第2話 新橋さん
新橋さんには、夢があった。
これまで、いぬ社長にしか話したことはなかったが、去年の末の忘年会で口が滑って、ついつい小一時間語ってしまったときは、恥ずかしくて翌日死にそうになった。
仕事中でもオフの時も、青い顔をしていると、一年前まではいぬ社長にめちゃくちゃ吠えられた。
でも半年前にいぬ社長が歯と足を悪くしてからは、吠えてくれる人が居ないので、どうにも調子が狂う感じがする。
昨日も外回りの途中、契約が取れずに落ち込んで居たのだが、同僚の女性の良く分からないテンションにより、近所の楽器屋に押し込まれた。
楽器屋の、ねこ店長は学生時代から馴染みのある優しい人だったので、最近入荷したギターを試しびきさせてくれた。
アコースティック・ギターの和音とは、誰が弾いても、いつでも同じ記号なのに、なぜこうも弾く人やテンションによって、固有の音となるのだろう。
新橋さんは、その不思議でちょっと物悲しい音色に、少年の頃から寄り添ってきたのだった。
いつの日か、またステージに立ちたい。自分が育ってきた大好きなこの町で、ふと足を止めて懐かしさに聞き入るような、そんな音を奏で続けたい。
そのために、自分の生活費と仲間のギャラ、ステージ代は払えるくらいの蓄えを作りたかった。
一体、いつまでかかるんだろうね。18歳から25歳までに作った借金を返しながら、靴底をすり減らす3年間。
いつまでも成果給が作れない自分に苛立ちというか情けなさを抱えつつ、それでも今日も念入りに靴を磨いた。
さて、今日は継続で受注をくれる古いお客さんの会社からの帰り道にまた、ねこ店長の楽器屋に寄ることにした。
ねこ店長はカウンターでニャアニャア言いながら、また今日も来たのと一瞥し、また毛繕いに精を出し始めた。
ねこ店長は熱いものが駄目なので、自販機から牛乳を買って目の前にお供えし、
何となく試聴機のヘッドホンを手に取った。
試聴機の向こうの棚では、中学生くらいの男の子達が押しくら饅頭を繰り広げている。
何か嫌だなあと思いつつ、ちょっと若さが羨ましかったりもして、モヤモヤしながら選曲ボタンに手をかけた。
すると、少年達がバランスを崩したと思ったら、前のお客が中途半端に差し込んだCDがいくつか、ぱたぱたっと軽い音を立てて新橋さんの目の前に落ちた。
少年達は拾い集めるよりも先に、誰が原因か、誰が拾うかの議論を始めた。
新橋さんは、やっぱり羨ましくないなと思いながら、大人しくCDを棚に戻した。誰のせいか、だって?起きてる問題をないがしろにするな、自分が拾えば良いじゃないか。あほらしい。
少年達は駆け寄ってきたねこ店長に一喝されて、すごすごと店から出ていった。
落ちたCDのうち最後の1枚は、少年達と入れ違いに入ってきた、新橋さんと同じくらいの年の、丸顔の男の人が拾ってくれた。
ピチピチのシャツを着て、年代物のギターを背負っている。
「ああ、ありがとうございます」
「店員さんですかあ」
「いや、違います」
「あー、すんませーん」
彼は軽めの関西なまりで冗談の様に聞いてきたのに、思わず生真面目に答えた自分が、何だかちょっと恥ずかしかった。
関西風の彼は特に気に留める事もなく、続けざまに質問を投げ掛けてくる。
「この辺の人ですか?」
「ええ、まあ地元ですね」
「あ、ほんま? 俺この隣のライブハウスで来週ひくんで、良かったら聞きに来てー、ほら」
彼は新橋さんが同年代と見るや、いとも簡単に敬語の壁を乗り越えて、半ば強引に公演情報の書いた白のペラ紙を押し付けてきた。
「絶対感動するから!友達誘って見に来てやー。あ、なんやここの店長ネコやないかい。指のある店員さん出てきてー」
そう言って、むき出しのギターを抱えて奥まで行ってしまった。
ヒョコヒョコと大きなギターを抱えて狭い店を移動する彼の後ろ姿が、何だかとても楽しげで、試聴機から流れる流行りの音楽よりも、
彼の抱えた年代物のギターの方が、熱を持った生き物の様に思えたので、
新橋さんは無性におかしくなって口元で笑いを堪えた。
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