グリムリーパー2

 時間も場所も間違いはない。靴は綺麗に揃えたし、あとは向こう側に行くだけ。

 男は柵に手をかけ、軽やかに乗り越えて、柵の向こうの少し出っ張っている部分に、器用に着地した。

 眼下に広がる大きな河は、昨日の雨で水位が増しており、今は流れも早く、大人でも足がつかない深さになっていてる。

 男は深く息を吸い、少し止めて吐き出すと、両手を翼のように大きく広げ重心を前へと傾ける。

「落ちるつもり?」

 突然かけられた声に、男は傾けるのを止めて辺りを見回す。すると、さっきまで誰もいなかった柵のこちら側に、16・17くらいの少女が腰掛けていた。

 黒いスカジャンに黒いタートルネック、黒いタイトスカート。肩ぐらいまである、柔らかそうなブロンドの髪に、真っ黒な瞳を持った奇妙な少女だ。

「なぜ、そう思った?」

 男は冷や汗を背中にかき、少女に質問で返す。

「それは」

 すると少女は、すくっと軽やかな動きで立ち上がり、上着のポケットからロリポップを取り出し、包を解いて口に咥える。

「アタシが見えているから」

 黒い目を細めてにっと笑う。男にはその顔が死神の笑みに見えた。

「どうしてキミが見えたから、飛び降りるという事になるんだ?」

「アタシが死神だから」

 常人なら木っ端図かしくて言えない〈死神〉という言葉を、少女はさも当たり前のように口にする。

 男は絶句した。何を言っているんだこの少女はと、正気を疑ったのだ。しかし、そんな男を無視するように、少女は言葉を続ける。

「だってアンタ、ここに来る前に助けを求めてたでしょ。こんな人生から助けてくれ、神様ってさ」

 図星だった。少女の言葉は男の胸に深く突き刺さり、動揺させる。その言葉を口にしていたとしても、それは男の会社の中にあるトイレだ。この少女が知るはずがないのだ。

「な、何でそんな事を知っているんだ」

「アタシが死神だから」

 男の問いに少女は同じ答えを返す。

「でもさ、アンタの人生は別に悪い物じゃないと思うよ?これまでのも、これからのも」

 まるで男の人生を知っているかのような口ぶりに、男はむかっ腹が立ってしまった。

 自分は仕事が上手くいかず、上司に無能扱いされ、同僚にはゴミ同然に扱われているというのに、悪い物じゃないだと?どこからどう見ても最悪の人生だ!

 と、男は片眉を痙攣させながら心の中で叫んだ。

「それは今だけ。しかも今の職業はアンタに向いてないんだ」

 今確かに心の中で叫んだはずなのに、少女はその叫びに言葉を返した。

「う、煩い! 俺はもう耐えられないんだ!! こんな惨めな思いをして生きなきゃいけないなら、死なせてくれ!!」

 男の人生で一番大きな声がその口から本音を吐かせた。

「死んだら後悔したって遅い。それでも死ぬつもり? 言っておくけど、世の中には死んで救われる人もいる。でもアンタは違う。それでも死ぬつもり?」

 念を押す少女の言葉に男の意思は一瞬だけ揺らいだ。まるで蝋燭の火が、人が側を通った時に少しだけ揺らぐような一瞬だった。しかし、少女はその揺らぎを見逃さなかった。

「そんなに死にたいなら、さっさと死んじまいな」

 男の胸を軽く押すと、簡単に男の足はよろめき、上体は運河へと傾いた。

 落ちる。

 男の脳が瞬時にそう判断すると、何かに掴まろうと咄嗟に腕を伸ばすが、掴まるところなど無く、手は虚しく宙をかく。

 その時、男は絶望した。


 はっと気が付くと、幼い頃によく友達と一緒に遊んだ公園で男は立っていた。

「あれ? 確か、橋から落ちたはずじゃ」

「そう、アンタは橋から落ちた」

「じゃあ、なんで俺はここにいる? 死んだのか?」

「死んではいない。死ぬ前に、誰しもが見る走馬灯を体験してるんだよ」

「走馬灯…………」

「ほら、あそこで父親とか遊んでいる子供がいるでしょ」

 少女は公園の中にある、ちょっとした芝生の広場の方を指さす。そこには、楽しそうに父親とキャッチボールをしている小学校低学年くらいの子供がいた。

「俺だ、あの子供は俺の小さい時だ」

「そう、この頃のアンタのは無垢で、毎日が楽しくて仕方なかった」

「確かに、親父と遊んで楽しそうだ……」

「次はこっち」

 付いてきて。と、言わんばかりに少女は先に歩き出すので、男は慌ててその背中を追う形となった。


 2人がやってきたのは、男が通っていた小学校で、少女は何食わぬ顔で校門を潜り、学校内へ侵入する。

「おい、勝手に入ったら怒られるぞ」

 慌てて声をかけるが、少女は男の声を無視して先へと進む。男は少し悩んだが、ガシガシと頭を掻き毟り、校門を潜って少女の後を追った。

 男が彼女に追いついたのは、下駄箱の所だ。彼女は意外と歩く速度が早いのだ。

「体験してるって、言っても、普通に走ったら、息が切れる、んだな」

 ぜーはーぜーはーと男は肩で息をしながら、手の甲で額の汗を拭う。

「それは個人差によるかな。アンタはよく馴染むタイプみたいね」

 そう言うと、少女は校舎の中へと土足で上がり込み、右へ曲がる。男は靴を脱ぎ、それを両手に持って上がり、彼女の後を追う。

 廊下を少し進むと階段があり、それを使って4階まで上がる。

「高学年の俺を見るつもりか?」

「そうだよ。高学年の頃のアンタはどんなだったか覚えてる?」

「もちろん。高学年の頃は俺の人生で一番輝いていた時期だからな」

「そう。アンタは物覚えが良く、この頃は優秀な成績を収めていた」

 そう言うと、少女は上着の内側に手を突っ込み、何か白い物を取り出す。その白い物は、紙だった。

 男の前に差し出された紙は、厚口で良い紙だ。2つに折りたたまれており、表紙には〈あゆみ〉と書いてあった。この〈あゆみ〉は、小学校の成績表で、各学期が終わる事に貰い、親に見せるものだ。

「これはアンタの最終成績」

 男は〈あゆみ〉を受け取り、中を開く。中には△〇◎の3段階評価になっていた。

 全部の表が◎で埋められており、誰が見ても優秀だというのが分かる。

「この時は特に何も頑張って無かったのにな……学ぶのが凄く楽しかった気がする」

「どうする? 高学年の頃の自分を見ていく?」

 少女の質問に、男は躊躇いなく首を横に振る。

「いや、この頃のはちゃんと覚えてるから大丈夫だ」

「そう。じゃあ、もう1つ階段を上がろう」

 少女の言葉に男は首を傾げた。これ以上上に行っても屋上があるだけで、教室などは無いはずだ。

「上はないぞ」

 男はそう少女に言うが、無視してトントンと階段を上がっていく。男はついて行くべきか悩んだ。どうせ何もなかったと戻ってくるに違いない。でも、彼女は躊躇いもなく階段を一定のリズムで上がっていく。という事は、この先には必ず何かがある。

 男は軽く頭を左右に振り、階段を駆け上がって少女の後を追った。


 4階より上の階は確かに存在した。しかし、それまでの空気とは明らかに違い、どこか陰鬱としている。廊下のタイルも種類が変わっていた。

「ここは?」

 どこか見たことがある場所だと、男は首をもたげた。

「アンタが出た中学校だよ」

 中学校。その単語を聞いた男の表情は曇り、少し強ばる。彼は中学時代にはいい思い出が無かったのだ。

「中学1年まではよかった。しかし、学年が上った途端に親は高校受験の為にと、アンタの苦手な教科を克服させようとした。親の期待に答えるためにアンタは苦手な教科を必死こいて勉強した」

「そして、得意な教科を失った」

 少女の言葉の続きを吐き捨てるように男が言う。彼はその頃から学ぶという事が楽しくなくなった。好きな教科も嫌いになり、得意だった事は人並にできるくらいになってしまった。

 子は親に逆らえない。子供の頃の彼はそう考えていたのだ。

「アンタの人生が狂ったのはこの時からだ」

 とある教室の前で立ち止まる。教室のドアの小窓から中を覗くと、1人の少年が夕日の中、机に座って一心不乱に手を動かしている。どうやら勉強をしているようだ。

「……」

「ねぇ、自分が得意だった物は覚えてる?」

「いや……覚えていない」

 そう。と少女が言う。

「こっち来て」

 少女はそのまま歩き進め、廊下を進む。突き当たりまでくると、男はおかしな物を目にした。物としてはおかしくはないのだが、学校にはあるはずも無い物だ。

「何でこんな所にこんな物が?」

 ふたたび男は首を傾げる。

 2人の目の前にあるのは家によくある木製のドアだった。少女はドアを開けようとはせず、男に開けるように視線を促し、すっと1歩下がる。

 男は恐る恐るドアノブを回して引く。


 ギイィィィィイ


 蝶番の錆びた音が辺に響き渡る。

 そっと顔だけ部屋の中に突っ込んで、男は危険がないか確認した。特に危険なものは無く、目に付くとすれば、勉強机と壁を取り囲む本棚だった。

 ドンっと男は背中を押されて体ごと部屋の中に入る。後に続いて少女が入ってきた。

 人が2人入るだけで部屋はだいぶ狭く感じる。多分、4畳半ほどの広さだろう。

「……おい、ここは俺の昔の勉強部屋じゃないか」

「そう。アンタの好きと苦手と苦労が作り出した部屋」

 少女は勉強椅子に腰をかけて男を見上げる。

「ここにアンタの得意だったものがある。探してみて」

 確かに、この誇りにまみれた部屋の中にあるだろう。でも得意だったものが何なのか忘れてしまった自分に探せるのか?

 男には探し出せるほどの自身はなかった。何故なら今までの間、しかも10年以上も忘れてしまっていたからだ。

「得意だったもの……」

 自分は勉強をするのが好きで得意だった。と、男は考えて勉強机を調べた。しかし、中には文房具とノートと教科書しか無かった。となると、この本棚にあるのかもしれない。そう思って本棚を眺めてみる。が、どれもこれも普通の本だ。純文学だったり、参考書だったり、図鑑だったりと、ジャンルも定まっておらず疎らである。

「ん?」

 本棚と勉強机の間に、ダンボール箱が置いてある事に、男は気が付いた。それを部屋の中央に引っ張り出し、手で積もった埃を払い、劣化したガムテープを素手で破いて開封する。

 ダンボール箱自体は小さく、底もそんなに深くは無さそうだった。そんな中に入っていたのは原稿用紙の束だった。

 男はそれを手に取り、読んでみる事にした。

 タイトルは『月を飲んだ男』と手描きの鉛筆文字で書かれていた。

 暫くの沈黙の中、男が原稿用紙を捲る音だけがする。少女は黙ってその様子を見守る。

 全ての原稿用紙を置いて、男はぱっと顔を上げて少女を見つめた。バチリと真っ黒な瞳と目が合う。

「俺にはこんな才能があったのか?」

「実際に読んでどう思った?」

「よく出来た話に設定。中学に上がる前の子供が書いたとは思えないくらいよく出来ている。『月を飲んで見せましょう』と男が言って、杯に映る月を飲み干すと同時に雲に隠れて、その場にいた全員を騙す。まさか、俺が書いたなんて」

 男は嬉しさのあまり、興奮気味に早口で少女に言った。

「それがアンタの得意だったもの。今も秘めているもの」

 椅子から立ち上がり、少女は柔らかく笑った。

「でも、なぜ得意だったものを俺に見つけさせた? 俺はもうお前に橋から突き落とされて死ぬんだろ?」

「それはアンタ次第。その才能を知ってもなお、人生を諦めるか。又は、その才能を上手く利用するか」

「俺は……」

 少女が口にした選択に、男の瞳が揺れ動いた。

 嬉しさと戸惑い、思い描く理想と突きつけられる現実に揺らめく。

「…………あ、新しい事に、今思い出した事にチャレンジしてみようと思った。一瞬でもそう思えた。だからもう少し、もう少しだけ頑張ってみようと思う!」

 男は力を込めてそう言い切った。その言葉に少女は何処か安堵したような感じで、表情が少し柔らかくなる。

「よかった」

 その言葉を最後に男の視界は暗転する。


 気が付くと、男は橋の柵の内側に立っていた。靴もちゃんと履いて、橋の下を流れる河を眺めていた。

 ——俺はこんな所で何を? あぁ、そうだ。不思議な少女に出会って、それから……それから?

 何があったのか、靄がかったように思い出せず、男は掌で顔を覆い、深く息を吐いた。

「でも、変わりに忘れていた事を思い出したからいいか」

 ぱっと手を退けて顔を上げた男の顔は何処か晴れ晴れとしていた。


 それから1年。

 彼は今まで続けていた仕事の合間に執筆をし、賞を受賞して得意だった、幼い頃に憧れた小説家へとなることが出来た。




グリムリーパー2 —完—

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