土曜の夜

 電車に揺られること約三十分で自宅の最寄駅である東急東横線の大倉山に着いた。自宅は駅から徒歩十五分のアパートの一室だった。五万という相場よりも大幅に安い家賃は、築年数が三十年を超えていることに加えて、近くに幼稚園があることが理由だろう。

 幸いなのは家まで平坦路で、コンビニやスーパーが近いことだ。真理子はコンビニで缶チューハイとミックスナッツを買った。これから家で英文と向き合う予定だったが、土曜の夕方という時間も楽しみたかった。

 英日翻訳のトライアルの課題文は、約八百ワードの契約書からの抜粋だった。複雑な英文を完璧に意味がわかるまで丹念に読む。仕事で何度も似たような英文を読んでいるので、意味を取るのはそう難しくないが、いざ自分で訳すとなると簡単には行かない。真理子はネット検索や紙の用語集を参考にしながら、慎重に訳していった。会社で仕事をしているときのように静かだった。そうでないと仕事に集中できない。しかし今は、静けさが息苦しかった。せっかくの土曜の夜なのに、こんなことをしていて良いのか、という声が次第に高まってきた。チューハイを飲み干し、半分くらい訳したところで、夕食の時間になった。

 これから作るにも冷蔵庫に材料はなかった。外で食べようかと思って、着替えているときに、スマホにメールが届いた。恭介からだった。

『連絡ありがとう。ぼくも元気です、と言いたいところだけど、残念ながらそうでもないです。メンタルを少し患っていて、薬を毎日飲んでます。実はぼく、近々地元に帰る予定なんです。真理子さんは今も東京で頑張ってるんですか?』

 真理子はそのメールにすぐにでも返信したかったが、ひとまず駅前の中華料理屋に行くことにした。

 冬の寒い夜をママチャリで走りながら、メールの返事を考えた。早くメールに返信したくて、ついついペダルを漕ぐ脚にも力が入る。

「いらっしゃい」

 中華料理屋に入ると、顔見知りの大将の歓迎を受けた。店内の客はまばらだった。真理子はカウンター席に着き、回鍋肉定食を頼むと早速、返信メールをタイプし始めた。

『こんばんは。メンタルを少し患っているということですが、鬱病とかでしょうか? わたしは今も東京(正確には横浜ですが)に住んでますよ。でも、東京で頑張っている』

 そこまで書いて、止まった。自分が「東京で頑張っている」と考えたことはなかったが、確信が持てなかった。数年前から翻訳会社に勤務し、今は翻訳者として独立できそうな地点にいる。また、恋人もつくった。すべて自分の意志で行動を起こし、ここまで何とかやってきた。地元に帰ることは考えてなかった。東京の暮らしの暗黒面も経験したが、そのことはむしろ、東京に留まることの動機付けになっているではないか。リスクもあるが、ここにはいろいろな選択肢があり、自分で決められる自由があることがわかったから。

『こんばんは。メンタルを少し患っているということですが、鬱病とかでしょうか? わたしは今も東京(正確には横浜ですが)に住んでますよ。地元は佐渡でしたよね。田舎の方が病気の治療には良さそうですね』

 結局、この文面でメール送信した。

「おまちどうさま」

 ちょうど回鍋肉定食ができたところだった。

 お腹が満たされると、今度は誰かと話がしたくなった。真理子は何度か行ったことのある家の近所のこじんまりとしたバーに足を伸ばした。

 中が見えず、一見さんには入りにくいドアを開けると、若い男性の先客が一人いた。

「お、こんばんは」とマスター。

 五十代のマスターが一人で切り盛りしている十席くらいのカウンターのみの店である。この店は最初に去年の暮れに康介と初めて行き、先週に続き、三回目だった。マスターは音楽に造詣が深く、店内にかかっている洋楽は、ジャズなどバーにありがちな音楽ではなかった。真理子が知っている曲は多くなかったが、曲名やアーティストを知りたいと思うような曲が多かった。

「こんばんは。寒いですね」

 真理子は入口近くの席に座ると、マティーニを注文した。

 マスターは、シェイクした液体をカクテルグラスに注ぎ、オリーブの実を付け加えて、真理子に向かって差し出した。その一連の動作は、スムーズで円熟味があった。

「はい、どうぞ。土曜日に来るのは始めてかな」とマスター。

「そうですね。今日は暇だったので」

「彼氏とデートじゃないの?」

「昼間はデートだったんですけど、映画見て帰ってきました」

 真理子はそう言うと、カクテルグラスを口に運んだ。冷たくてパンチのあるカクテルだ。ジンとベルモットの香りも素晴らしい。この一口からバーでの時間が始まる。

「喧嘩でもした?」

 マスターは、からかうような笑みを浮かべた。

「いえ。喧嘩ではないです。……実は、昨日元彼からメールがあったんですよ。十年くらい前に付き合っていた人なんですけど。内容は『元気ですか?』的な、単なる挨拶です」

「へぇ~、それはちょっとしたサプライズだね。メールには返信したの?」

「はい。ついさっき二回目の返信をしました」

「そうなんだ。じゃあ、その内に返信来るかもね」

「……ですね」

「もしかして、今の彼氏から元彼に心が動いてるのかな?」

「……う~ん。元彼のことが気になっているのは確かですね。十年ぶりにメールが届いたら、しょうがないですよ」

「それは人によるんじゃないかな。どうでもいい人なら、十年ぶりにメールが来てもスルーするでしょ」

「確かに。それはそうですね」

 カクテルが残り少なくなると、頭がボーっとして気持ち良くなってきた。マスターは先客のオーダーを受けて、カクテル作りに取り掛かった。店にはカーディガンズの懐かしい曲が流れている。真理子はその曲の入ったアルバムを持っていて、学生の頃、よく聽いていた。ちょうどピンサロで働いていた頃だ。辛い日々だったが、家でこの曲を聴いているときは、哀愁を帯びたメロディが胸に染みわたり、どす黒い感情が緩和されるような気がした。また、その頃に見た『キリング・ゾーイ』という映画では、ジュリー・デルピーが演じるゾーイが同じように学生兼娼婦をやっているのを見て、勇気づけられた。そうした中で、恭介に出会い、自分でも驚くほど積極的にアプローチしたが、当時は愛に飢えていたのだろう。毎週、見ず知らずの男たちに消費され続ける性に何とか歯止めをかけたかった。恭介は性愛を通して、自分を孤独から救ってくれる相手として打ってつけに見えた。実際、少なくとも一時的には望みはかなったが……。

「さっきかかってた曲、カーディガンズですよね。懐かしかったです」

 真理子はマスターが戻ってくると、そう話しかけた。

「古い曲知ってるね。九十年代の半ばに流行った曲だよ」

「わたしがよく聽いていたのは二千年頃ですね。たぶんラジオで聴いて、CD買ったんだと思います。いい曲ですよね。ボーカルのニーナも可愛いし、大好きです」

「九十年代半ばにスウェーデンのグループが流行ったんだ。エイス・オブ・ベイスやメイヤは知ってるよね?」

「はい。エイス・オブ・ベイスもどこか哀愁があって、わたしは好きですね」

「ヨーロッパのグループは、そういう曲多いよね。そっか。そういうちょっと暗い感じの曲が好きなんだ」

「当時は特にそうでしたね」

 真理子はそう言うと、グラスを空けた。

「次はどうする?」

「じゃあ、ジャック・ターお願いします」

 ジャック・ターは、真理子がここで頼む定番的なカクテルになっていた。横浜で生まれたという由来は聞いた。だからと言って、どこか横浜らしいのかわからなかったが。横浜は吉田町にしろ、関内にしろバーが多い地域であり、バー文化が発達しているが、横浜のバーは定型的なところがあるようだった。これまでの数店の限られたバー経験では、バーテンは制服を着ており、店内の音楽はジャズだった。それは、真理子にとってあまり好ましい特徴ではなかった。制服は真理子が嫌いなものだったし、ジャズも聴かなかった。

 今日のラストドリンクと決めたジャック・ターができた。クラッシュドアイスのラムベースのカクテルである。

「最高ですね」

 真理子は一口飲んで言った。

「そうかい。ま、俺の作るカクテルだからな」とマスターは笑った。そのとき携帯端末が鳴った。恭介からのメールだった。

『やっぱりこっちにいましたか。ぼくは二月半ばまで東京にいますので、よかったらその間に会いませんか?』

 予想していた展開だったが、返事しづらかった。せめて何か会う理由があれば。しかし、そんな理由などあるはずもない。

「元彼からメール着ました。『会いませんか』って」

「へぇ、良かったじゃない」

 マスターは、そう言うとジッポライターで煙草に火を点けた。シュポッという発火時の音と蓋を閉じるときの耳障りの良い金属音は、もっと自分をオープンにしたいという真理子の気持ちにも着火した。

「元彼はわたしがどん底だった頃を知っている人なんです。実はわたし、学生の頃、風俗で働いていたんです。ピンサロですけど」

「ピン……本当に?!」

 マスターの顔色が変わった。

「はい」

「信じられないな」

「でも、本当なんです。残念ながら。とにかく、風俗で働いている頃、帰省の新幹線で元彼の恭介と出会って、わたしは夢中になって、恋愛しようとしました。恭介もまたそうだったのかもしれません。その中で、やっぱり風俗で働いていることを隠すことはできませんでした。そのことを打ち明けることで、結果としては、お互いに苦しむことになりました。風俗の仕事に理解を求めることはできませんよね。特に若い男の子には」

「そうだね。なかなか難しいものがあると思うよ。だけど、理由にもよるかな。好きで風俗で働いていたわけじゃないよね?」

「違います。単純に親からの仕送りが打ち切られたんです。父親が勤め先を失って」

「なるほど。だけど、それで風俗というのはたくましいというか、無謀というか。そういう選択をする人は、少数派でしょ」

「ええ、そうですね。わたしの場合、地元に帰りたくなかったんですよ。一人暮らしも続けたかったですし」

「気持ちはわかるけど……。だけど、ピンサロという道はすごいよ。何するところか知ってたよね?」

「はい。確かに厳しいものがありますよね。でも、短期間でまとまったおカネを作るには他になかったんです」

「どのくらいの期間続けたの?」

「約一年です。週ニか三で、一日六時間」

「そうか。でも、それで学費稼いで大学卒業したんでしょ。なら、良かったのかもね。新聞奨学生というのがあってね。それもすごく大変だと思うよ。まあ、だけど風俗はね。いろいろとリスクもあるしね。比較はできないか」

「わたしは朝早起きするのが苦手だから、新聞奨学生は、とてもできそうにないです」

 真理子はジャック・ターを啜りながら、話したことに達成感を感じていた。どうにかしてこの過去と折り合いを付けて生きて行かなくてはならない。話すことは、たぶん過去から解放される上で助けになるだろう。

「それで、その頃の彼に会ったら、どうするの?」

「わからないです。ただ、彼、ちょっとメンタルを病んでいるらしくて、心配というのはありますね」

「……メンタルを病んでる、か。だけど、それは不安にさせる要素でもあるよね。そういう人に会うのは不安でしょ。深い関係になった人だから、たぶん情が残っているんだろうね」

「……それはそうなんでしょうね」

 情というのか、自分でもわからなかったが、確かに恭介との恋愛は今なお真理子が胸に秘めているもので誰にも話していなかった。

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