意外な申し出

   *


 長い沈黙の後、恭介が「そろそろ帰るわ」と漏らしたとき、真理子は「泊まっていけば」とは言えなかった。

「じゃあ、また」

 恭介は玄関で、中途半端に振り返ったが、こちらに視線を合わせてくれなかった。その横顔は沈んでいた。

「うん、また……」

 恭介が夜陰に紛れるまで、玄関で後ろ姿を見送ってから真理子は室内に戻った。ローテーブルには、二人で飲んだビールの缶やつまみのさきイカとミックナッツが皿に残っている。それらは、くつろいだ、楽しい宴の名残ではなく、先程までの重い空気の残滓だった。真理子は、ベッドに倒れ込んで、突っ伏した。ピンサロの仕事をしながら、恋人を持つのは無理なのか? 仕事は仕事なのに。恭介には誰にも話したことのないことを話し、男の子を招いたことのない家に入れた。プライベートな部分は恭介だけのものなのに。不特定多数の男性に体を触られることで、自分が目減りするなどと思っていない。わたしが男たちに見せているのは、〈女〉の部分であり、わたしの個人的な部分ではない。……それは、苦し紛れにひねり出した理屈だった。それが机上の空論だということは誰よりも真理子自身がよくわかっていた。それならば、なぜときどき死にたくなるのか? 仕事それ自体よりも孤独であることのほうが辛い。恭介とはセックスだけではなく、すべてを共有したかった。そうして初めてわたしは、孤独から抜け出すことができる。だけど、それは難しい注文なのだろう。男は女の体に独占欲を抱くものだ。それこそが男が女に求める最大のもの。それがカネと引き換えに誰にでも開かれているとしたら、どうだろう? ああ、考えても無駄だ。大学卒業のために茨の道を選択した時点で、恋愛は諦めたはずだった。それでも、恭介と出会った。そこから恋愛に発展させたことは間違っていなかった。そして、すべてを話したことも。時期尚早だっただろうか? そうとも言えないだろう。すでにベッドをともにした間柄だから。

 顔をしかめたり、ビールを一気飲みしたり、声を荒げたりする恭介のリアクションは予想範囲内だった。「いつまで続けるのか」という問いに真理子が「今年いっぱい」と答えると、「今後の付き合いは、考えさせてくれ」という言葉を口にした。たぶん恭介には寝耳に水だっただろう。彼も映画の趣味が合う子と出会って、きっと高揚していたはずだ。そういう状況で、バイトとはいえ風俗で働いているという事実は、俄には受け入れがたいだろう。でも、どこかで恭介ならば理解してくれるのでないか、と期待していた。しかし、彼に幻想を抱いていただけだったのかもしれない。

 食事のとき、「実は、嘘ついてたことがあるんだ」と言って、恭介はひどくすまなさそうにまだ就職が決まっていないことを打ち明けた。真理子は口にはしなかったが、「そんなことか」と拍子抜けした。卒業までまだ半年もあるのに。それに小説が書きたいなら、好きにすれば、と思った。就活で内定が出ないことが就活生にとって深刻な状況であることは、理解できたが、それは真理子の今の状況に比べれば、贅沢な悩みのように思えるのだった。そんなよくある悩みだったら、どんなに良かっただろう。

 真理子はベッドから起き上がると、テーブルの上の空き缶などを捨てた。時間はまだ十時半。明日は午後からバイトだ。今夜は恭介と過ごしたかった。恭介という精神的支柱があれば、辛いバイトも乗り越えて行ける気がした。今は恭介と出会う前よりも辛い。希望が潰えようとしている今は。真理子は机の上にある『軽蔑』の文庫本に目を向けた。それは恭介から一週間前に借りたものだった。毎日少しずつ読むたびに、満たされた気持ちになったが、もうページをめくるかどうかもわからなかった。お互いに相手を意識させた趣味ないしは精神的親和性は、飽くまでもある前提――「普通」の人であること――の下でのみ有効なのかもしれない、と真理子は思った。わたしは普通の女子大生ではない。社会で性風俗はどこまでも異質。包摂されているとは言えない。たとえバイトでもひた隠しに隠し続けなくてはならない外部だ。いくら気が合うと言っても、異質な要素を受け入れられるわけではない。

 恭介からメールが来たのは、それから一カ月近くが経ち、季節が秋へと変わった頃だった。その頃には、真理子は諦めの境地に入っており、一瞬でも夢を見られたことを良い思い出にしよう、という意識に変わりつつあった。日曜日の夜の十一時過ぎで、そのとき真理子は仏語の文法の授業の予習をしているところだった。「お久しぶり」というタイトルの恭介からのメールは、それなりに平静を取り戻していた精神状態に波風を立てた。真理子はメールを開く前に大きく深呼吸した。

『メール遅くなってごめん。元気ですか? あれからいろいろと考えました。本当に悩んだけど、これからも付き合いたいです。今度、会いましょう。今週末はどうですか?』

 そのメールを真理子は何度も読み返した。それはまったくの予想外とは言わないまでも、意外な回答だった。それは喜ぶべき、嬉しい回答のはずだった。しかし、今の真理子にとっては、そうとも言えなかった。希望ほど怖いものはない、と身に染みて知ったからだった。希望を持つや否や、その希望が潰える瞬間に怯えなくてはならない。また胸をえぐられるような思いをするかもしれない。


 恭介と久しぶりに会う日、真理子は朝から落ち着かなかった。服装は事前に決めていたが、直前になってまた迷いが生じた。結局黒地に小花柄のワンピースに決めて支度をすると、「新宿東口交番前に午後三時」に間に合わせるためには出発しなければならない時間になっていた。

 爽やかな秋晴れの日だった。真理子は、ブーツがアスファルトを叩く音を楽しみながら、いつもの駅までの道のりを歩いた。

 電車内では、前の座席の同世代のカップルが気になった。真夏に出会った恭介とは、夏の短い恋として一区切りついていたが、新しい季節とともにまた新たな章が始まる予感もあった。恋愛で傷つくのは怖いけれど、どう転んでも恋愛するときはするだろうし、それは自分でコントロールできることではない、と真理子は腹をくくっていた。ただ、今回は、自分にも非があったよう思う。風俗を経験したことでアバズレになったのか、セックスに対して積極的すぎたかもしれない。普通の女の子は自分の方から誘ったりしないだろう。最初のデートでヤるのは避けるべきだったのだ。まあ、あのときはオールナイトで映画を見る気にはなれなかったが。奇跡的に心を通わせることができる相手が見つかり、どこか堰を切ったように愛されたいという思いが高まった。それはきっと日常の孤独の裏返しだったのだろう。結局、それが根本的な問題だったのだ。

 待ち合わせ場所に着いたとき、すでに恭介はいた。帽子をかぶっていたので、一瞬彼とわからなかったが、長いもみあげは恭介だった。紺の野球帽は意外だったが、グレーと白のボーダーの長袖Tシャツにベージュのパンツという服装は恭介らしいように見えた。真理子に気づくと、恭介は笑顔を見せたが、その笑顔はどこかぎこちなかった。

「帽子、被るんだ。お洒落だね」

 真理子は開口一番に言った。

「そういうのじゃないよ」

 恭介はそう言うと、帽子を取った。現れたのは、センター分けの髪型ではなくて、野球部員のような坊主頭だった。

「……どうしたの?」

「うん……、とりあえず店行こうか」


 歩いて五分としない内に、三越南館の近くにある小洒落たカフェに着いた。黒髪のかわいい女の子の店員の案内で入口近くのテーブルに着くと、メニューを二人で眺めたが、「ビールにしようかな」と恭介は言って、こちらを見た。

「飲むなら、わたしはワインにするわ」

 オーダーを済ますと、恭介は髪型について話した。

「髪を切ったのは、自分の中で変わりたいという気持ちがあって、何か思い切ったことをしたかったんだ」

「だけど、その髪型で就活は大丈夫なの?」

「就活はしないことにした。卒業後はバイトかな。もちろん、小説を書くためにだよ」

「……そっか。まあ、恭介がそう決めたならいいんじゃない」

「君に話して、背中を押された気がしたよ」

「わたしの意見なんて参考にならないよ。お友達はどう言ってるの?」

「皆、就活すべきと言っているよ。実際、同じサークルのぼくよりも数段書ける奴も教員の道を選んだし」

「人がどうあれ一度しかない人生だから、好きにすればいいんじゃない」

「そうだよね。フリーターになるのと就職するのとでは、生涯賃金が全然違うとか言う人がいるけどさ、あまりピンとこないんだよね。カネを稼ぐために生きるわけではないから。カネは必要なだけあればいいよ」

「わたしもそうだよ。ただ、今はそのおカネを稼ぐために、苦労しているけど」

 恭介が何か言おうとしたときに、オーダーしたドリンクが来た。恭介は「再会に」と言って乾杯した。

「髪を切ったのは他にも理由があるんだ」恭介はビールを一口飲むと言った。「坊主になって異質な存在になることで、ぼくなりに真理子に近づきたかった。坊主にすることなんか、君のバイトに比べたら、全然大したことないけど、やっぱり最初はすごく恥ずかしかったよ」

「男の子なんだし、坊主なんかどうということはないよ」

「まあ、そうだよね。罰ゲームで坊主というのもあるし。……だけど、一つのけじめとして、坊主にするのは、理にかなってると思う。あれから悩んだよ。最終的な結論はメールに書いた通りだ。ショックだったけどね。月並みな独占欲というか、そういうものに囚われていたんだ。……でも、恋人だからといって、真理子を所有できるわけではない。金銭面でもぼくは援助できない。……恋人なら、寄り添うべきなんだ。性行為と言っても、それは商売なんだから。まあ、そう割り切れるかどうかはまだ自信ないけど」

 恭介は訥々と話した。

「嬉しいけど、喜ぶのはまだ早いような気がするな。メールの返事、意外だったよ。たぶん断られると思ってから。そのつもりでいたから、まだ半信半疑なんだよ」

「まあ、仕方ないよね。それはこれからのぼくの行動で示すしかないと思ってる」

「…………」

 真理子は「もうわたしを悲しませないでね」と言おうとして言葉を飲んだ。そのセリフは、弱さの表明のように思え、そう言うや否や、自分がどこか演歌の女のような存在になるような気がしたから。そうする代わりに、真理子は手を差し出した。自分の手を握る恭介の手はすべすべしていて女の手のようだった。しかし、その感触とともに恭介と無言で視線を交わすと、関係が修復されたように感じられて、真理子は高揚した。

「今後ともよろしく」「こちらこそ」

 そこで二人のこれからに関する話はひとまず終わり、今日はこれからどうするか、という話になった。結局、屋内型の遊園地に行くことになった。

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