない、そんな気が無意識に生じていたからだ。

…それを踏まえてふと回想してみる。私は、自然が好き、もっと言えば、清涼な風が吹き抜ける、この瞬間が好き。…海に面した時の特有の、明るい町の雰囲気が、何とも言えぬ安らぎを感じさせる。その、海が運んでくる気配が好き。

そして、…そして、ここで浮かぶ物が一旦途切れてしまって、ちょっと考えてから、「本が好き」という自分の言葉が心に浮かんだ。それは、あまり意識したことは無かったが確かな感情であった。

だからその一連を彼にぽつりと話した。…どうもすがすがしいような気分であった。


彼はひとつ間を置いて、ゆっくり頷くと、…いや、実際動きとしては頷いては無かったのだが、確かに雰囲気から頷いたことを察した…、そして、うん、と相槌を打った。


「それはきっとみんなが好きなことだ」


彼は言葉を続けた。


「だけれども、僕が好むひとの括りとしての、みんな、だけれどね。僕はそういう人となら忌憚なく話せる」


…いや、本来、同じ人である以上、心を持っているに相違ないのだけれど。

そう言って、彼はちょっと力なく笑った。笑ったというより、少し無理に表情を変じさせようと試みた。一瞬だけの作り笑いは、しかし作った表情ではなかった。彼の内側の葛藤と諦念と、そこに対する惜別に似た一瞬の情が、外側にそっと零れ出たのだ。それだけであった。


「そうですねえ」、と頷こうとして、しかし私は、「私も、誰だって人の心は持っているものだと、そう思っています」と図らぬ長文を口にした。


彼は相変わらずゆっくりと、全く焦らぬ様子でじっと私の言葉を聞いてから、これものんびりと、「うん」とだけ音を口にした。


…しかし、言っても伝わらぬ事は案外、多々あるものだよ……、

彼は珍しく教訓めいた、一般論めいた調子でひとつ、注意深く私に伝えた。その眼は私を見ているような、どこかに目線が投げられているような、不思議な感覚を与えた。

それから私たちは図らずして間を置いた。いや、自然と間ができた。間と言うか、ゆっくり咀嚼して意志を省みる時間。私たちはいつもそうして会話を重ねていた。


彼はきっと何かの例を思い出している。伝わらなかった例を。人を信じるという一般論を語る時、我々は武勇を手にしたような直向きな直情を湛えた思考に錯覚させられるが、しかし同時に、一度自らに奮わされた人は思った以上に強情で、彼らを止める事には策略、戦略、最早才能をも要する事がある。

そうなると話も出来やしないのだ。「話の分からぬ奴だ」などという言葉は、そうでないと生まれてすら居なかったのだろうに。


でも私は、靡かされやすい性格も相俟ってだろうか、自分の話が通じないとはっきり思った記憶はそこまで無い。少なくとも今すぐに思い出せるような記憶はない。

だから彼はそんな私にひとつ、警句を発したのだ。これから無知による更なる衝撃を少しでも抑えようとするために?それは考え過ぎだろうか…。

よく分からない私は、風の音に紛れて、耳に残った彼の言葉を思わず繰り返していた。「言っても伝わらない事…」。もう一度風が吹いた。図った様な、しかし穏やかな風だった。


「そう、だけれど、君は、それでも、自らの正しいと思ったことを、どんなに他者が他の事に執着しようが、失わないでほしい。

君のたしかな見解で正しいと信じたことは、末まで正しい筈なのだから」


僕は正しいと信じたことを、ばかだと言われようが、ちゃんとしっかり持っていた。僕にはそれくらいしかできなかったから。でもね、ずっと揺るがなかったし、だから、さいごの最後には、誰にもとは言わないが、ちゃんと認められた、結局はこちらに、帰したんだ


…少し、手遅れでもあっただろうがね、…と、最後に付け加える様にふと呟かれた語尾は心なしか少しだけ、潤んでいたような、揺るいでいたような心地を耳辺に感じさせた。しかしそれは私の気の所為とした。

彼にしては少し走った物言いだった。実際、少し気持ちが前に逸ったのかもしれない。そんな気がした。だけれども、変な気はしなかった。寧ろそれが、人として、彼の感覚として、正しい気がしたからだ。彼はきっと、それを、その出来事をずっと心に抱えている。抱えているのは、……私も何か、過去においてそんな、ずっとどこか心に思う出来事を持っているけれども、しかし彼のその抱え物は、どうにも大きいように私に思わせた。私に思わせたそれは、彼に秘められた抱え物そのものだった。その存在が、何も知らぬ、彼の前提を知らぬ、私にさえ感ぜられた。

大きな「過去」。言ってしまえばそれで言葉を終わらせられる。しかし「過去」と一言で言うには、彼にしてもどうも大きすぎる、そんな気が私に起こってしまった。

別に、問いただす気は微塵も無い。しかし、…在り来たりの言い方だが、だが私は妙に惹かれる物がそこに在る気がして、…だが、そのことは私が訊くことでない、彼を、その過去を知るものでない、と理性がちゃんと警句を発した。私はその「正しい」と思われる感情に従った。彼を、彼の、折角今に穏やかな表情を残してくれている彼を、過去の錘で掘り起こしてはいけない。きっとそれは、丁寧に起こせるものではない。少しずつ、正当でもない乱暴な開け方をしてしまう。きっとそうだ。私は絶対的信用の置ける器用者でもない以上、此処に踏み込んではいけない。


彼の横顔は哀愁か愛郷か、分からないけれど、そんな望郷的な雰囲気を匂わせるほどに、儚い目線を投げていた。彼の目の先には青空が向かう。何を思っているのか私にはてんで見当もつかないが、ただし目線だけは、空のような遠い所に、はっきりと向けられていた。


「私は、貴方に言われたことを、ふと大事な時に思い出すんでしょうね」


私は無難ながらも、心に浮かんだ真実の言葉を彼に伝えた。彼の核心には一切触れぬように。


…君は、


空を見ていた横顔がそう言葉を紡いだ。


「君は、強いんだね」


きっと、強いよ。次のその言葉は、私を見て確信めいた様子で伝えられた。

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