Michel

 この地では林檎という果実は神しか知らなかった。神に最も近い天使でさえ、その存在を知らない。その果実は神殿の中庭〈エデンの園〉にしか生えておらず、まるで封印されているかのような扱い方をされていた。


「兄さん。今日は北欧の神様がこっちに来るそうだよ」

「アースガルズからわざわざ何しに来るんだろうね」

 双子の天使——ルシフェルとミカエルは花冠を作りながらそんな他愛のない話をする。

「北欧の神様ってどんな人なんだろうね?」

「きっと美しい方達だよ」

 二人は花を摘んでは器用に編み込んでいき、華やかな冠を作っていく。

「「できた!」」

 ほぼ同時に2人の花冠は完成し、お互いに被せ合うが、ルシフェルが作った花冠は大きかったようで、ミカエルの頭をすり抜け、首元へと落ちてしまった。

「兄さんはツメが甘いなぁ」

 楽しそうに笑いながらミカエルがそう言うと、ルシフェルは作り直すと言って、優しく花冠をミカエルから外す。その時、ルシフェルは弟の向こう側にある木の下から、何者かがこちらをじっと見ていることに気がついた。翼がないので神であるのは分かるのだが、見たことが無い神なので恐らく北欧の方の神だろう。しかし、彼らは今神殿の方にいるはずだ。

 もしかしたら迷ってしまったのかもしれないと、ルシフェルは思い、立ち上がって見ず知らずの神へと歩み寄る。弟のミカエルも後について行く。

「あの、北欧の方ですか?」

 神へと近付くと、ルシフェルはそう声をかけた。すると、神はまだ幼い双子の天使を見下ろし、ルシフェルが手に持っている花冠に目を止める。

「綺麗な花冠だ。どうだろうこの果実と交換してくれないか?」

 そう言って神は懐から金の果実と、赤く熟れた果実を取り出して二人に見せる。初めて見る果実に双子は興味を唆られた。

「これは林檎という果実でね。とても甘くて美味しいんだ」

 神からの交渉を双子は快諾し、花冠と林檎を交換した。

「貴方はなんと言う神なのですか?」

 ミカエルの質問に神は少し考え込んだ。そして楽しそうに口元を歪めると

「神なんて名乗れる程の者でもないさ。ただの道化だよ」

 と答え、二つの花冠を頭に被ってその場を去っていった。残された双子は受け取った林檎を2人で分け合う事にし、それぞれを二つに割って食した。

 金の林檎はとても瑞々しく、ほんのり甘くてさっぱりとした味だ。赤く熟れた林檎は歯ごたえが良く、蜜が多くてとても甘かった。

 双子が食べた林檎は、金の林檎が北欧に伝わる不老の林檎。赤く熟れた林檎は彼らの神の神殿の庭にしかなっていない、〈善悪の知識の木〉になる林檎だった。双子はそんな事とは露ほども知らずに口にしてしまった。

 二つに割られた赤い果実は〈善の知恵〉と〈悪の知恵〉にそれぞれ別れてしまい、〈善の知恵〉を食べたのはミカエル。〈悪の知恵〉を食べたのはルシフェルだった。

 この日を境に、仲の良かった双子は衝突する事が多くなった。ミカエルはルシフェルの行動が理解出来ず、ルシフェルもまたミカエルの行動が理解できなかった。ルシフェルは以前のような純心と優しさ

を失い、強欲で怒りっぽくなった。ある時、神は人を作り、天使達に人の方が地位が上だと言った時、ルシフェルだけが怒って異を唱える事もあった。

 二人か最高位である熾天使に昇格した頃、ルシフェルは自分より下級の天使を誘惑し、己の悦楽の為に殺害した。柔肌を裂き、翼を折り、普段聞くことの無い天使の可愛らしい悲鳴を聞き、ルシフェルは鼻血が出るほど興奮した。その時に垂れた鼻血が口に入り、ルシフェルは初めて天使の血が甘いのだと知った。

 それからの彼の行動はエスカレートしていき、頻度も多くなった。ルシフェルは天使の悲鳴を聞きながら、その血肉の甘さを貪ると穏やかな気持ちになれるのがとても心地よくて依存していったのだ。穏やかな気持ちになれるお陰で、弟のミカエルとも穏便に過ごす事ができ、仲の良さも戻りつつあった。


「兄さんが元に戻ってよかった」

 いつかの日と同じように二人は草原に座り、向き合って言葉を交わしていた。違うとすれば、二人とも体も翼も大きくなり、花冠を編んでいないという所だろうか。ミカエルの言葉にルシフェルは目を細めて笑う。

「私は何も変わってないよ」

「そっか……」

 神さえ贔屓する程に美しい兄の穏やかな笑顔を見て、ミカエルは何故か背筋に悪寒が走るのを感じた。その笑みが温かさではなく、冷たさを孕んでいたからだ。この笑みを見た時、ミカエルは自分の知る兄がもう居ないのだと悟った。

「兄さん、最近機嫌が良いけど何かあった?」

「気になる?」

 ルシフェルの言葉にミカエルは緊張した面持ちでこくりと頷く。すると、ルシフェルはさっと立ち上がってミカエルに手を差し出した。

「じゃあ教えてあげるよ。特別にね」

 ルシフェルの手を取りミカエルは立ち上がった。二人は仲良く手を繋いだまま歩き、ルシフェルの住処へとやって来た。以前は二人の住処だったが、ルシフェルが豹変したため、住む場所を分ける事にした。なので、今はルシフェルしか住んでいないのだ。

 ルシフェルに促されるまま、ミカエルは白い石で出来た椅子に座り、同じ石でできたテーブルの上に目をやる。テーブルの上には葡萄や柘榴などの甘い果実が置かれていた。

「私の機嫌が良い理由はこれだよ」

 そう言ってルシフェルはミカエルの前に赤い液体が注がれた杯を出し、飲むように進める。ミカエルは最初はワインかと思って普通に口元へと運んだ、しかし、口は付けなかった。

「どうしたんだい? ミカエル?」

 飲もうとして辞めた弟をルシフェルは睨むように見つめ、なおかつ口調は優しく心配するように問う。すると、ミカエルは杯をテーブルに置き、目の前の兄の姿をした得体の知れない者を見据える。

「ルシフェル。これはワインなんかじゃないだろ」

「……」

「最近、下級天使が姿を消しているのは君の仕業だろ?」

「ミカエル。あの時同じ果実を分けた君も私と同じだと思っていたが、どうやら違うみたいだね……残念だ」

 実に残念そうに肩を落として、ルシフェルはミカエルの前から杯を取り、中に入っている天使の血を飲み干す。

「お前は以前よりも正義感が強くなった。そして私は神に失望し、呆れた」

 険しい表情を浮かべ、ルシフェルはミカエルを眩しそうに目を細めて眺める。無垢なる存在。溢れ出る正義感。今のルシフェルにミカエルという天使は、あまりにも眩しすぎるのだ。

「あの道化は赤い林檎が何なのか知らずに私達に与えたのだろう。あの果実は〈善悪の知識の木〉から取れた林檎。神はこの果実に沢山の知識が詰まっていることを知っていた。だから自分だけのものにしていた」

 ルシフェルの言葉が全く理解できないわけでは無かった。ミカエルは林檎を口にした日から聡明さを正しさを手に入れたからだ。

「この甘い罪の果実をもし、人に食べさせたらどうなると思う?」

「それは許されない行為だ、神が許すわけが無い」

 ミカエルは神に簡単に逆らうルシフェルを恐ろしく感じ、震えた声色でそう答えた。しかし、それはルシフェルの質問に対しての答えにはならず、ルシフェルは呆れたような、失望したような視線を愛おしい弟へと向ける。

「お前はとても忠誠心の強い天使だ。きっと神も誇りに思っているだろうね」

 感情の篭もっていない冷たい言葉に、ミカエルは身の危険を感じた。ルシフェルが動くよりも早く、ミカエルは美しい輝きを放六枚の翼を広げて羽ばたきひとつで遥か上空へと逃れた。

 ルシフェルはあっという間に雲間に消えたミカエルを追いはしなかった。あえてなのか、まだ情があったからなのかは解らない。ただ、追う気が起きなかっただけなのかもしれない。

 上空へと逃れたミカエルはルシフェルが企んでいる事を神に報告した。神は自分の現身である人間に危害を加えようとするルシフェルから熾天使の地位と名前を剥奪し、この地から追放した。この時、ルシフェルが有していた十二枚の翼は燃え尽き、その背中に焼け跡だけを残した。


 それからは平穏な日々が続いた。

 神は人の為に世界を作り、そこで人は自分達の世界を築き、神や天使の加護のもとで強く逞しく成長していった。しかし、その世界も数千年の時を経て寿命を迎えようとしていた。

 神は新しい神に人の為の世界を造らせて管理をさせようと、考えていた。しかし、それは唯一神である自身を滅ぼす結果となる。神は全てを新しい神に与え、ただの人となってしまったのだ。

「無様ですね、そんなに人が大事ですか?」

 全ての力を失った神の前に現れたのは眉目秀麗の天使だった。色白い肌に、白い髪、白い羽を四枚携えた天使だ。しかし、神はその美しい顔立ちとその声に覚えがあった。

「お前はルシフェル……!」

「その名前は貴方が奪ったでしょう? 今はルシファー……あぁ、でも悪魔の方は置いてきたから……弟の名前を借りて堕天使ミシェルとでも名乗ろうか」

 天使——ミシェルはにっこりと笑みを浮かべて悠々とした足取りで神へと近付く。恐ろしいこの堕天使を退ける事は愚か、天使を呼びつける事も出来なかった。

「自身が一番愛した天使に殺されるのはどんな気分なんでしょうね?」

 哀れみの目を向け、ミシェルは素手で神の体を穿ち、心の臓を引きずり出し、かぶりつく。

「……不味いな」

 実に不快そうに眉根を寄せ、心の臓を握り潰す。その時、ミシェルは輝かしい光を目にした。それは生まれたばかりの形を持たない新たな神だった。

「……そんなに人が大事なら、貴方が一番愛した私が管理してあげますよ」

 ミシェルは口元を歪めて笑い、そとその光を大事に抱え、これをどうしてやろうかと思案しながら神殿を後にした。

 神殿からの帰り道、ミシェルは熾天使達とすれ違う。熾天使達の先頭を急いだ様子で歩くのは弟のミカエルだった。

 その凛々しい横顔に、ミシェルは弟が遠くに行ってしまったと感じた。実際に遠くに行ってしまったのは自分自身なのに、ミカエルはそう感じた。それはまだ情が残っているからなのかもしれない。

 ミシェルは抱えた光を手放さないようにしっかりと持ち、四枚の翼を広げて飛び立った。


 人の世界に訪れたミシェルは墓地へと向い、赤子の死体を掘り出した。なるべく自分の好みの顔立ちで、信仰心の厚い親の元に生まれた子供を優先して探す。そして見つけた赤子の死体を、抱えていた姿を持たない神へと捧げる。すると、心の臓が動き、青白い体がみるみると赤みを帯びていった。そして、空気を吸い、まだ発達していない声帯を震わして愛らしい産声を上げた。

 ミシェルは自身の羽から布を作り出して赤子を包むと、今度は裕福で子供に恵まれない家庭を探し、その家の玄関前に赤子を置き、自分の羽を1枚添える。

「君が大きくなったらまた会いに来るよ。悪魔を引き連れてね」

 そう言い残すと、ミシェルは玄関のドアを叩いて暗闇に姿を消した。


 神が居なくなった地は見る間もなく枯れ果て、神殿の庭にあった〈善悪の知識の木〉は朽ちて無くなった。天使達も方々に散り、それぞれ別の神の元に使える事になる。ミカエルと熾天使達は北欧の神の元へと来ていた。理由は、あの時出会った神に協力を仰ぐ為だ。無知だったとはいえ、ルシフェルを悪魔に変えたのには違いがないからだ。

「あの悪魔を作り出したのは貴方と私だ。そして奴は今、私の名を騙って新しい神を攫い、姿をくらましている。私と貴方でルシファーを再び地獄につなぎ止めなければならない」

 と、ミカエルは狡智の神——ロキに話を持ちかけた。彼は出会った当初は自身を道化と言ったが、それは彼の持つ狡智という特徴の為、神というよりは道化のがしっくりくるからだ。

「なるほど……そのような理由では、僕も手を貸すしかないな。林檎の事は何も知らなかったとは言え申し訳なかった」

 ロキはそう言うと、姿をくらましたルシファーを探す事をミカエルに約束し、彼を地獄に繋ぎ止めるまでの間、持てる力を全て貸すことにした。


 それから月日が流れ、赤子が十二歳になった頃にミシェルは再び姿を現した。

「こんにちはソロモン。私は君の事を神から任されているミシェルだ。よろしく」

 無垢な神に人の体を与えた悪魔は、人の世界を支配し、自分を崇拝する世界を作り上げようと企んだ。それが、自分よりも人を愛した神への最高の仕返しになるからだった。


 ここからソロモンとミシェルの長い物語が始まる事となるが、それはまた別の話で語られる事になる。


~完~

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