第2部 JR計画

1.堂山龍吾・6月1日①


 もうすぐ鬱陶しい梅雨がやってくる。

 梅雨の時期になると、太平洋側に比べて日本海側は湿度が著しく上がり、蒸し暑い気候になる。嫌いなものはどう頑張っても好きになれないのだが、季節が巡らないことなどありえない。いっそのこと、仕事をほっぽりだして南国にでも高飛び出来たら、どれだけその季節を好きになれるだろうか。

 堂山龍吾はフロントガラスの外に広がる空を見つめながら、一人で空想を繰り広げていた。

 運転席のドアが開くと、後輩の嵐山が両手にビニール袋を引っ提げて乗り込んできた。

「お待たせしました」

「おお、ありがとな」

 嵐山は龍吾の三歳年下となる。太い眉に加え、しっかりと開いた目は一言で言うなら、一般的な「濃い顔」のお手本のような感じだった。

 色黒で、がっちりとした体型。幼少時代から空手を習っていたため、肉弾戦はお手の物で、さらに命令には忠実に従うという、龍吾がコンビを組むには本当にありがたい相手だった。

 片手のビニール袋には、嵐山がコンビニで調達してきたおにぎり、もう一つの袋にはいくつかのパンとお茶が二本、入っていた。

「俺は、そうだな、明太子とツナマヨをくれ」

 嵐山はすぐさま袋の中を探り、言われた品物を龍吾に手渡した。

「はい、どうぞ。それで、何か動きはありました?」

「へ?ああ、大丈夫だ。人の出入りは今のところ無い。部屋の中も動きは全くなし。出かけている可能性が高いな」

 その言葉を聞き、嵐山は納得したように自身の食料をごそごそと漁りだした。

 龍吾が時計を見ると午後二時を回ったところだった。二人はある窃盗事件の被疑者を追っていたが、今日になって、その被疑者の居場所に関する情報提供があった。それを聞き、福井署を出たのは昼を回った頃だっただろうか。

 それからは被疑者の潜伏先と見られる福井市東部のあるアパート前で張り込みをしていた。

 刑事ドラマなどで描かれる張り込みの場面は、実際のそれに比べればほんの一部分だ。

 情報提供があったからと言って、それが真実とは限らない。ガセの情報が含まれている可能性だってある。何日も何日も、目当ての人物が現れるまで待ち続けることもあるし、その人物の姿を拝めないことだってある。

 「刑事とは忍耐だ」。龍吾が刑事となってから初めてコンビを組んだ上司に言われた言葉だった。

 「もし、それが俺たちの捜査でガセの情報であると分かっても、原点に戻る訳じゃない。ガセであることが分かったことで、それで捜査は一つ進むんだ。その一つ一つを重ねるからこそ真実にたどり着ける」。龍吾の頭にはその上司からの言葉が刻み込まれていた。

 福井県は平和な県だ。目を見張るような殺人事件など滅多に起きない。

 だが、殺人事件だけが事件ではない。窃盗事件でも、亡き彼氏との想い出が詰まった時計が盗まれた、小さな商店で夫婦が汗水流してコツコツと貯めてきた貯蓄が奪われた、となれば、それは本人にとっては重大な事件となる。

 その裏側には被疑者の思惑と被害者の悲しみが必ず隠れているのだから。

 「被害者の感情を自分たちが出来る限り救う。それが俺たちの仕事だ」。それらの教訓を刑事に成り立ての若者に口酸っぱく、しかし真剣に説いてくれた上司に龍吾は感謝していた。

 元々、体力だけが自慢で、安定した公務員であるという理由だけで警察官になった龍吾にとって、もし、それらの言葉が無かったとしたら今頃、本当に南国行きの飛行機に乗っていたかもしれない。

 いや、もっと前に警察官自体を辞めていただろう。だからこそ、その上司には「足を向けて寝られない」と言うほどの恩義を感じていた。

 一定間隔にシンプルな着信音が鳴る。龍吾の携帯だった。

「堂山、そっちに何か動きはあったか?」

 声の主は福井署刑事一課長の沢崎(さわざき)心(しん)だった。その荒々しい口調は抱えている不機嫌さをそのまま表していた。

「いえ、今のところは特に何も」

 しばらくの沈黙の後、沢崎は低い声で龍吾に指示を告げた。

「とにかく、今すぐこっちに戻ってくれ」

 龍吾は動揺を隠せなかった。この強い語気に、帰還命令。咄嗟に「ただ事ではない」と状況を察したからだった。

「何かあったんですね。大きな事件ですか?」

 沢崎の言葉は歯切れが悪かった。

「ああ。ただ、俺たちは動けない。本部の方が全部仕切るという話だ。内容も戻ってから説明する。ただ、万が一に備えて待機していてほしいんだ」

「分かりました。すぐ戻ります」

 あの話しぶりから分かる。恐らく自分が今まで経験したことのないような大きなヤマだ。そう考えた瞬間に、脳内からエンドルフィンが一気に分泌され、いささか興奮している感覚を龍吾は感じた。「どんな話なんだろうな」。期待を膨らませながら、そして僅かな不安を抱きながら車のキーを回した。


 二人が署に戻ると、すでに何人かの刑事が戻ってきていた。今から課長による説明があるという。

「とりあえず、状況を説明しておく。実はある筋から県警に『代議士である桜権蔵が本日中に誘拐される可能性がある』とのタレコミがあった。桜は今日、県営球場で始球式に登場する予定だ。ただ、現場の仕切りも、警備要員も、所轄である南署には応援を求めず、すべて本部の方で都合するらしい」

 もし、そのタレコミが本当だとするなら、県内初の大きな誘拐事件になる可能性がある。それを想定して、本部は自分たちで最初から対処するつもりなのかも知れない。福井署は管轄ではないが、何かあれば必ず応援要請が来るはずだ。龍吾の興奮は先ほどからさらに膨らんでいた。

 沢崎はさらに詳しく状況を説明する。

「桜が公に姿を現すのは始球式の時だ。だが、その状態で誘拐するのは非常に難しいと考える。もし狙われるとすれば、球場に向かう途中か、始球式を終えた後だ。桜は今日、東京から飛行機で小松空港に帰ってくる。そこからは車での移動だ。始球式後は福井駅前のホテルに宿泊する。そのため、県警では万が一を考えて、桜が小松空港から球場に向かうまでと、球場からホテルの道程、翌日東京に帰るまで警備を付けると言っている。もちろん、宿泊するホテルにも何人か人員を張り付ける」

 それまで耳を傾けていた龍吾が思わず質問する。

「一体、何人態勢になるんですかね。警備を付けると言っても相当な人数が必要ですよ。特に球場には、何かあった場合に四方八方から囲い込めるように万全の人数を確保するべきじゃないですか」

 沢崎の口調は重い。

「俺もそう考えた。球場で誘拐される可能性は低いかもしれない。ただ、万が一に備えなければ、万全な警備とは言えない。県警の捜査一課長に直接、話をしてみたんだが、人員はきちんと確保できる、計算上は球場でも大丈夫なはずだから、と言われ、応援はやはり必要ないとの結論に達した」

 何かがおかしい。本部だけではただでさえ人数が少ない。普段であれば必ず応援要請してくるはずだ。大きなヤマだけに本部だけで何とかしたいとの思いがあるのだろうか。

 ただ、それも考えづらい。沢崎課長と捜査一課長の八幡は昔、コンビを組んでいたことがあり、当時からの盟友のはずだった。

 一番最初に応援を頼むとしたらやはり沢崎課長の所と考えるのが自然であり、理由があるなら沢崎課長のところに必ず一言、断りを入れるはずだからだ。

だが、沢崎課長にも接触があったような気配は無い。それほど、沢崎の表情は納得がいかない様子だった。龍吾はその違和感を喉の奥に飲み込み、沢崎の言葉を待った。

「本部はこう言っているが、これからいつ応援要請があるか分からん。その時に動けるように、とりあえず今日が終わるまで、何人かはここに残っていてくれ」

 龍吾は署に残るうちの一人となった。今日張り込んでいた被疑者はこちらの存在に、明らかに気付いていない。それもそうだ、張り込みを始めたのは今日。今日はまだ被疑者の姿を見ていないし、家にもどうやらいない様子だった。

「まだ会っていないのだから気付かれようがない。それならばもう少し泳がしておいても大丈夫だ」と龍吾はそう判断し、沢崎に待機組にしてもらえるよう頼んだのだった。

 ただ、デスクでじっとしているのは龍吾にとって拷問とも言える時間だった。昔から「落ち着きがない」と、両親や学校の教師から言われてきた。

 そんな性格だから、「果報は寝て待て」という先人たちの教えも、全く意味が理解できないまま、大人になっていた。

 携帯が音を発した。ディスプレイの名前は「山久」となっている。すぐさま部屋を出て、電話に応答した。

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