第6話 テールスープ
1日が終わり、人々が家路へと急ぐ頃、俺の1日は始まる。
メニューは豚汁定食にビール、酒、焼酎、これだけ。あとは勝手に注文してくれりゃあ、できるもんなら作るよってぇのが俺の営業方針さ。
営業時間は夜12時から朝7時頃まで。人は『深夜食堂』って言ってるよ。
客が来るかって? それが結構来るんだよ。
「元気だったかい、久しぶり~」と、入って来たのは島崎さんだった。頭はみごとにシルバーグレーに変わっているが、菅原文太ばりの苦み走った顔立ちですぐわかる。
「帰っているなら、そう云ってくれればいいのに、昔の集まりがあってね、そこで『深夜食堂』の話が出たってわけさ」
俺がこの前の店主、先代のもとで見習いをやっていた頃の客だった。店が終わるころ、たまに電話が入る「ここで飲んでいるから来い」というのだ。店の客と飲みに行ったり、深く付き合うことは、先代は禁じていた。客は客、店は店というわけだ。しかし島崎さんからの電話には何も云わなかった。俺はそれを暗黙の了解と受け取った。
何しろ俺も若かった。ちっぽけな居酒屋の見習いでは遊び金の余裕なんてない。島崎さんの飲むところは一流なところばかりだった。遅くまで店を開けさせて、それでもダメな時間になると、岡本とか芦屋とか瀟洒な隠れ家で飲む。もちろん、店の女の子は4、5人連れてである。閑静な住宅地のなかに一軒家がある。
「こんな時間に営業できるんですか」と尋ねると、「営業ね、営業と云えるかねぇ」と島崎さんは答え、女の子たちは笑っていた。応接間風の部屋の中にバーカウンターがあるだけ、真ん中に大きなピアノが一台あって、その向こうには植え込みが黒いシルエットを見せている。接客するのは身だしなみちゃんとした男性一人だ。島崎さんはピアノを弾き、女の子の一人が歌う。
「おめぇーは、いつまで経っても上手くなんねぇーなぁ」と島崎さんは冷やかす。後はトランプで小さな金額を賭ける。退屈といえば、退屈なんだが、俺にはゆっくりしたその雰囲気が好きだった。たまには、連れの女の子とも意気があうこともある。
先代に「親爺さん、あの人は何をしている人ですか?」と訊いてみた。「元高校の音楽教師で、株で稼いで、売れない小説を書いているよ。最近は土地の仲介みたいなこともやっているみたいだ。なんでだろうね、お前を気にいったみたいだ」「気に入られたって・・付き合って大丈夫ですかね」と云うと、「ああ~、あの人は大丈夫だよ。心配だったら付き合いをよすんだなぁ」と、先代は俺の腹の中をお見通しだった。
後で聞いた話だが、島崎さんが音楽教師を辞めたのは、授業中ふざけた生徒二人を殴ったからで、その一人が先代の息子さんだった。先代の方は問題なかったのだが、もう一人がPTA会長の息子だった。私学だったから寄付金の件があったりして、それが問題になった。
「俺の息子はその息子の金魚の糞だった。俺も思いっきり殴ったよ」
「それで息子さんは今?」
「笑うじゃーないか、今音大に行って、声楽をやっているよ。歌なら流行歌手にでもなってくれるのなら応援の甲斐ってもんがあるんだが、あらりゃーさっぱりだ」と先代は笑って、フライパンを返した。
「音大に行く?バカかと反対したんだが、説得に来たのが島崎さんだった。なんだかんだで知り合ったってわけだ」とソースの味見をした。
***
島崎さんが店に来るときに注文したのが「テールスープ」だった。来る前の日には電話が入る。先代は行きつけの肉屋で仕入れて来て、じっくり、トロトロになるまで煮込む。生姜、 ニンニク、塩胡椒での味付けも教わったよ。
島崎さんはピアノの腕は相当なものだったらしい。それはよく行くクラブのママから聞いた話だ。アルバイトでこのクラブでも弾いていたらしい。ママはプロの道を勧めたらしいが、「そんな厳しい世界はごめんだね。おれは音楽教師で充分だ」と取り合わなかったらしい。
島崎さんはジャズが好きだ。よく北野にあるジャズバーに行く。興が乗れば、1曲ぐらいは弾くそうだ。音楽よりもっと好きなものがある。それは阪神タイガースだ。愛してやまない。
これは島崎さんが語ってくれたタイガース愛の歴史の話だ。
「俺の家は奈良の田舎町で小さな洋装店をやっていた。中学1年の時だった。商店街の会長の息子が野球見物に誘ってくれた。プロの野球を見たのはそれが初めてだった。あの甲子園のグランド、観客席の大きさにびっくりした。蔦の絡まった球場の外観にも感動した。阪神が好きというより、甲子園の阪神が好きになっちまったんだ。こんなとこで野球が出来たらどんなにいいなぁーと思ったよ。帰って甲子園の大きさ、素晴らしさを母親に喋ったさー、よっぽど興奮してたんだろうね。あんななに熱を入れて喋ったお前を見たのは初めてだと母親は語ったねぇ。『孟母三遷』の教えって知ってるかい。俺の母親はすることが早くって、大胆な人だった。店だって母親で持ってるようなものだった。甲子園の近くに住もうと云いだしたのだよ。勿論、プロ野球志望には大賛成だった。あわよくば、大枚の契約金が入るぐらいは計算したんだろうね。反対する父親に「わたしは、こんな田舎町の洋装店で一生を終わりたくない」と一喝。一家は尼崎の商店街に店を構えたってわけだ。甲子園までものの10分だ。よく行ったねー。高校は神戸の野球部の名門校に入って、3年のとき甲子園に出れたのだよ。サード3番だった。それが1回表、ツーアウト満塁、サードゴロが俺の前に、「シメタ」と思ったね。ファーストに投げた球が、ファーストミットのはるか上を無情に越していったよ。2点入って、2-0で1回戦で敗退。野球?それでやめたよ。2番目に好きだった音楽の道、音大に進んだってわけだ。プロ?ちょっと出来るのと、ちゃんと出来るのとは大きく違うんだ。それが証拠に、音楽、短気起こして棒に振っちまうだろう」
でも、最初に書いた小説である雑誌の新人賞を取った。それなりの部数を誇る雑誌らしい。タイトルは『哀しきタイガース』。なぜ、タイガースは哀しい歴史を持つのか、個性あふれるレジェンドたちのエピソードを織り交ぜながら、それに勝るとも劣らない個性的なファンを登場させて、笑わせ、泣かせ、人は誰かを、何かを愛さずにはいられない存在だと思わしめる物語である。
こんな話もしてくれた。
「結婚したんだ。巨人―阪神戦をTVで観てるだろう。阪神の選手がチャンスで打たなかったら「バカ、アホ」だ。巨人の選手がチャンスで打とうものなら「バカ、アホ」だ。一方的な負け試合になるとテレビを切ってしまう。「あなた、気分でも治してきたら」と女房は財布から一枚の札を出す。心得たものだ。それで近くの居酒屋で飲んで帰って来るってわけだ。アパートのドアーのノブに手をかけたとき、女房の拍手と歓声が聞こえてきた。「阪神追いつきましたが、延長巨人サヨナラ勝ぃ~」てアナウンサーの声も聞こえてくる。女房はてっきり阪神ファンって思ってたわけだ。結婚前に聞いておくべきだった。おれに合わせてくれていたってわけだ。贔屓のチームが目の前で口汚くやじられる。ファンとしてはこれほど面白くないものはない。俺は恥じた。口汚く罵る、恥ずかしいことだ。そして妻を心から愛したよ。妻の位置はタイガースより上になった瞬間だったよ」
島崎さんが愛してやまないタイガースが4年も、5年も低迷したいたことがあった。阪神に素晴らしい監督がやってくると島崎さんは喜んだ。その野村監督でも低迷を脱することは出来なかった。店で見る顔も心なしか元気がみられない。「いつものですね」と、「テールスープ」を用意しょうとすると、島崎さんが「今日はやめとくよ」と別のものを注文した。
丁度来ていた横山さんが「珍しいことがあるもんだ」と言った。横山さんはカレーしか注文しない。カレーライスで日本酒を飲むのは彼ぐらいだ。めったに外食なんか連れて行って貰えなかった時代、父親の留守に母親は彼を百貨店の大食堂に連れて行ってくれた。他のものをたまには注文せよと母親は云うのだが、横山さんは滅多にない外食機会、他のものを注文してそれが外れだったことを恐れる。それでカレーになる。今は、カレーは懐かしい母の味なのだそうだ。
島崎さんはテールスープの残りでカレーを食す。それを半皿ずつにして横山さんにどうですかと御裾分けした。横山さんは三口ほど放り込んで、「こんな美味いカレーがあるなんて。母親が生きていれば食べさせてやりたかった」と涙目になったことがあった。その日、横山さんはスープ入りのカレーを期待したのかも知れない。
島崎さんが帰った後のカウンターには、スポーツ新聞が置かれてあった。阪神のテールエンド決定と野村監督の退団が報じられていた。あれ以来だ。10と何年だろう。あれ以降、タイガースは優勝もしたし、最近ではいつも優勝争いには絡んでいる。
「島崎さん、材料は用意してないんですが」
「今日はおれが用意して来たよ」と、白いレジ袋をポンとカウンターに置いた。俺は、横山さんに電話してあげようと思った。
レシピ:
材料 牛テール 1kg使うとして、 ネギの青いところ 3本分 生姜 1片 ニンニク 1片 塩胡椒 適量
付け合わせ ネギ 白髪ねぎお勧め 適量
1、牛テールを使う。テールを下茹でする。沸騰した鍋で10分茹でる。
この時にネギを肉量に合わせて入れる。
2、ざるに上げて冷水で洗う。この時にテールをギュッと押して骨と身の間のから血を絞り取る。この作業次第で風味が変わる。
3、綺麗な鍋にテールとネギ2本分と生姜ニンニクを入れて炊く。
水炊きが減ってきたら水を追加する。常にヒタヒタぐらいで!
4、約3時間炊くと、表面に脂が浮いてくる。この脂はとって別の料理に使うと良い。(カレーとかビーフシチュー等)、4時間ほど炊いたら一晩寝かせる。スープの味が落ち着く。
5、翌日強火で炊いてくさみを消して完成!
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