掛井 累⇔筧 薫子②
「スマホ?」私はカップから顔を上げた。「ちゃんと持って来てるよ」
「いや、そうじゃなくて…そうよねぇ。あんまりSNSしないか」
ふう、と理生ちゃんが呆れたようにため息をつくと、突然ドアが開いた。
「お疲れさまでーす」
遅番が少ない日だったので、私たちは1時間早めに休憩を取らせてもらっており、この時間帯は、遅番スタッフが出勤する時間でもあった。
イラストが描かれた布バックを肩にかけ、某有名スポーツブランドのロゴマークが大きくプリントされたパーカーにショートパンツの出で立ち。パステルカラーのキャップから、パーマがかった黒髪が揺れている。本よりも雑誌を手にしている方がしっくりくる。
「粕谷さん、お疲れさまです」
私は彼女に挨拶をした。ちらりと理生ちゃんに視線を移すと、少し頬の筋肉が引きつっているように見える。
彼女の視線が、粕谷さんの隣の人物から離れられなくなっていた。
「高島さん」
「先日は幹事お疲れさまでした」
高島さんが軽く会釈する。
そうだ、せっかくだし、理生ちゃんのお弁当褒めてあげてください。って、もう半分しかない…。
とか思いながら、「すいません。結局お料理足りなかったですよね」と、間抜けな返答をしてしまった。
「そんなことないです。素敵なお店でした」高島さんはゆっくりと微笑む。
理生ちゃんは表情を変えず、さらには箸を止めてしまった。今、高島さんがそちらに視線を移すとさすがにぎょっとするかもしれない。
私がハラハラしているのをよそに、粕谷さんは鞄を下ろし、髪をまとめながら、ロッカーからエプロンを取り出し始めている。話題に自ら入らないそっけない行動だったが、こちらを向いたかと思ったら、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「すみません…私その日用事があって飲み会参加できなくて」
「ううん全然。粕谷さん、忙しそうだもんね」
「なんかぁ、友だちが起業しちゃって…」顔の周りの髪を払いながら言った。「もうタダ働きで睡眠不足です」
そういえば粕谷さん、ご友人がネットビジネスを起こして、今はそのお手伝いをしているのだそう。そのうち社員として引き抜かれてしまうのかな…若いのにすごいなぁ。
結局、適当な雑談をしただけで、他のスタッフも出勤し、二人は売り場に出てしまい、私たちはまた二人きりになった。
「理生ちゃんずっと無口だったね」
「だって…」理生ちゃんは恥ずかしそうに下を向いていた。
「どうせ私浮いているし」
「質問の答えになってないよ」
私は彼女に断って、ロッカーを挟んだ小さな喫煙スペースに移動する。
私たちの働く「成美堂書店」は、駅から歩いて10分の小さなビルのテナントに入っている。
狭い店なので専用の休憩室を与えられず、バックヤードに小さな机と折り畳み椅子が置いてあるだけ。喫煙スペースは錆びたロッカーを仕切りに、折り畳み式コンテナの上に、誰が置いたかコーラの空き缶が置いてある。灰皿代わりらしく、吸い殻が溢れていた。
換気のために窓を開けると、車の走行音と一緒にどこかで鳥が鳴いている。
「ねぇ、私香水きつかったかな?」萎んだような声がロッカー越しから聞こえた。
「何?突然」私は煙草を加えながら聞く。「それよりも、好きな人の前で急に萎縮しちゃうの、良くないと思うよ」
「わかってる」と言った彼女の表情は見えないが、きっと顔が赤いんだろうな。窓際にもたれて私はゆっくりと煙を吐いた。ああ、いい天気。
…
「ありがとうございました」
理生ちゃんは顔を上げ、ふう、と息をついた。
「大変でしたねー。榊原のおじいちゃん。相変わらずお喋り好きですよね」
足元でブックカバーを補充していた粕谷さんが腰を上げた。面倒ごとに巻き込まれないように、息を潜めてしゃがんで作業をしていたらしい。他のお客さんが並んでいたら大変だ。
「お孫さんの電車好きな話、先週も聞いたよ」理生ちゃんはため息をついた。
「え、本当ですか」粕谷さんが声を落とす。「ひょっとしたら…認知症とか?」
「えっ?まさかあ」
二人のやり取りを耳に挟みながら、私は「話題の本コーナー」の棚作りに勤しんでいた。
「話題の本コーナー」というのは、ジャンルを決めて、週毎に売り上げの高い作品を集めて、ランキング形式で陳列されたコーナーのことだ。週ごとでスタッフがローテーションで担当をするのだが、今週は私が担当だった。
文庫本よりもハードカバーの方が装丁が凝っていて、置いてあるだけで華やかになるので、それを立てて置くか、平積みにして高さを出すか、それとも横に組み合わせるように置いて、躍動感を持たせるか…など、アイデアを頭の中で描きながら作業を進めていく。
「筧さん、楽しそうですね」
後ろから声がして、振り向くと高島さんが近づいてきた。
「今週の話題の本は何ですか?」
「恋愛小説です。映画化の原作しばりで」
私はコーナーから、一冊の本を抜き取って彼に見せる。最近寝る間を惜しんで読んでいる作品で、表紙は今話題らしいイラストレーターが描いたイラストで、黒い目した女が、こちらを不気味に見つめている。
「それも恋愛?」彼は訝しむように表紙を見つめる。
「これも恋愛」
この作品は、夫の浮気が原因で、精神に異常をきたした妻を、彼女の義理の兄が介護していくうちに惹かれていくという内容。今は妻と関係を持ち、夫にそれがバレてしまい、あと何頁か進むと、血を流す修羅場が待っているかもしれない、手に汗を握るシーンが待っている。
この作品のポイントは、さっきまで獣同然の妻が、義理の兄によって次第に人間の心を取り戻すところだ。
と、(どうせ高島さんは読まないだろうから)かいつまんで内容を教えると。「へぇ」と少し関心があるようなないような反応を示した。そして、少し目線を遠くにやったかと思えば、私の後ろを指差す
「そのPOPのデザインも筧さんが?」
「あ、ええまあ」
今行き詰っているのはPOPのデザインで、幾つか描いたものを並べて検証していたところだった。
表紙が全体的に黒いからといって、POPも黒くすると、コーナーがぼやけてしまうし、逆に明るい色を使うと、他にも作品が置いてあるので、コーナー自体に統一感が出ない。やっぱり恋愛作品だから、赤やピンクで揃えて欲しいというオーダーも捨てられない。
「前から思ってたんですけど、どうして文庫本でなく、ハードカバーを?」
「装丁が綺麗で凝ってるし、あと置いても形が変わらないからです」私は本の表紙をさすりながら答える。
「でも、一番の理由はあらすじが書かれていないから、お客さんの何人かは何頁かパラパラめくるんです。今回選んだ本は、私が何頁かめくって面白そうだなって思ったものばかりです。お客さんも、このコーナーでそんな風に立ち読みして欲しいなって。やっぱり、頑張って作ったものだから少しでも足を止めて欲しいし」
「仕事好きなんですね」
「どうなんでしょう…本が好きだからなんとかなってるだけかも」がっついているように見られまいと、最後はしょぼしょぼしたように言った。淀みなく出てきた言葉に驚きと照れくささを隠しきれなかったが、そんな自分を変なヤツだとは思わなかった。
「手を止めさせてしまってすみませんでした。頑張ってください」と、模範解答のようなメッセージを残して高島さんは去っていった。さっきまで表情筋が緩んでいたからか、顔がものすごくぽかぽかしていた。
業務連絡なんかではなく、ちゃんとした仕事の話をしたのは、気が遠くなるくらいに久しぶりだったからかもしれない。
「よし」
口の中での決意表明が思わず声で出てしまい、慌てて周りを見回した。
お昼ご飯を食べ終わった時間帯で、店内はにぎにぎしていた。
午前中に講義を終えたであろう大学生の胸には、新発売のマンガを数冊抱えている。コミックエッセイの棚では、若い母親がサンプル版を立ち読みしていた。スキニーパンツから伸びた脚に小さな娘が抱きつき、抱っこをせがんでいるようにも見える。
また、資格本を開いている彼の脇には長財布が挟まれている。不用心な恰好だから、おそらくこの建物に入っている美容院の従業員なのだろう。少し遅いお昼のついでに寄ってくれたみたいだ。彼もまた、休憩室がないのかもしれない…
誰もこちらを見ておらず、ほっと胸を撫で下ろす。自動ドアに目をやるとドアの近くに置かれた枯れかけの観葉植物の脇に、何やら黒い影のようなものが立っているのが見えた。
「?」
影はすぐに引っ込んでしまい、私は瞬きをしながら植物を凝視する。睡眠不足で疲れているせいで見えてしまった幻覚なのだろうか。
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