登場人物紹介SS 【渡辺春馬】一条家庭師はバイオリンが弾けます
二階の窓からきこえてくるたどたどしいバイオリンの音色に乗って植木の手入れをするのが、庭師としてここに雇われるようになった春馬の日課だった。高音域を重厚に奏でる生音は、春馬にとってとても懐かしい響きで、幸せな心地になると共にどこか物悲しく切ない感傷的な気分になった。
春馬がまだ幼かった頃に父親は小さな商社を興し、そこそこの成功を収めていた。父はバイオリン教室に春馬を通わせたがった。音楽、特にクラシックなど大して理解しない男だったが、バイオリンは「金持ちの子供の習い事」というイメージがあり、自分が金持ちの仲間入りしたことをより強く実感したかったのだろう。子供ながらにそのことをよく心得ていた春馬は、これ見よがしに父の前でバイオリンを鳴らしては、好きな曲を好きなように弾いてやるようになった。父はやはり音色の違いや弾き間違いといった巧い下手は何も分からなかったが、幼い春馬が慣れたように弓を構え、バイオリンで何かを堂々と弾いているだけで、もう十分満足しているようだった。
春馬は鋏を下ろしふうと一つ息を吐いた。日は傾き始めたが、庭の手入れはまだまだ終わらない。金や銀をペタペタと貼り付けるように見栄を張りあってばかりいた成金の父と違い、由緒あるお家柄のここ「一条家」の広大な敷地には、和洋それぞれの庭があり、その手入れの仕方にも受け継がれてきた秘伝の技の歴史があって、時間がかかる。そういった目に見えないものこそに心血を注いでいることを、ここに来てからというもの事あるごとに実感する。日頃きこえてくるバイオリンの音も、楽曲の演奏というよりも、運弓の練習のための全音符ばかりだ。土台となる基礎を作ることに、しっかりと時間を割いている。それはつまり、一時的ではなく、長期にわたり奥深くまでバイオリンを習わせるだけの展望があるからだとわかる。ここのお嬢様はまだ小学生でありながら、もうこれだけ見事な音を響かせられるなら、さぞ素晴らしい奏者になれるだろう、と春馬には予感させられた。数年前の自分が音楽大学で直面した高い壁を思い出し、苦々しくなるほど、彼女の響かせる音は美しく、正しかった。父の会社が倒産して、春馬が音楽の大学に通えなくなったとき、音楽の道を諦められたのも、その壁が高かったからだ。
しかし、彼女の音色はいつも急に途絶えてしまう。決まって、ギャーッという金切り声のような不協和音と共に。
それが、従順な正確さ、決められた美しさのみを求められる彼女の悲鳴ともいえるものであったと春馬が知ることになるのは、もう少し後のことである。
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