登場人物紹介SS 【矢取暁】ご主人様のために死ねたらいいのに
「勝己様、あと三十分程で出発のお時間です」
懐中時計をポケットにしまってから暁は大食堂に入って、長テーブルでまだ食事をとっている主人・勝己にそう伝えた。
「急がなきゃね」
勝己は栗色の髪を揺らして頷くと、ナイフとフォークで分割したパンケーキをぱくぱくと口の中へ放り込む。
勝己は今朝急にパンケーキをどうしても食べたいなどと珍しくわがままを言い出し、朝食の用意を進めていた使用人一同を困らせた。本人は、言ってからやはりすぐに我に返ったように「なんてね」と取り消していたが、暁は構わず厨房に駆け込み、無理やりその要望を通してみせた。ここのところ、勝己のスケジュールは分刻みに埋まるほど過密で、全くと言っていいほど自由がなく参っていることを暁は理解していた。お抱えのシェフに、どうしてもとメニュー変更をお願いし、量を調整しなおしてもらい、どうにかパンケーキを朝食に加えることに成功。暁は誇らしい気持ちでいっぱいで、給仕役に代わって自ら給仕したというのに――
勝己は浮かない顔だった。
なぜだろう。
その理由がわからなかった。主の希望を叶えるためになら、どんな無理も通してみせるつもりだ。それが矢取家に生まれた自分の誇りであり、生きる存在理由そのものだ。あとはこれで、主の喜ぶ顔をみるだけだったのに。
「はー……。申し訳ないことしちゃったよ」
勝己はそう言うと残りを急いで食べ、席を立ってしまう。暁は慌てて後を追いかけた。
邸の使用人に迷惑かけたと感じた時には立場も関係なく謝りに行くような、そんな優しい主人だからこそ、暁はついていきたいと思ったし、幸せにして差し上げたいと思っていた。しかしどうだろう。自分の用意したケーキを、おいしく食べてもらえただろうか。厨房に出向いてシェフに頭を下げている勝己は、今、幸せだろうか。
(違う。幸せなのは……僕だけだ)
気が付いた。自分の使用人としてのエゴを押し付けて、そんな主人を困らせてしまっていることに。関わる使用人全員のことを想ってくれている勝己なのだ。わがままを押し通すことなんて、望んでいなかった。
あなたに、僕はいくらでも尽くしたいのだけれど――。
(そうだ)
一昨日、深夜にくたくたに疲れて辿り着いたホテルのルームサービスで勝己がパンケーキを求めたのだが、取り扱いがないと断られてしまったことを暁は思い出した。勝己は結局おにぎりだけでいいと言ってそのまま眠ってしまったし、そういえば昨日だって、パンケーキ屋の長蛇の列をやけに眺めていたと暁は記憶を蘇らせる。
自分から声をかければよかったのだ。誰にも迷惑かけないタイミングを見つけた上でその時に「甘いものでもいかがですか?」と。勝己が言外に無意識に望んでいるものを、予想して、先回りして、勝己の人格を尊重した形で提供する。時に空振りに終わるかもしれないが、それで困るのは勝己ではなく自分だけになるように、断りやすく加工しておくのも忘れずに。
自分のために主人が存在するのではなく、主人のために自分が存在したい。暁には勝己に対し、そうしたいだけの想いがあるのだ。その想いは、想いをくれた人のために使いたいから。
理想の執事には、まだまだ程遠い――。
こんな自分でも、傍にいさせてもらえていることに、申し訳なさと感謝の念が沸き起こる。
暁は勝己のことで頭をいっぱいに満たしてから、気を引き締めて前に進み出た。
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