別れと出会い
翌日、真理子は康介と不動産屋に行く予定だったが、キャンセルして、夜の七時に渋谷宇田川町のHUBで康介と会う約束をした。
HUBの入口の階段の前まで来たとき、俄に緊張が高まってきた。店に入ると、康介はすでに二人用のテーブルに着いていた。漠然の店のモニターを眺めるその顔は、不満げに見えた。真理子に気づくと、康介は手を振ったが、笑顔はなかった。
「不動産屋どうだった?」
真理子はジントニックを持って席に着くと、そう尋ねた。
「行ってないよ。一人で行ってもしょうがないから」
「あら、そう。ごめんね」
「でも、ネットでいくつか良さそうな物件を見つけたよ」
康介はそう言うと、タブレット端末の画面を見せた。真理子は物件情報を眺めながら、駅まで遠すぎるとか、温水洗浄便座付きがいいねとか、好きなことを言った。結局、他人事にしか思えなかった。
「今度、この物件見に行かない?」と康介は、家賃十二万円の2LDKの物件を示して言った。真理子はその物件を見ながら、どう切り出したものか考えていた。
「どう? いいでしょ?」
康介は真理子の真剣な顔つきを勘違いしたようだった。
「……あのさ、わたしたちお互いのこと知らなさすぎると思うの。この段階で、同棲というのはどうかと思うの。同棲って、やっぱり結婚を前提としてるでしょ? 実は、わたし康介に話しておかなければならないことがあるの」
康介はビールを一口飲むと、真理子の方を見て、固唾を呑んだ。
「昔の話なんだけど、わたし風俗で働いてたことがあるの」
「風俗って……。ソープとかの?」
「そう。ソープではないけど」
康介の顔が歪んだ。康介はビールを呷った。
真理子が一通り話すと、康介は「飲み物、買ってくる」と言って席を立った。真理子は、ジントニックを胃に流し込んだ。何度も想像した場面だった。言うべきことはすべて言った。やり切ったという思いがあった。
戻ってきた康介は深刻そうな顔つきで、視線を合わすことなく、無言でビールをちびちびと飲んだ。
「他に好きな男ができたの?」
康介は顔を上げて、そう言葉のつぶてを投げた。長い間考えてそこに到達したようだった。
「は? なんで?」
「そんな見え透いた嘘を付くから」
「はぁ、嘘じゃないんだよ。これが」
「元彼でしょ? 元彼と元サヤに戻りたくなったんだろ」
康介は声を荒げた。
「あのねぇ、そんな話してないでしょ。ともあれ、康介にしてみれば、わたしが風俗で働いていたことは、許せないのね?」
「……そうだね。本当だとしたら」
「でも、本当なんだよ。当時の客やスタッフに知り合いはいないから証明はできないけど。どちらにしても、もう別れましょう。わたしのこと信じられない人とは付き合えないし」
「仮に本当だとしよう。だけど、誰も証明できないなら、そんな過去を敢えて話す必要ないじゃない。なかったことにしても誰も困らないのに。結局、ぼくと別れたいだけなんでしょ? その口実として――」
「違うよ。信じてくれないんだね。それとも、信じたくないのかな。一人だけ、その過去を知っている人がいる。例の元彼ね。ただ、彼にしても、店に来たわけではないなけど、少なくとも彼はわたしの言葉を信じた。そのときのわたしと出会ったからね。とにかく、康介が元風俗嬢とは付き合えないってことはわかった。それとね、過去をなかったことになんてしたくないの。どんな過去でもね。まあ、康介は優秀で、高給取りなようだから、きっと風俗の経験のない子と結婚できると思うよ。じゃあ、さようなら」
真理子が立ち上がると、康介は「待てよ」と口走り、真理子に強い視線を投げたが、何の行動も起こさなかった。真理子は背中に突き刺さる視線を感じながら、一人で店を出た。真冬の寒い日だったが、マフラーをしなかった。
センター街を歩きながら、これからどうするか、と真理子は考えた。どこかで食事したかった。そんなときに、若い男に声をかけられた。真理子は思わず立ち止まった。あどけなさが残る顔はまだ二十代前半に見えた。その優しげな顔立ちは真理子が抱いているナンパ男のイメージにそぐわなかった。
「何してるんですか? ぼく、今ひましてるんですけど、ちょっと飲みにでも行きませんか?」
二人は、マークシティの脇の路地にある立ち飲み屋に入った。男の子は大学で法律を学んでいるという。まだ二一歳だった。「よくナンパするの?」と訊いたときの、「そんなことないです。今日はお姉さんに一目惚れしました」という答えは微笑ましかった。
初対面同士なのに、あるいはだからこそ、話すことはあったし、意外と楽しく、真理子はよく笑った。
「実はさっき半年付き合った恋人と別れたの」真理子は大学生活の話が一段落すると、そう話を切り出した。「理由はね、わたしが昔、風俗で働いていたことが許せないんだって」
そう言うと、大学生の目の色が変わった。真理子の全身に視線を走らせると、途端に活気づいた声で言った。
「ぼくは全然そういうの気にしないですよ。むしろ、ウェルカムです」
「『ウェルカム』ってセックスでウェルカムって意味かな」
「いや、そう言う意味ではなくて――!?」
真理子が大学生の股間を握ると、大学生は目を白黒させた。
「とりつくろう必要ないよ。元風俗嬢にはお見通しだよ。ヤりたいって顔に書いてあるから」
「ハハハ、さすがですね」
真理子はその立ち飲み屋のカウンターで飲んでいたが、実際は一人だった。さっきの男の子とセクシャルなやりとりを夢想すると、大いに楽しい気分になれた。人から求められるのは悪い気ではない。実際、ピンサロで働いていた頃も、指名があったときは、嬉しくもあった。たとえそれがカラダであっても、求められることは、嬉しいものだ。ただ、そういう感情には警戒しなければならない。やがては枯れていくものに守銭奴のように執着したところで、何になるだろう。自分はまだ比較的若い方だけど、大多数の男性にとって理想的な結婚相手にはなれない。婚活市場のプレーヤーの中では地雷だろう。だからこそ、女性が陥りやすい罠に対してシニカルになれる。アンチエイジングに。性的対象として自らを演出することに。結婚のために若くあり続けることに。自分に結婚への執着があったなら、康介との別れは辛いものになっただろうし、そんなときにさっきの男の子からナンパされたらついて行ってたかもしれない。
真理子はL字型のカウンターのコーナーを挟んで同じく一人で飲んでいる四十男が自分を見ていることに気づいた。女性の一人飲みは奇異に映るのだろう。大きなお世話だ。
二杯目のハイボールを飲み、枝豆、冷奴、若鶏もも焼きを食しているとき、スマートフォンにメールが届いた。先日提出したトライアルの件だった。緊張しつつメールを開くと、「合格」の文字が目に飛び込んできた。真理子は思わずにんまりした。恋愛は駄目でも、仕事は上手く行くというのはバランスが取れてるな。
「何かいいことでもあったんですか?」
先客の四十男がいつの間にか隣に来ていた。
「まあ、そうですね。仕事関係でちょっと」
真理子がそう言うと、その御仁は、「おめでとう」とビールグラスを差し出した。真理子がそれに応えて乾杯すると、「一緒に飲んでもいいですか?」と訊いてきた。
こうして飲むには、さっきの男の子よりも身丈にあった相手だった。四十男は、都内の設計事務所に勤めているという。仕事の話の中で、「会社で図面を引く毎日ですよ」と言って笑った。「わたしは会社で英文を読む毎日ですよ」と真理子は返した。無精髭に短く刈り込んだ髪型は、なかなか渋いものがあった。今日は渋谷で映画を見た後だという。それは真理子も見たいと思っていたアメリカのインディー系の映画監督の映画だった。「いいですね。わたしもそれ見ると思います」と真理子は言った。それからその監督の映画の話になった。お互いに好きな作品を言い合った。そんなとき、足元が激しく揺れた。「地震!」と店員の声。真理子と髭面の男は、顔を見合わせた。切迫した空気がお互いの間に流れた。突き上げるような揺れがさらに一回、二回とあった。
「やばい。出よう」
二人は店から飛び出た。しかし、激しい揺れはその後なく、微かな揺れが続くだけだった。しばらくすると、もう揺れは感じられなくなった。そのときになってようやく、真理子は相手と手を繋いでいることに気づいた。真理子が「手、放してもらっていいですか?」と訊くと、四十男は「あっ、すみません」と謝って、手を放した。その仕草は、どこか初な感じがして、好感が持てた。
その日は、およそ二時間ほど、お互いの話や映画の話をした後、LINE交換して別れた。康介と別れた直後に男性との出会いというのは何かできすぎだな、と感じたが、真理子はこの出会いを大切にしようと思った。
*
――およそ一年後。
まだ二月の半ばだったが、その日は春を思わせる陽気だった。土曜日なので、目覚ましをセットしていなかったが、朝、鶯の鳴き声で目が覚めた。
真理子は昼に、トマトクリームパスタを食すと、しばらくだらだらした後、一カ月先に控えている引っ越しに向けた準備を始めた。真理子はちょうど康介と別れた日に出会った十歳年上の建築士の男性・
央にそうした過去があるからこそ、真理子の風俗嬢の過去に嫌悪ではなく、大いなる同情心を示したのだと、彼女は思った。
真理子が衣類の仕分けをしているときにメールが届いた。相手は恭介からだった。
『お久しぶりです。真理子さんのおかげでまた小説が書けました。ありがとう。小説のファイルを添付しましたので、よかったら読んでみてください』
真理子は仕分けをほったらかしにして、タブレットでその小説を読み始めた。小説のタイトルは「十年ののち」だった。(了)
十年ののち spin @spin
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