第1話 上野さん
上野さんは、いぬ社長の身の回りの世話を丁寧に済ませると、いぬ社長から社員さんへの連絡メールを回したり、手際よくネット銀行への振込みの処理を行った。
上野さんは、年頃の美人さんだった。ずーっと一緒に居るいぬ社長がいぬじゃなかったら、もしかしたら女性として好きになっていたかも知れない。
5年前に上野さんがこの四畳半にやって来たとき、引き継ぎをしてくれた男性は、何度か上野さんを食事に誘ったらしいけど、ついに良いお返事は聞けなかったという。
「お手紙出してきますねっ!あと晩御飯のお買い物も!」
上野さんは玄関に綺麗に揃えられたつっかけに足を入れると、タタタッと軽快に扉を空けた。
いぬ社長がわんっと返事をすると、暖かな外の光が室内に差し込んできた。
かちゃり、という鍵の音と共に、上野さんは郵便局に向かってカツカツと靴を進めた。
郵便局に行くと、職員の神田さんが丁寧に挨拶をしてくれた。
上野さんは大きめにまとめた自分のお団子頭をポンポンっと叩きながら、ペコリと頭を下げた。
お手紙は、本当はいぬ社長が直接送らないといけない内容証明という面倒な手順を踏むものらしいけど、神田さんはツルツルのおでこを筋ばった手で時折キュッキュと磨きながら、慣れた様子で仕事を進めてくれた。
上野さんはキュッキュという音がいつも気がかりではあったが、いつも親切に分かりやすく説明してくれる神田さんの仕事ぶりがとても気に入っていた。
上野さんは神田さんにお礼を言うと、弾むような足どりで、次の目的地に向かった。
。。。
くるくるといつもテンポの良い上野さんは、今日もタイミング良くセール品をゲットしつつ晩御飯の買い出しを終えると、商店街の飲食店は準備中の看板を下げて、
香ばしい匂いを漂わせ始めていた。
「お腹すいたな」
上野さんは先程スーパーで晩御飯と一緒にこっそり買ったシュークリームを食べようと、いぬ社長の四畳半オフィスと商店街の間にあるベンチに足を運んだ。
ふと見ると、風にそよめくつる草のカーテンの下で、見慣れたシルエットが岩のように固まっていた。
「あ、新橋さん、こんにちは!」
上野さんがハイトーンな声のパンチをくらわせると、新橋さんと呼ばれた男性は一瞬、ぴくっと肩をすくめた。
上野さんはこう言うときに声色を変えないように気を付けながら、続けざまに声を打ち込んだ。
「良い天気ですねー!あ、靴新しいですね」
「はあ」
「なかなかシャープでカジュアルに決まってますね!」
「ありがとうございます」
「そんなおしゃれな靴だったら、外回りもばっちりですね!」
「そうでもないです」
「そうでもなかったんですか。まあ、そんな日もあります。ほら、シュークリームをどうぞ」
「いらないですよ」
新橋さんは整髪料で固めた頭を力なく振った。
上野さんは当初から、新橋さんがシュークリームを受け取らないだろうなと思っていたので、一度差し出したシュークリームを、新橋さんの気が変わらない内にシュッと引っ込めた。
「そうですか!そしたら、ギターで一曲ひいてみたらどうでしょう?」
「ここにないですよ」
「そこに楽器屋さんがあるじゃないですかー」
「いや、まあ、ありますけど」
「やってみましょう!ほらさっ、ほらさっ、早く行かなきゃ閉まっちゃいますよ!」
「聞いてくれますか?」
「また今度聞きます!」
何やら落ち込んでいた新橋さんは首を傾げながら、近所の楽器屋さんに自分の足で歩いていった。
その様子を見た上野さんはやれやれと言いながらベンチに腰をかけると、
ふかふかのシュークリームの包みをばりっと開けて美味しそうにかぶりついた。
続く
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