ラブホにて
それ以来、恭介とは月に二、三回会うようになった。たいていは居酒屋やバーで飲んだ。映画や卒論の話など、話題は尽きなかった。しかし、時間は限られていた。恭介は卒論の執筆が忙しいという理由で、家に泊まっていかなかった。
クリスマスが迫っている冬の夜、何度か行ったことのある新宿歌舞伎町のHUBで恭介と会うことになった。真理子が店に入ると、恭介はカウンターでオーダーしているところだった。黒のタートルニットに臙脂のコーデュロイパンツ、ツイードのハンチングという格好はどこか小説家気取りに思えた。午後七時という浅い時間のため、まだ店内は空いていた。店内にはマライヤ・キャリーのクリスマスソングが流れている。真理子はどこかくすぐったい気分になった。クリスマスというイベントとは距離を置きたいとは思っていても、音楽を聞くと否応なしに気分が高揚する。
「卒論はどう?」
テーブルに着いてビールで乾杯すると、真理子は訊いた。
「そろそろ追い込みかな」
「クリスマスや年末年始も卒論執筆してるの?」
「……どうかな」
「帰省はする?」
「しない」
「わたしも」
「そっか。じゃあ、カウントダウンはどこか行く?」
「うん。行こう」
恭介は都内のクラブイベントを提案した。新宿歌舞伎町にある大型クラブでのイベントということだった。真理子はクラブには詳しくなかったが、良さそうに思えたので、賛成した。
「ところで、最近バイトはどう?」
その質問は真理子には唐突に思えた。再会した日以来、まるで忘れているかのように「バイト」の話は一切しなかったので、一瞬戸惑った。
「……相変わらずだよ」
「嫌な客とかいない?」
「そりゃあ、いるけどさ……」
「たとえば、どんな?」
恭介はそう言うとバッグから煙草の箱を取り出し、煙草に火を点けた。
「急にどうしたの?」
「急じゃないよ。訊かなかったけど、気になってたんだ」
「知りたいの?」
「まあね」
「ええと、基本的に不潔な客は皆、嫌だよ。本当にサイアク。まあ、めったにいないけど。そういう客は、店員が止めてもらいたいね」
「なるほど。他には?」
「……プライベートのこととか、いろいろ聞いてくる客もウザいね。後は、仕事し辛い客かな」
「『仕事し辛い客』って? たとえば?」
一瞬の間、二人は視線を交わした。恭介の眼差しは静かでありながら、詰問するようでもあり、底が知れなかった。
「この話は止そうよ。知ってどうするのよ?」
「どうもしない。ただ、君と苦しみを共有したいと思って」
「……せっかく二人で会ってるのに、こんな話したくないよ」
「まあ、ぼくも本当は聞きたくない。だけど、腫れ物を扱うように、その話題を避け続けることで、ますますそのことが重くなるんじゃないかって思うんだ」
「だけど、恭介にこんな話したくない。自分が単なるアバズレみたいに思えるから」
「そうだね。わかったよ」
恭介はそういって煙草の煙を吐き出した。真理子は完全に気分を害した。クラブイベントの予定に高まった期待も失速した。賑やかなBGMも心に響かなかった。話題を変えようにも、もう話題を出す気力もなかった。空気は加速度的に重くなる。恭介とやり直してから日に日に高まる「ひょっとしたら」という嫌な予感は、ますます当たっているように思えてきた。あれから一度も恋人同士になっていない。恭介はそれでいいのだろうか? それはない、と思う。夏の渋谷での夜、恭介は二回も自分を抱いた。したいはずだ。ひょっとして煩悩を消すために坊主にしたのだろうか? その着想には、パズルのピースがはまったような感覚があった。
「そう言えば」恭介が口を開いた。「『軽蔑』、読んでる?」
実際のところ『軽蔑』は、途中で止まっていた。
「今は止まってるけど」
「そっか……」
今は本の話はする気になれなかった。自分たちの関係を直接話題に出すべきか? 真理子は『軽蔑』が自分たちを結びつける上で大きな役割を果たしたことを思い出した。そこで今、恭介はその本を話題に出して、間接的に自分たちのことを話題にしようとしたのかもしれない、と考えた。
「あの本は、わたしたちにとって、大きな意味を持っているように思うんだ。こうして一緒にいることが、あの本を抜きにはなかったかもしれない、ということには同意するよね? だから、どうしても恭介とあの本を切り離せないんだ。それでわたしとの付き合いを考え直したい、と言われたときから読んでなかったの。なんと言うかな。別れた人からもらった香水だったら着けないよね? 本と香水は違うけど」
「……なるほど、それはわかる気がする。自分も同じかも。でも、今は読み進められるよね?」
「そうだね。だけど……」
「だけど?」
恭介はまっすぐに自分を見据えている。その視線からは逃れられない気がした。それに立ち向かうには自分もまっすぐに問いかけるしかない。
「わたしたち、また会うようになってから、一度もしてないよね?」
「……ああ、そんなことを気にしてたんだ。そりゃあ、したいよ。ただ、今はちょっと忙しいから」
「でも、キスもしてないじゃない」
「ごめん。ぼくはそういうことしたのこの前が初めてでさ。不慣れなんだよ」
「……今日してよ」
真理子はかろうじてそう声に出した。
「いいよ」
恭介はこちらに身を乗り出して言った。
二人は、HUBで飲食した後、九時過ぎに店を出た。外は寒く、カップルでいるときは、お互いの距離を縮めたくなる。恭介もまたそう感じたのか、真理子の手を握ると、こちらを見て言った。
「やっぱり路上でキスというのもな」
「そうだね」
恭介は新宿駅とは逆方向の真理子が行ったことのない方向へ進んだ。人通りの少ない薄暗い通りを歩くこと数分でラブホテル街に着いた。「休憩5,000円」という比較的安いホテルの前で入ろうか、と恭介は訊いてきた。真理子は入るのは良かったが、釈然としないものがあった。最初のときと同様に、直接ではないものの、また自分からの誘いでホテルに来るのは、不本意であった。
「無理してない?」
「まさか」と恭介。
二人は塀で人目から遮られた狭い通路を進み、曇りガラスの自動ドアを通り、ホテルのエントランスに滑り込んだ。
部屋に入り、電気を点けると、恭介はさっそく真理子の唇を奪った。真理子は自分の口に入ってくる恭介の舌に自分のそれを絡めた。それから、恭介は真理子の胸を揉みしだいた。
「ちょっと待ってよ。シャワー浴びるから」
真理子は恭介の手首をつかむと言った。
真理子はシャワーを浴びながら、ドキドキしている自分を感じていた。やっぱりこうやって抱かれるのは悪くない。これがカップルの本来のあり方だ。これがなければ、付き合っていても、どこか不安で、落ち着かない。恭介はどうして、これまでしなかったのか。我慢していたのだろうか? さっきの勢いからそんな気がした。
恭介が入れ違いでシャワーを浴びて出てきたとき、真理子は照明を落とした部屋で、バスローブの中に下着一枚になってベッドに横たわっていた。そんなとき、女としての本能なのか、何か満ち足りた気持ちになる。これから起こることを思うと、アソコが熱くなる。こんな風になることは、バイトでは決してない。やはりバイトは射精をしてもらうための作業でしかない。そのことを再認識できて、真理子は嬉しかった。恭介が隣に来た。
恭介は真理子を抱き寄せるとキスした。それから、真理子の胸や下半身を弄ったが、やがて体を離して、隣で仰向けになった。恭介は目に涙を浮かべていた。
「ごめん……」
恭介は真理子の視線にそう応えた。真理子は恭介の下半身を手で探った。そこは萎んでいた。真理子は毛布の中に潜ると、眠れる獅子を咥えようとした。しかし、恭介は「止めてよ」と言って、体を捩った。
「どうして? カップルなんだからいいでしょ?」と真理子。
「……やっぱり気になるんだ。バイトのこと」
真理子は頭を殴られた気がした。目の前が真っ暗になった。
「そんな……いまさら、そんなこと言うなんて」
これまで積み重ねてきたものがすべて崩れたように思えた。真理子は泣いた。
……お互いに無言でベッドに横たわったまま、かなりの時間が経ったように思えた。もう恭介とはどうにもならない。それだけではない。他の男性とも恋愛はもうできないのだ、と真理子は悟った。
帰り道で恭介は「バイト止めたら、きっと恋人同士になれるよ」と言った。真理子は何とも応えなかった。そのセリフは猥雑な街のネオンのようにいかがわしかった。
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