第5話 鯵フライ

東京は眠らない都市(まち)だ。電車だって最終は他の都市と変わらないのに、深夜だって人がどこからか湧いて出て歩いている。だから、『深夜食堂』でもやっていけた。

 神戸は東京とは違う。ただ、神戸は三宮の中心からでも山手に歩けば、住まいがある。タクシーでもワンメーターの範囲で住宅がある。だから深夜営業でもなんとかやっていける。前の店のお客さんも店について来たし、7時からの営業は辛い。身体あってのものだ。10時から翌朝7時までとした。それでも仕込みや、準備で店には7時に入る。


 暖簾も出していないのに、灯りがついていれば、覗いて入って来る客もある。「スイマセン、10時からなんです」と云うと、「変なの?」という顔で出て行く。それでもその10時を覚えていたのか、小腹を空かしたのか、飲み足りないのか、また来る客もある。ありがたいことだ。

 

 夕方から降り出した雨が、本降りだ。こんな日は、店を閉めたくなるが、そうはいかない。営業日、営業時間を都合で変更していては、店は繁盛しないものだとおやっさんから教わっている。でも、やっぱり閉めたくなる。10時から来ている晶子さんが、なんだか帰りそびれている。「車でも呼ぶかい」と声をかけても、「もうちょっと、飲む。マスターと二人っきりの機会ってそうないじゃない。そう嫌わないでよ。マスターも飲む~」


 晶子さんは百貨店の美容部員だ。1階にある、ほら、お客にメイクして、化粧品を売りつける、綺麗なお姉さんだ。百貨店が終わったあとは、知り合いのスナックを手伝っている。俺は店では飲まないことにしている。でも、こんな日は「まー、いいか」になる。

「こんなに土砂降りじゃー、誰も来ないわね。寂しいでしょう。私がお相手してあげる」。店でかなり入ったのか、滅多に酔ったとこは見ないのだが、今日は酔っている。


***

晶子さんは30半ば。自分で「行き遅れのオールドミス」と云っているが、なかなか綺麗な女性である。スタイルだって申し分ない。ただ、「女の顔は作るもの、男を騙すもの」と、しょっちゅう聞かされているものだから、今の顔がどの程度ホンマの顔なのか、素顔はどんな顔だろうかと思ってしまうのだ。

 そんな、晶子さんに言い寄る客は多いみたいだ。でも、晶子さんは自分から惚れるのはいいが、惚れられるのは嫌いなのだ。それから、「食べ物を不味そうに食べる人は絶対に嫌い」と云っている。「不味いものを出す店もだろう」と俺が云うと、

「マスターはずるい!正式なメニューは『トン汁定食』だけじゃない?あとはこちらが頼んで作って貰っているのよね。頼んでわざわざ作って貰ったものに、文句いえないじゃーない」

 

 なるほど理屈だ。「マスター美味しいよ」と云われて、喜んでいてはいけないのだ。言葉じゃなくって、食べるときの表情だとか、食べっぷりで判断しなきゃ~いけないのだ。

 食べ物にケチをつける客にも厳しい。「結婚するなら、絶対美味しそうに食べる人、おいしそうに食べる人には悪い人はいない」らしい。それは、晶子さんの絶対的確信である。


 さすがの、晶子さんも「マスター、悪いね。モー帰る」と腰を上げかけたところ、かれこれ2時になろうかというときに、ずぶ濡れになった30位の男が入って来た。

「マスター、温かいおしぼり」、晶子さんはその男に手渡した。晶子さんはこういうとこ気が付く。男は「ありがとうございます」と云って、簡単に拭いた。

「鯵フライできますか?」と、男は云った。帰ろうと思ったところを、腰を折られたのか、晶子さんは「わたしも」と云って、ビールを注文した。男は燗酒とめしを注文した。


 男は「フライはやっぱり揚げたてですね」といって、めしをほうばった。めしを燗酒で流し込むような食べ方をした。「傘を貸すよ」と云ったのだが、「どのみち濡れているから、その辺でタクシーを拾います」と、勘定をカウンターに置くと、早々に出て行った。晶子さんは鯵フライをゆっくり食べて、ビール瓶を半分残して帰っていった。

 あとは、朝まで客はなし。暖簾を仕舞いに出た頃には雨は止んでいた。


***

あくる日、店が開くや否や、晶子さんが飛び込んで来た。手には夕刊が握られていた。

「マスター、テレビのニュースつけて。10時からがあるでしょう」。俺は店ではテレビをつけない主義だ。もっとも深夜ではいい番組もないのだが・・。

「マスター、見てぇー見て、ほらこの男。昨夜の男でしょう」

俺はゆっくり、振り返ってテレビを見た。そこには逮捕され車に乗せられる男がいた。昨夜の男に間違いはない。別に顔を隠すわけでもなく、男ははっきりと画面に映っていた。

「どんな事件だい」と、晶子さんに訊いた。

晶子さんは黙って、手にしていた新聞を俺に渡した。


 男は自分の妻を殺した。妻とは別居中であった。復縁の話で妻のもとを訪れたが、話がこじれ、台所にあった包丁で刺して逃げた。そのマンションから出てくるところを防犯カメラが捉えていた。男は帰宅途中の検問で逮捕された。事件の詳細はまだ詳しくはわかっていないと、簡単に記され、犯行時間が書かれていた。


晶子さんが、「あの人は犯人でないわ」と敢然と言った。

「どうして?」

「だって、人を殺して来た後で、あんなにものを美味しそうに食べられるものでない。でしょう、マスター」

そんなことが根拠で同意を求められても俺は困る。と云って、違うともいえない。晶子さんの確信に逆らう根拠は俺にはないのだから…。

「そうだね。おいしそうには食べていた」

「でしょう、おいしそうに食べる人には悪い人はいないの」


 犯行時間からそう経たずに店に来たことになる。普通、犯行の後は出来るだけ遠くに逃げたくなるのに、現場から近い食堂に寄るだろうか、そっちの方が俺は引っかかった。事件後の逃亡経路を聞かれるだろうから、店に刑事がおっつけ来るだろうと思った。


 案の定、その日、その道の人が二人入って来て、手帳を見せた。俺は来た大体の時間を述べた。若い方が「大体ですか…」と、いったので、「時計番でないですから」と答えておいた。そして、注文したものと、食べるときの様子を語った。鯵フライをおいしそうに食べたと云った。「鯵フライをね。殺した現場ではさすがに食べられなかったのかね」と刑事は喋った。女の部屋の食堂のテーブルの上には鯵フライがあったと云うのだ。

 しばらくして、事件は簡単に解決した。男は犯人でなかた。そもそも殺されたのは同じマンションだが違う部屋の違う主婦だった。彼は犯行時刻のときに丁度出てくる不審な男と見られたのだ。


 それから、3、4日したころ、その男は店に現れた。

事件の経緯をこのように語った。

「妻とは別居中でした。もう一度やり直そうと云いに行ったのです。同じようなことがあるのですね。私らと同じようなもう一組があのマンションにはあったとは。その男はかなりしつこくて、別居中の女性は警察に相談に行っていたようです。その男と歳恰好が似ていたもので、それで問答無用で捕まったのです。ろくに調べもせず、カメラに映っていた、似ていただけで逮捕するのですから、たまったもんではありません。もっともすぐ間違いだとわかって、その男が逮捕されたのです。わたしは、別居してから初めて訪れたのですが、その男になっていたかもしれません。

私は熱を込めて思いを喋ったのですが、妻は静かに「考えておくわ。時間を頂戴」という素っ気ない言葉を返しました。私は喉が渇いて、台所に立ちました。そこにある包丁が目に入りました。同時に流しの三角コーナーに魚のフライの尻尾が捨てられていました。鯵フライです」


 男はここまで話して、ビールを一口飲んだ。

「私の家は垂水です。親父は漁師で船に乗っていました。私が小学3年、妹が5才のときに遭難して亡くなりました。母親は漁業組合のお情けで、臨時職員として勤めさせて貰いました。雑役です。いつも、余った魚を持って帰って来ては、フライにしていました。それで、妻と結婚した時には、『俺は魚のフライは嫌いだ。特に鯵フライわなぁ』と宣言したのです…思ったのです。ここでは子供たちを入れて自分たちの好きなものを食べられている。俺は手こそ上げないが、暴君だったと思ったのです。それで帰りし、母親のことがやたら懐かしく、また俺の言った好みを尊重していてくれていた妻がいとおしくなって、やたら鯵フライを食べたくなったのです」。男の話は終った。

 同じ日に、同じような夫婦の、晩飯のメニューが同じ「鯵フライ」だった。俺はとても、不思議な思いにとらわれた。そして一方では事件が起き、もう一方では事件が起きなかった。

「あの日、ここにいた女性がいたでしょう」と俺は云って、晶子さんのことを喋った。

「ああ~、タオルを渡してくれた人。マスター僕たちまた一緒に暮らせそうなんです。みなでまた来ます。鯵フライお願いしますね」

「あいよ、よかったですね」


それから1週間した頃、奥さんと子供二人を連れて店に来てくれた。晶子さんも来ていて、俺は鯵フライを5枚揚げた。揚げながら、鯵フライは尻尾まで食べるのか、残すのか、どっちがいいのだろうと、そんなことを考えていた。アジがよければ、どっちでもいいかぁー!


レシピ:

単純な料理ほど美味いのだ。そして単純な料理ほど手順によって仕上がりの差が歴然とする。

★アジは背開きにして開いてもいいが、三枚おろしにした方が食べやすいだろう。(小さいアジは背開きに)。三枚におろした後薄い塩水(立て塩)でさっと洗い、水気を拭き取る。

※普通に魚屋で買ってきたアジなら三枚おろしにした後、身を上に向けてザルに置き、薄く塩を振って20分ほど置いておく。これによって臭みが流れ去り、旨味が出てくる。

★塩とコショウを薄く振り(塩だけでも旨い)、小麦粉、溶き卵、パン粉の順番で衣を付ける。

★油を165度から175度の中温に熱して揚げる(鮮度が良いほど高めの温度で)。網付きバットなどにあげて、よく油を切ること(立てておくと油切れが良い)

★付け合せの野菜などと一緒に器に盛る。ソースはお好みで結構だが、タルタルソースが相性よし


注釈:垂水漁港

神戸に漁港があるのかって、それがあるんだよ。阪神地区という大消費地に近接する漁業専用港として、大阪湾・播磨灘における最大の漁港なんだ。明石市の林崎漁港とともに春はイカナゴ漁が盛んで、釘煮は神戸名物なのだよ。

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