第3話 『釜めし』


「炊き込みご飯できます?」と入って来たのは、前川美穂さんだった。「ちょっと待ってくれたら、できるよ」と、土鍋を出そうとしたら、「これでお願いできますか」とカバンの中からハンカチ包を取り出し、一合炊きの陶器釜を差し出した。俺は手にして「これは」と云った。「そうです、横川駅の『峠の釜めし』です」と答えた。

釜の上半分の上薬が塗ってある茶色の部分に「横川駅・おぎのや」という文字が刻まれているのだ。

「旅行した時、こんな美味しい炊き込みご飯初めてでした」。そしてこんな話をした。家が貧しくて、炊き込みご飯といえば、大根と油揚げしか入っていなかったそうだ。これは大根ごはん、インスタントで安いのを売っていると云っても、母親は一度インスタント食品でアレルギーが出てから、一切インスタントは使わず、すべて手作りだったと。それも美味しければいいのだが、働くようになってインスタントのカレーを食べたら、カレーってこんなに美味しいんだと思ったぐらいだと、笑った。


自分でもこの釜を使って作ってみたが、どうしても上手く出来ず、友達がここで炊き込みごはん食べたらすごく美味しかったと、ここを紹介されたという。

「えらい見込まれたもんだ。頑張ってみるよ」と、俺はその器を受け取った。

「炊き込みご飯と釜めしはどう違うんだい」と、丁度来ていたバーテンダーの藤本君が尋ねた。一緒に来ていた東京の店の「お鈴」さんと同業の、蝶子さんが、

「そんなのも知らないの。釜めしはね1合炊きの土釜か、金属でもいいんだけど、炊き上げてそのまま出す炊き込みなのよ」と説明した。

「おいおい、注文して、炊き上がるの待つのかい。おれはそんなのダメだね」

「おいしいものを食べようと思えば待つのを嫌がったらだめよ。一人用のお釜で出てくるなんて洒落てていいんじゃーない」

「お釜がお釜の肩を持つのかい」と云ったものだから、

「おだまり」と云って、蝶子さんがピシャリと前田君の横っ面を張った。

「なにしやがんだい」と藤本君が、蝶子さんの胸ぐらを掴みかけたので、「悪いがね、喧嘩なら表でしてくんな」と、止めに入った。

この二人、仲がいいのか悪いのか、店も向かい同志で、商売仇同志でもある。そのくせ、いつも連れだって来る。

「きょうび、なんだね、世の中間違っているね。美人のホステス置いているのに、向かいの男だか女だかわからない方に行くんだから」と、蝶子さんと一緒でないときは、藤本君はぼやく。どうも、藤本君のとこの方が分が悪いようだ。


***

「峠の釜めし」は超人気駅弁なのだが、益子焼の土釜に入れられているという点が特徴なのだ。益子焼(ましこやき)とは、栃木県益子町周辺を産地とする陶器で、砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ粗い土で、水がめや壺などの日用品にしか作れなかった。陶芸作家濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られるようになった。その益子焼に目をつけたのが当時の荻野屋の女将であった。


横川駅は全列車が横川 - 軽井沢間の碓氷峠通過に際し電気機関車への付け替えが必要なために長時間停車する駅であった。しかし業績がもう一つパットしない。女将は停車中の列車に乗り込み、旅行者に駅弁に対する意見を聞いて回った。意見の大半は「暖かく家庭的で、楽しい弁当」というものであった。当時は弁当と一緒に販売するお茶は陶器で作られていた。陶器は保温性にも優れていた上、匂いも移らない。「暖かい」「楽しい」という要望も満たしている。早速、益子焼の窯元に相談し、一人用の釜を作成して「駅弁=折り詰め」という常識を破った弁当を昭和33年に販売した。これが大人気になった。他の産地のも試したが、益子のが一番上手く炊けたという。えらい詳しいねってか…これはあるテレビで『駅弁物語』なる番組をやっていて、今の社長が語っていたのを観ての受け売りだよ。

具は、鶏肉・ささがき牛蒡・椎茸・筍・ウズラの卵・グリーンピース・紅しょうが・栗・杏と入って豪華なもんだ。大根と油揚げとじゃー、天と地ほど違う。そら、美味かったろう。俺も諏訪方面にドライブしたときに、ドライブインで食べたが、そら美味しかった。生姜・杏子・うずらの卵を取り除き、電子レンジで食べる方法もあるが、やっぱり炊きあげの熱々を頬張るから美味いんだ。


その美穂さんだが、年の頃なら22、3というとこかな、それが飛びっきりの美人なんだ。しかしその魅力的な顔の片側に赤痣(あざ)があった。そのコントラストがかえって強い印象をあたえ、不思議な魅力を醸しだしているのだ。それにのぼせた青年二人があった。そして事件が起きた。事件のことは後で話すよ。

美穂さんは、長田にあるケミカルシューズ*の下請けの工場で働いている。工場といっても親方夫婦と、同じ歳ぐらいの女工が3人の町工場で、ゴム靴の底をプレスで型抜きしていると語った。母親は亡くなって、工場の近くのアパートで独り暮らしをしている。給料が出たら三宮に出て来て映画をみて、ショピングをして、ここで釜めしを食べるのが楽しみだと語った。これは何回か来てポツリ、ポツリと語った全てだ。俺は端正な顔を横に向けて、薄暗い町工場でプレスの型抜きをしている姿を想像した。


***

その不思議な魅力に取りつかれたのが、バーテンダーの藤本君と、会社員の山口さんだ。山口さんは、歳は33歳独身、真珠屋さんの経理をやっている。真珠加工は神戸の大事な地場産業である。養殖真珠を加工して輸出するには港のある神戸になる。真珠の加工に必要な安定した光が、六甲山に反射して北側から得られたことから、山に近い北野町に集中してある。景気のほうは円高以降もう一つ元気がないという。山口さんはいつも一人で来て、おでんを注文して、ビールを1本飲んで帰る。寡黙な人だ。


藤本君は早速行動に移した。東京に行ったおり、益子まで足を延ばして、益子焼の土釜を買って来たのだ。山口さんも負けてはいない、友人に頼んで土釜を作って貰った。美穂さんが来る日は3人並んで釜めしデイとなる。美穂さんはなんだか楽しそうだ。誰かが、あの3人お釜ともだちねと云ったら、横の席にいる蝶子さんをみて「4つ」とその連れが答えた。他の客がそれを見て釜めしを注文しても、俺は1日三つまでと断っている。手間や時間がかかって仕方がないのだ。


事件が起きたのはクリスマスも近いという年末だった。山口さんが前田君の店で飲んでいて、口論になってカウンターの向こうにあったアイスピックで前田君を刺したのだ。幸い急所は外れていて、前田君はたいしたことにはならなかた。マスターの配慮で救急車は呼ばず、タクシーで病院に運び、警察沙汰にはしなかった。しかし噂はすぐに広がる。

先生が一人で来て、「ここのお客で事件があったんだって」と訊いてきた。俺はかいつまんで、簡単に話して、その痣のことにふれて、「女の顔は複雑だね。顔一つで人生が決まることがある。百貨店で美容部員をしているお客さんがね、顔なんて作るもので、素顔のきみが好きといっても、もうー、騙されているんだってさ。美穂さんに痣がなかったら、どうなったのだろう?」と話した。

「前田君はその痣にエロスを感じ、山口さんは聖母を感じたのかな」と云って「でも、いいじゃないか、二人の男が自分をめぐって争ってくれた。いっときは傷心だろうが・・僕なら『自信を持っていいのだよ』と声をかける。それから口説く」と、先生は笑った。


前田君は退院後、顔を出しているが、釜めしは注文しない。勿論、山口さんは来なくなったし、美穂さんも、一度姿を見せたが、それから来なくなった。捨てるわけにもいかず、土釜が3つ、料理場の棚に仲良くならんでいる。


「これ見て、あの釜めしの女の子よ」と雑誌を広げて見せたのは、百貨店で美容部員をしている晶子さんだった。綺麗なモデルが載っていた。前川美穂さんだというのである。

「あのね、前からね、言ってあげたいなぁーと思っていたのよ。最近はね、レーザー治療で治せるようになっているって。少々お高いけどね。でも、どう思っているかわからないし、いらないお世話だったりしてもいけないでしょう。顔の問題は微妙なのよね」

俺は痣がなくなった顔が想像できなかった。よくある綺麗なモデルさんでしかなかった。「似てるようだけど、そうかなぁー」というと、「あの子あまり強い化粧してなかったでしょう。メイクすればこんな顔になるのよ。私の目は絶対間違いがないの」と自信満々であった。


そうかもしれない。でも、俺には嬉しそうに釜めしを食べている美穂さんが、やっぱり美穂さんであった。


注釈:「釜めし」は、関東大震災あとの炊き出しをヒントに、のちの浅草の女将が開発させた一人用の釜で供したのが始まりである。それを駅弁という形にしたのが「荻野屋」である。


レシピ

1.研いだ米を用意し、具と共に器に盛る

2.水に醤油、料理酒、みりん、昆布などを加え、味を調える。

3.強火で出汁が吹きこぼれるまで(5分程度)炊く。

4.弱火にする。

5.水気が無くなってきたらふたを完全に閉め10分から15分ほど蒸らす。

6.できあがり。


注釈:長田のケミカルシューズ

神戸港での生ゴムの輸入の始まりとともに、神戸ではゴム工業が盛んになった。大正期にはゴム靴の製造が始まり、順調に発展してきたが、戦後、ゴムの配給を受けられなくなった中小メーカーは、さまざまな材料で靴を作らざるを得なくなった。昭和27年頃、塩化ビニールなどの合成樹脂が登場し、ケミカルシューズを作るようになった。その後、素材の開発や製法技術の改善、デザイン能力育成などの努力が重ねられ、神戸の大事な地場産業になったのである。


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