第3話第一章第二節
朝日が地平線を出るより前に、俺は眼を覚ました。と言うのも、獣らしき鳴き声と人らしき叫び声が聞こえたからである。
眼前には草地が広がり、昨晩抜けた森と草原の堺に自身がいる事が分かる。着ている囚人服は泥だらけで、あちこち裂けていた。
問題の声は日の出とは反対側、つまり昨夜抜けた森からであった。音の距離からしてそう遠くはないだろうが、いまいち様子を見に行く気が起きない。
どうせ俺が行ってもこの装備じゃ出来る事は限られる。携帯で助けを呼べば消防か警察が探すだろう。ざっと丘を見渡しても電波塔や中継基地がないから、携帯が通じるかは怪しいが。
俺は気にせず道沿いに歩く事にした。南北の山々に草地は挟まれ、東側には小高い丘が幾つか見える。道もそこへ続いていた。また南東には小川らしきものがあり、東側へ進めば集落の存在が期待できる。
そうと決まれば善は急げ、先ず喉の渇きを癒し、日のある内に民家を見つけたい。
少量の水がちょろちょろ流れる小川は澄んでいる様に見える。
本来ならば煮沸するべきであるが、生憎道具を持ち合わせていない。迷わず水を手で掬い、喉を潤す。
「ふう…」
顔を洗い短い髪を濡らした時だ。水面に映る自分が若返っていると気づいたのは。皺のなく髪の黒々した、まごう事なき若かりし頃の自分である。
「夢じゃない…か。」
青年期の自分が今の自分であるのは、違和感がある。
顔を上げると、森に人影が見えた。現地人かもしれない。
緊張と興奮を抑えながら、手を振って俺は駆け寄る。
「おーい!」
よろよろとふらつく人影はこちらに気が付くと、突如地面に倒れた。
「おい!大丈夫か?」
古めかしい恰好の中年男性は駆け寄った俺を見て言った。
「助けてくれ!かっ…怪物が息子に。」
「落ち着けよ、おっさん。怪物なんていねえよ。それより此処は何処だ?道に迷ってしまってな。そっちに手を貸すから、街まで案内してくれないか?」
「…助けてくれるのか。ありがとう。だが、怪物はワシを追ってすぐそこまで。」
森の奥からガサガサと音が近づく。
走るそれは二人の頭上を飛び越え草地に着地した。
見たことのないそれは人よりも大きく、人の顔を持った化け物であった。
巨大なライオンの身体と女性の様な頭そして鳥の翼、その化け物を俺は知っていた。
「スフィンクスだ…。」
写真で石像を見たことがあるだけであるが、間違いない。
この怪物はスフィンクスだ。
「ウガアアアアアア!」
怪物は叫ぶと同時に前足を繰り出す。
俺は咄嗟に地面に伏せ、かろうじて攻撃を避けた。
「おい!おっさん!どうすんだよ、なんか武器とか持ってねえのか!」
「おお神よ、どうかお助けを。」
おっさんは神に祈りを捧げて役に立たない。
鋭い爪と牙、熊より太い手足。一発でも食らったら間違いなく死ぬ。
俺は丸腰。おっさんもダメ。囮にする手もあるが、化け物の方が速そうだ。
もうだめか。あっけない、第二の人生。
目線を下げると眼前に木の棒が落ちている事に気づいた。
化け物はおっさんを食らおうと口を開けた。
ある考えが浮かぶ。
昨日生まれたばかりなのに死んでたまるか!
俺は木の棒を掴み、力の限り地面を蹴った。
「うおおおおおおお!」
相手との距離は二メートル。木の棒の長さ四十センチ。
ヤツが俺に気付いた。
「ウガアアアア!」
だがもう遅い!俺はヤツの懐に入り込んでいる。ヤツの前足は使えまい。
予想通り、ヤツは俺を噛もうと牙を剥いた。
「俺をなめんなあああああああああ!」
全力で突き出した棒がスフィンクスの目玉を抉る。ヤツの牙は届かない。
「ウギャアアアアアアアアアアアア!」
怯んだスフィンクスは絶叫し後ろに跳躍した。
俺は勢いのままに地面を転がった。
すかさず起ちあがり、スフィンクスと正対する。
ヤツの左目に深々と棒が突き刺さり蒼い血を流しているが、脳には達していないようであった。
次はどうするか。
スフィンクスの残った右目が俺を凝視する。
引いてはダメだ、攻めなければ。
「来るなら来いや!」
俺がそう叫ぶと、スフィンクスは静に背を向け空の向うに飛び去った。
残心を忘れず、ヤツが空に消えるまで俺は動かない。
俺が勝った…のか。
地にへたり込んだのはおっさんが声を掛けてからだった。
「ありがとよ、青年。お陰で命拾いした。」
おっさんは俺の前に来て座り直す。
「お前さん、名前は?ワシはロッド。交易商をしている。」
ロッドと名乗る中年男性は恰幅が良く、身なりは中世を思わせる。朱色ジャケットと白いシャツ、ダボっとしたズボンに革の靴。所々擦り切れ汚れているが、裕福な人間なのは間違いない。
「俺は…エイジ。見ての通り、道に迷ってしまった。此処は何処だ?あと、日付とあの化け物について教えてくれると嬉しい。」
「ほー旅人かね。まっ、今の時代珍しくないがね。ここはハドリー王国のデーバ林道、日付は王歴十七年の五月六日火の曜日。さっきの化け物は初めて見たが、ああ言うのは神の敵、ここいらじゃ化け物と呼んでいる。南の方だったら悪魔と呼ばれてたかな。」
「ちょっと待て、混乱してきた。此処は地球じゃないのか?悪魔?夢と魔法の世界じゃないか。まさか、ゾンビとかミイラが動いたりするのか?」
「…?何を言っている、『チキュウ』がどの地方か知らぬが、ここらはオクシデント地方だ。それに、魔法は魔術師にしか使えない。ゾンビやミイラは正しい処置をすれば動かないぞ。」
俺は頭が痛くなった。
まさかファンタジー世界に生まれ変わるとは…。
だが待てよ、元の世界じゃ俺は死刑囚だった。生きて戻っても逃亡生活が待っている。しかし、この世界では俺は無罪。むしろ善良な市民となったわけだ。ならば、この世界で生きる手段を探すしかない。
…この交易商のおっさん使えるな。
「ロッドさん、近くの町まで同行して貰えませんか。さっきの戦いで傷を負ったみたいで。」
「おお、こちらからもお願い致します。実は森の中に馬車を置いてきてしまって。どうしようかと思っていたのですよ。すぐそこなので、ついてきて下さい。」
ロッドは拾った棒を突きながら森へ入って行った。
俺はその後をついていく。
二十分程森を歩いた時、辺りに悪臭が漂いだした。馬車と血だまりが見えたのはその直後である。
うへぇ、予想以上に凄惨だな。
ズタズタに裂けた死体が五、六体折り重なっている。腐臭と血の匂いはやはり慣れない。
ロッドのおっさんは少し離れた場所で、上半身のみの死体を眺めていた。
「エイジ君、こっちが息子のロッシュだ。おれを庇って先に逝きやがった。バカ息子が。クソッ…ちくしょう。」
ロッドは声をあげず涙を流した。
南無阿弥陀仏。何とも言えないが、哀悼の意は捧げるべきだろう。
「ところでこちらの遺体は?数人分はありそうですが。」
「それは奴隷の死体だ。農奴として買い付けたのだが、皆あの化け物にやられた。だが他の積荷と馬は無事みたいだ。廃業せずに済みそうだよ。はっはっは…ハア。エイジ君、埋葬するのを手伝ってくれ。」
そう言ってロッドは地面に穴を掘り始めた。
折り重なった死体を一体ずつ埋葬していると、一人だけ息がある事に気付く。
「ロッドさん、この子生きてる。息してますよ。」
見たところ十代そこらの少女である。肉片の中で分かりにくいが目立った傷はないようだ。生乾きの血で覆われぬるぬるとして鉄臭い。息も脈もあるが、意識はなかった。
「そうか、生き残りが居たか…。運のいいヤツだ。それは君にあげるよ、ワシには生き残りを見てられない。たしか、それは一番高かった奴隷だ。読み書きと計算が出来るが、華奢で重労働には向かない。どこかの没落貴族の子らしいが…。ああ、忌々しい。何故息子が生き残らない。」
顔を紅くしたロッドはそう言って隣の死体を穴へ蹴り落とす。
「…すまん。ワシも動揺してるようだ。エイジ君、そいつを馬車に乗せてくれ。そろそろ発とう。ゼペンの町には夜までかかる。そこにはワシの家がある、礼もかねてもてなすよ。」
ロッドは馬車に歩み寄り準備を始める。
俺は褐色の少女を抱きかかえ荷台にのせた。
奴隷というものに困惑したが、こうして見ると中々可愛らしい。いいものを貰った。
それになんとなくこの世界が分かってきた。奴隷制度があるということは、古代から近代の可能性がある。つまり、民主主義やら人権やらが成立してないかもしれない。となると、罪に対する罰則は極刑や手足切断もあり得るが、捜査能力は低そうだし賄賂も通用するだろう。問題は魔術と化け物だ。現状情報が少なくなんとも言えないが、迷信ではないようだ。
ロッドを頼りに生活基盤を築く事が当面の目標だ。
森から飛び立つ鳥の群れを、馬車の荷台から眺めた。
異界の焔 ハスとツバキ @aoicamellia
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