再会


   *


 二月初旬の金曜日は、関東ではよくある冬晴れの天気だった。新宿駅に来たのは、何年かぶりだったが、東口交番前は、真理子の記憶している風景と変わりないように見えた。午後七時に十分前の今、待ち合わせの人たち――大半は二十代の若者――がガードレール沿いに鈴なりになっていた。真理子は今日、恭介に会うために康介からの誘いを断り、ここに来ていた。この一週間、恭介と会うことで頭が一杯だった。自分が今、人生の重要な局面を迎えようとしている予感があった。そうした中で、ベージュのコートに黒のタイトなパンツという、無難なOL風の服装で身を包んで、真理子はこの場に体を運んだ。

「真理子さん?」

 声をかけてきたのは、口髭を生やし、頭も薄くなっている中年男だった。おそらく街で出会っても恭介だとは気付かないだろう。しかし、老けた顔にはひと目で恭介とわかる特徴があった。また、ダッフルコートにジーンズという服装は、彼らしかった。

「恭介くん! 久しぶり!」

 真理子ははしゃいで言った。

 二人が向かったのは、三丁目のビルの地下にあるイタリアン酒場だった。

「話しやすい店がいいと思ってね。調べたんだ」と恭介。

「ありがとう」

 店に入ると、白シャツに黒パンツの制服を着た若い女性の店員に予約席に案内された。ウッディ調の調度品、壁に飾られているモノクロの風景写真が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。BGMのジャズはボリュームが絞られ、席間もゆったりしており、十年ぶりのデートにふさわしい店ように思えた。

 二人は、ボトルの赤ワインと前菜を適当に頼んだ。恭介との再会は、ある種の奇跡であり、それがもたらす非日常感がすべての辛い過去を打ち消した。真理子は今、康介とはついぞ感じたことのない高揚感に包まれていた。しかし、それは単に恭介が懐かしいからというわけではなかった。恭介との再会には、当時の自分との再会も含まれていた。恭介と付き合っていた頃はいわば黒歴史であったが、だからこそ、今日の自分と併置すると、ある種の達成感があったし、当時の自分に愛しさも感じられた。

「メールが来たときは、目を疑ったよ。朝、ベッドの中で見たんだけど、びっくりして、一瞬で目が覚めた」

 真理子はそう言って笑った。

「ぼくも古い端末の中に君とのメールを見つけたときは、全部一気に読んだよ。またこうして会えて嬉しいよ。元気そうで良かった」

「恭介くんも元気そうに見えるけど?」

「毎日薬飲んでる。調子のいい日もあるけど、悪い日もある。今日は調子いいよ」

「そうなんだ」

「真理子さんは、今は何しているの?」

 真理子は翻訳会社でチェッカーの仕事をしていることを話した。

「おお、いいね。語学が得意だったからね。ぼくも最近まで英語教材の編集の仕事をしてたんだけど、年末で切られた」

「……そっか。だけど、恭介くんは小説を書くために就職しなかったんでしょ?」

 ワインが来た。店員がワイングラスにワインを注いだ後、二人は乾杯した。

「今は単に就職できないだけなんだ」恭介はワインを一口啜ってから口を開いた。「それに、もう小説も書いてないし」

「そうなんだ。それはちょっと悲しいかも」

 真理子はそう言って、手に持っていたワイングラスを置いた。

「二年くらい前まで書いてたんだけどね。公募に出したこともあったけど、泣かず飛ばずで……。そろそろ潮時のような気がして」

 そのセリフは聞きたくなかった。恭介のおじさん臭い外見が、メンタル面での変化に連動しているように思えた。

「だけど、小説執筆は、別に公募で賞を取るためではないでしょ? ただ書きたいから書くんじゃないの?」

「昔はそうだった。だけど、今は生活もあるし、執筆のための時間を取るのもなかなか難しいんだ」

「それはわかるけど、合間を縫って書けないの?」

「……書けなくはない。そうだね。その通りだ。結局、ぼくは逃げてるんだ。小説執筆という重圧から」

 カプレーゼとサーモン&アボカドのカルパッチョが来た。両方ともコントラストが鮮やかで見た目が美しかった。

「小説執筆は、確かに重圧ありそうだよね。わたしはできないわ。当時、その才能をすごいと思ってたし、別れてからも書き続けて欲しいって思ってた。……とりあえず、食べようか。お腹空いてるでしょ」

 真理子はそう言うと、前菜を皿に取り分けた。

 真理子は飲食しながら、恭介が康介との関係を進めようかというタイミングで連絡をしてきたことの、大いなる偶然を思い出した。真理子は今や康介に過去を話すか、やめるか決めなくてはならない、のっぴきならない状況にあると考えていた。話さないという選択が一番無難ではある。自分から言わない限り発覚する可能性は限りなくゼロに近い。しかし、真理子は自分がそのことに負い目を感じるような気がしていた。たとえば、この先、康介と結婚することになったとしたら、それでやって行けるのか?

「実はわたし今、付き合っている人がいて、その人と同棲することになるかもしれないんだ。だけど、その前にピンサロで働いていたことを話すべきか迷っていて。恭介はどうしたらいいと思う?」

 真理子はそう訊かずにはいられなかった。恭介はフォークを休め、真理子を見つめ、ククッと笑った。

「どうしたの?」

「……まさかその話が出るとは思わなかったよ。もう何年も前の話でしょ。そんなの話す必要ないと思うけど」

「何年も前の話だよ。でも、だからと言って、その過去は消えないんだよ」

「世の中には時効というものがある」

「わたしの中にはないかも」

「真面目だね」

「……なんか隠すのは心苦しくて。他にも相手を試したいというのもあるかも。それでわたしのことを嫌いなるなら、それでいいという」

「なるほどね。じゃあ、言ってみれば」

「……恭介は今、彼女はいないの?」

「いないよ」

「いつから?」

「ずっと前から。君と別れてから、一人付き合った人はいたけど、もう七、八年前の話だよ」

「……わたしもずっと一人だった。今の人とは半年前に出会って、付き合ってるんだけど、同棲はあまり気が進まないんだよな。まあ、彼は四十近いから、関係を進めたいのはわかるけど」

「好きにすれば」

 恭介は口角を上げて、冷笑とも取れる表情で言い放った。

 前菜が終わったところで、鴨肉のロースト・バルサミコソースとピッツァ・マルゲリータをメインとして頼んだ。また、新たにドイツの白ワインをデキャンタで頼んだ。

「こうして会えて良かったよ」

 オーダーを終えると、恭介が唐突に言った。

「そうだね。恭介くんはわたしにとって、すごく特別な人なんだって、よくわかったよ」

「それは光栄だね。まあ、ぼくらはそういう間柄なのかもね。これは口説き文句ではなくて。そもそも新幹線での出会いからして、映画のような展開だったからね」

「実際、映画でも読んでいる本でお互いに惹かれ合うというのはあったよね。バタイユとクロソウスキーだっけ」

「それって、『恋人までのディスタンス』でしょ」

「当たり!」

 二人は笑った。

「やっぱり映画の趣味、合うよね、わたしたち。今、付き合っている人は、そういうの合わないんだよ。まあ、そんなの気にすることではないかなと思ってたんだけど、やっぱり映画の趣味は大事なのかもしれない。一緒に映画見ても評価がまったく違ったりして。相手が気に入っている映画をくさすのも気が引けるし、自分の意見は言わないんだけど。そういうのは、ちょっとストレスかな……」

「それはわかるよ。まあ、大多数にとって、映画は娯楽だから。娯楽としての要素があれば、満足できるんだよ」

「うん、そうだね。今の彼なんてまさにそうだわ。わたしも娯楽として楽しんでいる面はあると思うけど、それだけではなくて、何か自分の生き方に影響を与えるような映画が好きかな。実際、映画から影響を受けているところはあると思うよ」

「そうだね。そう思うよ。恋人に過去に風俗嬢だった話をするかしないかなんて、映画の影響なんじゃないかって勘繰りたくなるよ。そんなのよほど倫理的な人じゃないと話さないよ。悩むことさえないんじゃないかな」

「倫理的か。そうかも。世にはびこる道徳や規範は嫌いだけど、倫理的ではありたいって思ってる」

 真理子はそう言うと、デキャンタから恭介のワイングラスにワインを注いだ。


 九時半頃、二人はイタリア料理の店を出た。真理子は冬の冷たい空気に身を震わせた。ネオンの灯りが寒々とした光を放っている。一人で歩いていたら、寒さをできるだけ回避するために、ただ足早に目的地に向かうだけだろう。しかし、恭介と歩いている今は、寒さという身体的感覚を共有できることが嬉しかった。

 歩いて数分で着いたのは、花園神社の近くのビルの地下にあるバーだった。薄暗い空間は、決して広くなかった。客は、カウンターに中年の男性客が一人だけだった。店内の装飾は、退廃的とも言えそうな一種独特な雰囲気を醸し出していた。黒い革のソファー席を仕切っている黒いカーテンようなすだれ、凝った装飾が施された枠に収まっている、壁に設えてある大きな鏡、そして豪奢なシャンデリア。音楽は大きめでロック調の曲が流れていた。

 二人はテーブル席に座った。店員は、七三分けの端正な顔立ちの若い男性だった。恭介はウイスキー、真理子はカシスソーダを注文した。

「この店は昔、よく来ていたんだ」

「へぇ~、なんか雰囲気のあるお店だね。わたしは好きかも」

「ぼくが通ってたのはもう五年くらい前だけど、そのときのお店の人は、すごく映画とか本とかに詳しくてね。今は変わったみたいだけど」

「そうなんだ。この店はどうやって見つけたの?」

「当時、新宿にある会社に勤務しててね。まあ、それで新宿にはちょっと詳しいんだ」

「なるほど……。そういうことか」

「何が?」

「本当に東京を去るんだなって。今日は、それで思い出の場所を巡っているのかなって」

「まあ、そんなところかな」

 オーダーしたドリンクが来た。そこで恭介は店員に何か訊いた。その店員が「辞めて、今は別の店にいます」と言っていたので、前の店員のことのようだった。

「その店員と会えなくて残念だったね」

「いや、まあいいよ。これだけご無沙汰してて、今更顔出すのもどこかバツが悪いしね」

 真理子はそのセリフがひっかかった。わたしならばバツが悪くないのか? バツが悪くなる要素がないわけではないと思うが……。

「そう言えば、わたしとのメールを見つけたって言ったよね。どんなメール見つけたの? わたしは、もう恭介くんとのメール残ってないからさ。気になってたんだ」

「最後に交わした一連のメールだよ。覚えてない?」

「覚えてないなあ」

「そんなこともあろうかと。今日は端末を持ってきたんだ」

 恭介は鞄から、古い端末を取り出すと、画面を開いて操作した後、真理子に差し出した。

「まさか、持ってくるとはね」

 真理子はその端末を受け取ると、画面を見る前に、カクテルをぐっとひと飲みした。恭介からのメールと自分のメールを交互に読みながら、恭介との別れに至った、当時の状況が思い出された。あの寒々としたホテルでの夜から恭介とは一度も会うことなく、メールのやりとりで別れを決めたのだった。当時の自分の心情も痛みも忘れていたが、メールを読むとそれらが蘇ってきた。メールから自分が頑なに恭介に対して心を閉ざしていることがわかった。他方、恭介は必死になって打開を試みていた。「セックスできないことが致命的だとは思わない」など、およそ二十歳そこそこの男の子の言いそうなセリフではなかった。それに対して、自分はそれを肯定しながらも、恋人の口から汚れているようなこと言われて、ひどく傷ついたからもうやっていけない、という主旨の返事を返していた。次のメールで、単に自分がナイーブすぎるだけだ、と恭介は反論していた。それに対して、とにかくもう会いたくない、と自分。それで関係は終わった。そのとき、ピンサロは冬休みいっぱいで辞めて、晴れて風俗の仕事から足を洗えた時期ではあったが、精神面ではボロボロだった。一人で街を歩いているときに、ナンパしてきた男とホテルに行ったこともあった。そのときは、せっかく風俗から足を洗えたのに、何をやっているのかと自己嫌悪に陥った。肉体的な快楽はあったが、寂しさは深まるだけだった。

「ありがとう」

 真理子はそう言って端末を返した。

「懐かしいでしょ?」

 恭介は薄ら笑いを浮かべて言った。しかし、真理子は感情的にかき乱され、恭介の笑いにはまったく釣られなかった。このやりとりと同じようなやりとりを今後誰かとするかもしれないのだ。風俗の仕事をしたのが十年前であっても、その過去は今後も影響を揮い続けるだろう。この悩みは風俗の仕事に足を踏み入れた女性でないと、わからないだろう。

「懐かしくはないかな……。わたしにはこの問題はまだ実際的なのよ。メールのやりとりを見て、そのことを思い出した。忘れていたわけではないんだけど、忘れたことにしていたと言うか」

「今の彼にも伝えないとならないしね」

「そうだね」

「昔のことは気にしない奴も多いんじゃないかな。それに、止むに止まれない理由だし、AVとは違って、映像が残ってるわけでもないし」

「確かに受け入れてくれるかもしれないけど、どうだろう? そのことが相手に何らかの影響を与えないとは限らないじゃない。たとえ言葉の上では気にしないと言ってもさ、無意識ではどうかな」

「心配症だな。元風俗嬢だから軽く見るとか? だけど、男はそういう風俗嬢にお世話になっているんだ。実はぼくも、君と会う前に、ピンサロに行ったことがあったんだ」

「えっ? 本当に? それは知らなかった」

「だから、ピンサロで働いてると聞いたとき、ショックだったよ。まあ、仮に知らなくても、確かめにピンサロに行ったと思うけど。とにかく、そういう射精産業は、社会に組み込まれていて、ほとんどの男性が恩恵を受けているのだから、それを軽く見るのは、欺瞞だと思うんだ」

「そうかもしれなけど、実際に差別は歴然としてあるし、当事者は、ハードでハイリスクな仕事と社会的な差別とで、心身ともに疲弊しているのよ。それに、男性の性欲というものに毎日付き合っていると、セックスに幻想を持てなくなってくるし、ヤることで愛が育まれるなんて到底思えなくなるの」

「そう、それだよ。男性側からもセックスを通したメイクラブができなくなるかもしれない。当時のぼくのように。それはやはり、理屈ではわかっていても、無意識で風俗嬢を拒否していたからかもしれない。だけど、今はきっと大丈夫だと思う。もう過去なんだから」

「……もう遅いよ」

「だね」

 それからしばらくお互いに無言になった。店内には、デヴィッド・ボウイの『hours…』が流れている。この曲で、中年のボウイは青年時代のボウイと向き合っている。そういう時間の流れが今、切に感じられた。あれからお互いに離れ離れになったが、そうならなければ、今頃結婚していた可能性だってあった。そうなればもう自分の過去など何でもなくなるだろう。ハードルがなくなることは、なんと素晴らしいことか。

 恭介はウイスキーを飲み干すと、同じものを注文した。カシスソーダはまだ半分くらい残っていた。

「ウイスキー好きなんだ」

「そうだね」

「昔は飲まなかったのに」

「年取ると、好みも変わってくるよ。そうじゃない?」

「そうかも。わたしも納豆が食べられるようになった。食に限らず、いろいろなことを受け入れられるようになった気がする。だけど、受け入れられないこともある、と思う。恭介くんはこれから地元に戻って、仕事はどうするの? 何かプランはあるの?」

「痛いところを突くね。仕事は、家業くらいかな。農業と醸造業を営んでる。柿と醤油だね。後は、株とか土地の賃貸とか、そういうものを合わせれば生活できるレベルの収入にはなるかもしれない。田舎は、いろいろと農作物とかもらえたりするんだ。だから、こっちよりもずっと低所得でもやって行ける」

「へぇ~、そうなんだ。ならいいね。それで、今後の人生の目標は何なの?」

「目標? それをぼくに訊くかな?」

「まだ三五でしょ。まだまだ人生は続くんだよ」

「……そうだけど。まあ、今はひとまず、地元に帰って、生活の基盤を形成することかな」

「こっちとは全然違うだろうからね。まあ、地域社会がある田舎の方が、うつ病の治療には向いているかもね。それは良いのだけど、小説はもう書かないの? 当時、就活もしないで、小説家を目指してたのに」

「結局、ぼくは夜郎自大だったんだよ。周りの意見が正しかったんだ」

「それは、言い訳じゃないの。『夜郎自大』なんて、敗者の弁にしか思えないんだけど」

 今日会ってから初めて恭介の目の奥が光った。

「執筆の経験のない君にはわからないよ。分を知るのも大切なんだよ」

「わからないよ。だけど、『分を知る』というのはもっとわからないな。何の話よ。小説を書くのに分を知る必要なんてないでしょ。ただ、おもしろいから書くんじゃないの?」

「どうかな? どちらにしても、成果物はどうでも良いわけではないんだよ。たとえば、できたものがゴミだとしたら、そんなものに時間を費やしたいと思わないでしょ?」

「ゴミって誰が判断するのよ? 額に汗して書いたものがゴミなわけないでしょ」

「それは読者が判断する。君は甘いな。どれだけ努力しようが、時間を費やそうが、ゴミはゴミなんだよ」

「わたしは前に恭介の書いた小説を読んだことあるけど、ゴミだなんて思わなかったよ」

「……それは嬉しいけど、実はもう書くのも辛いんだ。というか、書けないんだ」

「そうなんだ。それは悲しいね。わたしは、小説書けないから、そういう才能を羨ましく思ってた」

「ぼくだって書けなかったんだ。少なくとも一定の水準のものは。書いたことに対して誇れるような小説は。唾棄すべきようなものなら書いたけどね。結局、ぼくにとって小説執筆とは、孤独を正当化するための作業だった気がする。小説を書いてるから孤独であっても良いというような。孤独は悪いことではないけど、ぼくも人並みに恋人や友達を欲している。でも、そういう親密な関係は、社会人になってからできていない。それがうつ病の一因だと思ってる。そうした中で、小説執筆は、孤独を紛らせはしたけど、ただ孤独な時間を増やすだけだった。自分の書いた小説がまるで相手にされないとしたらどうだろう? それでも書き続けられるほど、ぼくは小説執筆に魅せられているわけではないんだ。ぼくにとって小説執筆は、建設的な行為ではなく、むしろ退嬰的なものだったのかもしれない」

 恭介は長々と話すと、チェイサーの水を飲んだ。

「孤独か。わたしもそれはすごくわかるよ。わたしもずっと孤独だったし、今でも実は孤独なの。それはやっぱり風俗で働いたことが影響していると思う。そのことを話さないと、自分が真に受け入れられたと感じられなくて」

「なるほど。相手に話すのは、そういう理由なんだ。単にクソ真面目なわけではないんだ」

「そうだよ。だって、過去ってやっぱり今のわたしを定義していると思うし、だから、過去の自分も含めて、わたしを受け入れてもらいたいの」

「その通りだ。ぼくも過去がなかったら、今の自分はない。世間的には敗残者だけど、過去を後悔してない」

「『敗残者』だなんて、まだ人生は半分以上残ってるのよ。やろうと思えば、これから結婚もできるし、子ども持てるよ」

「まさか。ぼくにとって、結婚ほど縁遠いことはないよ。自分一人生きていけるかどうかってところだね」

「そうかな。まあ、結婚でなくても、良いけど。だって、ただ単に生活するだけでは、やっぱり辛いんじゃない? 人生には何か生きがいが必要だと思うんだよね」

「その通りだと思うけど、ここしばらくは地元で生活の基盤を作ることとうつ病を治すことが先決かな」

「まあ、それはそうだけど。……小説は書けないって言ったけど、書きたいことがあったら、書く?」

「どうかな? 書くかも、としか言えない」

 真理子はフフっと笑った。妙案を思いついたのだった。


 店を出たのは、十一時頃だった。街を歩く人の流れに従って、靖国通りを新宿駅に向かって黙って歩いた。二人が信号で止まったとき、真理子には合図に思えた。ここを逃したら、もうこのままお別れかもしれない。別れるのは嫌だ、と相手も思っているに違いない、と真理子は確信していた。隣の恭介を見上げて言った。

「ねぇ、さっき言ったじゃない。今はわたしとヤれるって」

 恭介は一瞬、目を丸くして驚いた表情を見せたが、次の瞬間には、笑みを浮かべて言った。

「うん、ヤれるさ、きっと」


 二人は、歌舞伎町の奥にあるホテル街の目についたラブホテルに入った。空いている部屋は、一室だけ。宿泊で一万二千円という金額は高いと思えたが、恭介は躊躇なく、その部屋を選んだ。

 カード式の鍵で402号室に入った。目につくものといえばベッドとテレビだけしかない、性行為に特化した部屋に足を踏み入れるや否や、昔、恭介とラブホに来たときの、苦い思い出が蘇った。その思い出は、今夜塗り替えられるだろうか。真理子は自分がそれを期待していていることに今気づいた。恭介の小説の糧になれば、というのはそれを後押しする格好の言い訳だった。

 お互いにシャワーを浴びて、裸になって、二人は交わった。それは、真理子にとって儀式のようなものだった。真理子は恭介と交わっていても、相手と愛し合っているのではなくて、むしろ行為を通して、過去の自分や恭介を救済している気になっていた。男にとって失敗した性交ほど心残りなものはないだろうから。それに、あのメールをやりとりしていたときの自分は、この未来に歓喜するのではないだろうか。あれほどの暗い苦悩の日々もこうして塗り替えられるとしたら、人生捨てたものではない。そして、苦悩こそが大きな歓喜を生み出すとしたら、それも捨てたものではないかもしれない。

 恭介の真理子を求める勢いは激しく、二人は嵐のように交わった。

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