第3話

私は彼の、温かく俗を超えた様なさらりとした、しかし流れの良い重みのある喋りが好きだった。

今日も私はあのベンチで、待ち合わせても居ないのに彼と逢い、他愛も無いことを交わしあうのだ。それが、今の私の安らぎであり、縋る事の出来るような安泰。


彼はよく遠くを観る。まるで深みを透して視るような、優しくも確実な視線を、彼の瞳はその時にいつも湛える。彼は嗚呼私などよりも長く長く生きたのだ。私の軽い足ではまだ及ばない処を。深く長く留まったのだろう。そこが何処かは知らないけれど。


私は「そうだね」と微笑む彼の横顔を盗み見た。私の、「いい天気ですね」に対する言葉だった。常套句のようなやり取りでも、彼は本当にそう思って「そうだね」、と返したんだろうな、と勝手に思う。

彼の言葉には重みがある。一字一句に意味が入っていて、慎重ですらある重みが。

私はそれを汲み取ろうと思った。言葉は、いくら発信者が意味を込めようと、最終的に受け取る方がそれに相応する意思を合わせねば、結局は伝わってはいないのだ。私は、彼の誠実で慎重な言葉をなるべく受け取ろうと思ったのだ。それは私の意識をより頼り甲斐のあるものにさせた。感性が、彼といるときは変わったのだ。見過ごしてしまうような一時の一句に、深意を見る事ができる。

きっと、私が受け取れる情報は限られていて、私がどう頑張って彼の意を察そうと、彼が発信時に込めた思いのすべては私には深すぎて読み取れていないんだろうけれど。


それが、長い時を生きた、人生の重みが生み出した「差」であるのだろうか。

その差は鎖となって私を絡めてしまう。私は、隣に居る彼といる時間がとても、代えようのない、特別なものだと思っているけれど、それは、彼がきっと私の持たない深い重鎮であるからだ。私は彼を仰ぎ見る。文字通りでもあれば、心情でもそうであった。私は常に先、上、…を見ているから、先に進む人を目の当たりにしているから、なんとなく安心しているのだ。彼は、確実に私よりも先を進んだ。年であれ、経験であれ。それは敬謙に近い心情を引き起こすのに十分だったが、しかし彼は更に特別であった。不思議な、一切私の触れ得ぬような別世界を纏って居るようだった。実際、彼の過去を私は知らない。彼が振り返ったらその先は私には知りえない。彼は私の過去も知らないが、しかしそれとはまた別の、計り知れぬほどの隔離が彼と現在の私にはあるのだ。


彼が一体何を抱えているのか、知らない。なぜなら彼はいつも前を向いて、時には横を見て話すからだ。今に相応しい話ばかり。現状に対する感想、「花が綺麗だ」「風向きが変わったね」、そんな話。


もしかして過去を話したくないんじゃないか、という類の憶測は封じていた。私はそれを自分で封じていた。なぜなら私の身の内だけで彼を評定してしまうのは余りにも自分知らずで身の程知らずに思えたからだ。勝手に洞察されるのは彼は決して望まない事だから。


「ああ、風が…、向こうからだね」


向こうと言えば、海だね…、海からの風だ、――。


ほらこうして、今の話。今現在の話だ。彼は今日も例に洩れない。風がふわりと彼の頬を撫でてゆき、空を仰ぐと少し遠くの木々の葉が揺れて、空気を揉んだ音がする。

彼は風の吹いてきた方向を一瞥すると、そんなことを言った。「こころなしか、爽やかな波を運んできたような好ましい風だね」。


「そうですね、海風ですかね」

「ううん、さあ、どうだろう」


私が拙い言葉で同じて、それからなんとなく問うと、彼はよく考えても居ない様子で返した。彼はたまにこうして確言しない。それが彼の一定の波長を性格づけているのかもしれない。さてどうだろう、といって、私に預ける。否、それは私でなくてもよい、聞き手になんとなく問いを優しく預ける言葉だった。この世の聴衆に最後の判断をそっと託すのだ。


彼はベンチに背をあずけて、前を向いたまま、風を聴く様に目を閉じた。それから息を吸って、

「……海か、」

とささやくように零した。


気付けば私は、その横で、「海、私も好きです」と言った。彼は一言もそんなことを言ってはいないのに、何故か「も」を助詞として選んでいた。風を通して波を感じる彼のその様子が、どうも、そのように思えたからだった。


彼は、ゆっくりと目を開けて、ちょっと間を挟んでから微笑みを湛え目を細めると、

「うん、そうだな、…好きだな、」

…僕も。……僕も、海と、ずっと一緒に居たからね。もう、しばらく離ればなれで居たけど。

――と、言葉を選んだ。それを聞いた私は、彼が沿岸の生まれであることを可能性として思った。さてそうかどうか知らないけれど。


「やっぱり、…好きなんだな、僕」


彼は自分に笑い掛ける様に笑みを零して首を少し傾げて、今まで正面を見ていた顔をほんの少し伏せ、自らに確認するかのように言った。それは殆ど自身に向けられた独り言だった。

その笑みは私にとって初めて見た類のものに思え、少しの間私は言葉を奪われてしまったように感じた。彼は私を見て、「やっぱり、好きなことにはかえられないね」、と呟いた。

その言葉が何を意味するのか、私はひとつ、はて、と思ったが、結局は言葉の意味そのままにだけ聞き取って、ただ首を傾げながら微笑みで返した。


風がもう一つ吹く。公園の時計は、私たちの穏やかな時間を示して佇んでいる。木々が、彼に応答するようにやわらかな音を静かに、彼の耳に届ける。

この音は、私には察知し得ない意味の音を含んでいて、それは彼にはちゃんと届いているのだな、とぼんやり私は思った。


ふと彼を見ると、先ほどの言葉を聞いたからか、なんだか途端に、海が似合うような気がしてしまった。私も案外に単純らしい。きっと「空が好き」と言われれば、空が似合うななどとその時はそう思うのだろう。

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