紫陽花

 「先生」

 声のした方に目をやるとそこには、僕が執筆した原稿用紙を捲る彼女がいた。

 紫 陽花むらさきはるか——それが彼女の名前だ。彼女は僕を担当してる編集者の妹で、兄の代わりに僕を見張りに来ているらしい。が、本当の所は未発表の僕の作品が読みたいだけだと思っている。

 「ねぇ、先生。私をモデルにしたヒロインが出てる話があるって本当?」

 「お前が手にしてる原稿がそうだよ」

 そう言うと彼女はページをめくる手を止め、ゆっくりと口を開く。

 「全てにおいて透明な少女。無垢で、誰にでもその心の内側まで無意識に晒してしまう。……この子がこの物語のヒロインだけど私には似てないわ」

 彼女は不満げに眉根を寄せて頬を膨らます。

「当たり前だ、モデルにしたと言ってもまるっきり同じとは限らないからな。多少の脚色は必要なのさ」


  ジリリリリン


 その時、私の家の電話がけたたましく鳴った。

 きっと担当編集からだろ。

「まだ黒電話なんて使っているのね……今時黒電話なんて先生らしいけど」

 出ないの? と彼女は僕の目をじっと見る。

「出るまできっと鳴り続けるだろうね」

 僕は筆を置き、重い腰を上げて黒電話の受話器を取って耳に押し当てる。

「もしもし?」

『俺だ』

 明るく爽やかな声が受話器からする。兄貴の声だ。

『今日の午後一にお前の所に行くからよろしくな!』

 兄貴は一方的に要件だけ伝えて電話を切ってしまった。爽やかな声とは裏腹にせっかちな所があり、それが原因で未だに未婚者である。

 僕は声のしなくなった受話器を置いて、深く息を吐く。兄貴が来ると思うと憂鬱だ。

 執筆するために部屋に戻ると、読み終わった原稿用紙を揃えてる彼女が目に入った。

「どうだった?」

 彼女に感想を聞く。

「とても良かったわ。特に無垢で透明な女の子の素直な所が。彼女、凄いわね」

 と彼女は楽しげに話す。

「バラバラだった三人が、彼女の素直さに触発されて、だんだんとお互いの気持ちを見るようになるし、自分の気持ちを伝えるようになる。そして最後は家族のような絆が生まれる……素敵じゃない」

 彼女は原稿用紙を僕に手渡すと、にっこりと笑った。

「安心して兄さん渡せるわね」

「そうだね。きっと何度か書き直しさせられるだろうけど」

 苦笑を浮かべて肩を竦める。

「そうだ、午後一に兄貴が来るから何か先にご飯でも食べておこう」

 ふと目に入った壁掛け時計が十一時半になりそうなのに気付き、そういえば腹が減ったなと思った。

「そうね。近くの喫茶店とかどうかしら?」

「いいよ。ちょっと着替えてくる」

 僕は彼女を部屋に残して、インクで汚れた作務衣から私服に着替えるため、寝室へと移動した。

 作務衣からゆったりとした服に着替えると、見た目は大学生そのものだ。二十一なので当たり前だが、なんだか作務衣の時よりも若く見える気がする。

 身だしなみのチェックもそこそこに、僕は寝室から作業部屋へと戻る。

「先生いつもそれみたいな格好でいればいいのに」

 と、彼女は茶化すように言うので

「休みの日に友達と遊ばないでここに来るような君には言われたくないな」

 と、返してやった。すると、彼女はむっと頬を膨らませ、眉根を寄せて僕を睨む。まるでハムスターのようだ。

「さ、行こう」

 財布をズボンの後ろポケットに突っ込み、彼女を連れて作業部屋を出て、玄関へと向かう。

「一人暮らしなのに3DKは大きいと思うのだけど……」

「ひとつは作業部屋、もうひとつは寝室、最後のひとつはお客さん用。三部屋ないと足りないだろ?」

 各部屋を何に使うのか簡単に説明すると、彼女は「確かに」と納得をし、紺色の厚底のサンダルを履き、玄関を開ける。僕もスリッポンを履き外に出る。

 この時期特有の湿った匂と曇り空とじめっとまとわりつくような蒸し暑さが僕達を包み込む。雨が降りそうなので僕は傘を手に取り、玄関に鍵をかけた。

 喫茶店は僕が住んでいるマンションのすぐそばにあるので、行きで雨に降られる心配はなさそうだ。が、帰りの時は分からない。ので、用心に越したことはない。

 マンションの出入口を抜け、歩道を左に行くと、テラス席のある喫茶店が見えてきた。距離にして七十メートルくらいだろう。『喫茶アジサイ』と書かれた看板の横に、ランチメニューが書かれた黒板がイーゼルに立てかけられている。メンチカツサンド、アサリのパスタ、カレーのみっつがランチメニューらしい。

「私はアサリのパスタにするわ」

「じゃあ僕はサンドイッチにしようかな」

 食べるものを決めて、店内に入る。

「あの席にしましょ!」

 そう言って彼女は喫茶店の窓に面している席を指さす。実はこの喫茶店は店に庭が付いており、庭に面した窓から紫陽花を眺める事が出来るのだ。この店がアジサイという名を掲げている由来である。

 椅子を引いて彼女を座らし、僕も席に着く。

「今日も綺麗に咲いてるわね」

 庭に咲いている紫陽花を眺めながら彼女は嬉しそうに笑った。

「ご注文はお決まりですか?」

 席に着くと割腹の良い中年のウェイトレスが注文を取りに来る。アジサイの店長の奥さんだ。

「アサリのパスタとメンチカツサンドを。飲み物はアイスティーで」

「かしこまりました。いつもありがとうねぇ、先生」

 奥さんは一言そう言うとさっさと厨房へと去っていってしまった。

「君が僕の事を先生って呼ぶから、奥さんにまで先生って呼ばれたじゃないか」

「あら、だって作家さんは皆先生って呼ばれるじゃない」

 ニコニコと無垢な笑みを浮かべて僕の反論に返す彼女。

「本当、あんた達仲がいいわねぇ」

 アイスティーを持ってきた奥さんが可笑しそうに笑う。

「えぇ、仲良しよ」

「まぁ、仲は悪い方ではないですね」

 僕と彼女がそう答えると、奥さんはニコニコと楽しげに笑う。

「そういえばあんた達……あ、いらっしゃいませー」

 奥さんがなにか言いかけたが、新しいお客さんが来た為、そこから先は聞くことが出来なかった。

 不思議そうに僕と彼女は視線を交わし、小首をかしげる。


 それから少しして注文した料理が運ばれてきた。お互い食べている時は無言である。

 メンチカツサンドは甘めのソースとふっくらとしたパンが美味しく、僕はあっという間に平らげてしまった。彼女の方を見ると、外の紫陽花を見ながらマイペースに食べている。

 紫 陽花……両親もおつな名前をつけるものだ。と僕は考えた。彼女の誕生日は五月の後半。丁度紫陽花が見頃の時期だろう。なので、彼女と紫陽花はとてもお似合いだ。

 アサリのパスタを食べ終えた彼女は上品に口元を紙ナプキンで拭き、氷が溶けて少し薄くなったアイスティーを飲む。

「……さっき奥さんが言いかけた話。聞きたい?」

 僕がそう話を切り出すと、彼女はストローを咥えながらこくこくと首を縦に振った。少し行儀が悪い。

「多分奥さんは紫陽花の花言葉について話そうとしたんだと思う。君の名前も紫陽花と同じだからね」

「そういえばそうね。だから私はこの花が好きよ」

 それで? と彼女が話の続きを促す。

「紫陽花の花言葉は『家族』っていう意味なんだ」

「素敵ね。確かにあの女の子のモデルは私だわ」

 納得したと彼女はひとつ大きく頷く。が、少し寂しそうな顔をした。

「じゃあ、お嫁さんになったら『家族』ではなくなっちゃうのね」

「花言葉としての意味は無くなるな……でも、家族は家族のままだからそんな深刻に考えなくてもいいんじゃないかな?」

「それもそうね」

 彼女は紫陽花を見つめながらポツリと言った。

「ねぇ、もし私がお嫁さんに行っちゃったら先生は寂しい?」

「……そんな事を聞くってことは、好きな人が出来たのかい?」

 茶化すように言うと、彼女の頬は一気に紅潮し、目を丸くする。とても分かりやすい。

「もしもの話しよ!」

 慌てふためく彼女。隠し事が下手くそだ。

「あっ」

 なんとなく時計に目をやるとそろそろ兄貴が来る時間だった。窓の外を見れば結構雨が降っている。

「そろそろ出ようか」

 恋愛の話はまたの機会にする事になり、彼女はほっと胸を撫で下ろす。相手が誰なのか気になるが、これ以上酷くなる前に彼女を帰すのが先だ。

 僕は会計を済ませ、彼女を連れて店を出た。視界が白くなるほど雨が強い。持ってきた傘を彼女に渡す。彼女は一瞬躊躇したが、申し訳なさそうに受け取り、ばっと開く。

「それじゃあね、先生。兄さんと仲良くしてね」

 ばしゃりと大降りの中に躍り出ると、彼女は屈託のない笑顔を浮かべ、足取り軽く去って行った。

「仲良くね……」

 そう呟いた声は雨の音にかき消され、僕自身にもよく聞き取れなかった。僕も家に帰る為に、大降りの中へと足を踏み出し、来た道を走って戻る。しかし、流石にこの降水量なので直ぐにびしょびしよになってしまった。

 マンションに付き、自動ドアをくぐり、エレベーターのボタンを押して待つ。

「お前っ、なんて格好をしてるんだ!」

 聞きなれた声が耳に入ってきた。声のした方へと顔を向けると、兄貴が立っていた。ちょうど今来たところみたいだ。

「少し遅刻じゃない?」

「俺は午後一と言っただけだ」

 少し時間が過ぎていた事を指摘すると、兄貴は胸を張ってそう答えた。そんなやり取りをしていると、エレベーターが到着し、兄貴と一緒に乗り込む。兄貴はがたいが良いので、エレベーター内が少し狭い。

「天気予報見てなかったのか?」

「それは僕じゃない」

 あぁ、と兄貴は納得した。

「小説は書けたのか?」

「まぁね、陽花にも見てもらったし大丈夫だと思う」

 エレベーターが僕の部屋がある階に着き、降りる。風が吹くと流石に寒い。なのでさっさと部屋に向かう。

 鍵を開けて家に入ると、後から兄貴も入って来て、靴を脱いでダイニングへとやってくる。

「着替えてくるから適当にお茶でもなんでも飲んでて」

 兄貴にそう言い残して、僕は寝室へと着替えに向かった。

 すっかりびしょ濡れになった服を脱ぎ、椅子にかける。そして、今朝着ていた作務衣に着替え、タオルで濡れた頭を拭き、濡れた服を持って寝室を出る。

 洗濯機に服を放り込み、作業部屋から原稿を持ち出し、ダイニングでお茶を飲んでいるであろう兄貴の元へと戻った。

「はい、原稿」

「ん……」

 原稿用紙の束を兄貴に渡し、反応を伺う。普段うるさくてがさつな兄貴だが、仕事となると真剣な顔になるので、いつもそのギャップに緊張してしまう。

 原稿用紙を捲る音だけが部屋を支配する。

「悪くはない。が、これはどちらかと言うと絵本の内容だ」

 兄貴はそう言って原稿を机の上に丁寧に置いた。

「というか、これ……俺達だろ」

「まぁね。父さんと母さんが居なくなった年の僕達がモデル」

「確かにあの頃はこの内容のように、バラバラだったな。俺は社会人に成り立てで、お前は反抗期真っ只中の中坊。陽花はまだ小学生だった……」

 兄貴は昔を懐かしむように目を閉じて深く息を吐く。

「陽花がいなかったら、お前は家を飛び出してのたれ死んでたかもな」

「かもね」

 兄貴の言葉に思わず苦笑を浮かべる。

 バラバラになってしまった僕達は陽花のおかげで元通りという程に修復出来たわけではない。現に僕がこうして二人の元を離れて暮らしているわけだし。

 あの頃は兄貴が僕達を生かすために頑張ってくれた。陽花も我慢したりしていた。けれど、僕だけがそれが出来なくって、兄貴とよく口論になり、殴り合いの喧嘩だってした。しかし一回りも離れてる兄貴に勝てる訳がなく、いつも返り討ちにあった。

「あの頃は色々と我儘言ったりしてごめん」

「今更言われてもなぁ……あの頃はあの頃でなかなか可愛げはあったし、お前の気持ちが分からないわけでもなかったし」

 と兄貴は頬杖をついてにっと白い歯を見せて笑った。

「悪かったと思ってるなら、これを少し書き直して陽花に……妹にたまには自分から会いに行ってやれよ」

「うん」

 今は気まずくて足を踏み入れられないあの家に、僕は入る事が出来るのだろうか……? いや、きっと陽花が、妹が笑顔で出迎えてくれるはずだ。なら、入れないなんて事はないんじゃないか?

 僕は俯いて自問自答を繰り返す。

「……まぁ、とりあえず書き直したら連絡くれ」

 兄貴は俯く僕の頭を少し乱暴に撫でる。暖かく大きな手の感触が心に染みる。

「ありがとう」

 声が震える。

「どんなに離れても。俺達は『家族』だってのを忘れるなよ」

 兄貴の言葉に俺は顔を上げて頷いた。

「またな、弟」

「またね、兄貴」

 別れの言葉を交わすと、兄貴は靴を履いて家を出ていった。そして、僕は原稿を持って、作業部屋に籠る事にした。

 あの家に帰るために。


——紫陽花 ~完~

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