1.山久一之・6月1日③
県警の記者クラブのドアを慌ただしく開けた山久は、すでに到着していた他社の記者を横目に「福井民報」とのプレートが置かれている自社のデスクを確認して、肩に掛かっていた荷物を置いた。
「珍しいな。お前が来るなんて」
声の方向に顔を向けた山久の目は懐かしい人物を捉えた。
「おっ、西園寺(さいおんじ)じゃないか。久しぶりだな」
西園寺(さいおんじ)譲(ゆずる)は地元の日福テレビの報道記者だ。山久と同じ歳であり、会社は違うが入社時期が同期でもある。記者に成り立ての頃は、警察担当として県警や警察署で良く顔を合わせていた。
「もう、今日は本当に勘弁してほしいよ。桜議員が死んだだけでも大ニュースだっていうのに、今度は誘拐だぞ。俺の体力がもたないぜ」
「そうだな。俺もだ。桜さんの爆弾事件なんて、俺は現場にいたんだぞ。驚いたよ」
その山久の言葉に西園寺は首をかしげた。
「は?お前、政治経済部だろ?なんでお前が県営球場に居るんだよ。スポーツ担当でもないくせに」
山久は唇を噛んだ。犯行予告は自分の会社にしか知らされていなかったことを思い出したからだった。
さて、どうするか。後々、また犯人から別の犯行予告が、こちらにあることも考えられる。他社に知られたら、間違いなく公にされるような情報だ。
そうすれば、犯人が今後、こちらとの一切の接触を断つ可能性もある。今、発表されようとしている誘拐事件が桜の事件と関係している事はすでに分かっているのだから、このことは警察側には話しておき、他社には伏せている方が賢明だ。
「ああ、桜議員に聞きたいことがあってな。今後の国政の懸案事項についてさ。始球式が終わってから聞こうと思ってたらあんなことが起こってな。本当にびっくりしたよ。まさか、自分が目撃者になるなんてな」
西園寺の懐疑的な表情は、その答えを聞いてすぐに普段のそれに戻った。
「さすがだな。そこまで着いていくなんて記者の鏡だよ。俺なんかいつも適当だからな」
「はははっ。とか言いながら特ダネ書くのがお前だもんな」
「まあな」
二人の会話が終わりそうになるのと同時に広報室長の長谷川(はせがわ)保(たもつ)がクラブの部屋に入ってきた。そして、グルッと部屋の中を見回し、各社が揃っていることを確認する。
「まだ、いらっしゃらない社はありますか」
返事はない。ただ、マスコミ各社も当然、しのぎを削るライバルだから、「○○の社がいません」などとは言わない。時間までに来ていなければ、その社が悪い、というのが当たり前の世界である。長谷川もその辺りは当然、認識しているので形式上、確認しているだけだ。
「それでは、十分後に記者会見を行います。場所は隣の会見室です」
普通ならそれだけ言って部屋から出て行くはずの長谷川は、相変わらずその場に留まっていた。
「ただ、その前に県警側から申し入れをさせていただきたい。今回の誘拐事件は桜議員殺害事件と関連しています。それは、誘拐犯と殺害事件の犯人が同一人物と思われるからです。その理由は後ほど会見で発表しますが、相手が同一犯とすれば、桜議員が実際に殺された今、誘拐された男の子にも危険が及ぶ可能性は非常に高い。そこで、報道協定の検討をお願いしたい」
クラブ内に動揺が走った。これまでに県内で報道協定はおろか、大きな誘拐事件が起きたことなど一度もない。そのため、当然ながら、その場にいた地元報道機関の記者達も、初めてのことにどのように対処していいのかが分からなかったからだった。
報道協定とは、誘拐事件の際に結ばれる報道各社による協定である。
協定が生まれたのは昭和時代のある誘拐事件が発端だ。
ある男児が誘拐され殺害された事件があった。その際、犯人は結局捕まったのだが、マスコミ各社の熾烈な報道競争で追い込まれた犯人は、殺す気がなかったにもかかわらず、男児に手を掛けてしまったのだという。
その事件以降、誘拐事件で対象者の命に関わるような案件の場合、報道各社が申し合わせて、警察側から逐一、最新情報を提供してもらえることと引き替えに、解決までそれに関する一切の報道をしないという協定が出来た。
これまでにも全国では協定が結ばれたケースは多々あるが、報道側も取材活動すらお互いに禁止するため、記者からすれば、動けずじっと解決を待つというなんともじれったい状況に置かれることになる。
長谷川が退室すると、記者クラブの幹事社が各社に声を掛け、中央のテーブルに集まるよう促した。
協定はあくまで、報道各社間で結ばれるものだ。そのため、警察側から提案を受けても拒否をすることは出来る。
ただ、今回のケースはすでに同一犯によるものと見られる殺人事件がすでに起きていたこともあり、話し合いの末、協定が結ばれることになった。
山久ももちろん、報道によって今回誘拐された男の子の命が失われることは避けたいと感じ、富田に了解を取った上で、協定締結に賛成した。ただ、山久の心の中には、言葉にし難い違和感があった。
確かに、自分自身が報道協定締結の場にいること自体が初めての経験なのだから、「普段とどこが違うのか」とは言えない。言えないがやはり、何か納得がいかないような、そんな気がしていた。
数分後、記者会見が始まった。会見したのは刑事部長の佃(つくだ)祐司(ゆうじ)と捜査一課長の八幡(やはた)実(みのる)だった。
誘拐されたのは福井市内の小学校に通う男児で、名前は荻野(おぎの)修哉(しゅうや)。年齢は七歳。学校から帰宅途中に連れ去られたと思われる。
学校を出たのは午後三時ごろであることが確認されている。誘拐に際して、荻野修哉の自宅に誘拐したとの電話があったのだという。
男児を誘拐したということと、その犯人が自ら桜殺害を実行した人間だと名乗ったことを伝えたとの内容だった。
そして、最も重要な部分である要求については驚くべきことに「特に無かった」との報告だった。ただ、警察に漏らした場合、マスコミが事件について報道した場合はその場で息子を殺すとの脅迫内容だったという。
父親は市内の建設会社「丸木組」に勤めており、主に営業をしている。普段は営業マンとして、市内の関連会社や取引先などを回っている平凡なサラリーマンだという。母親は主婦であり、両親の実家にも資産があるわけでもなく、父親が将来、社長などの重要なポストになるような要素もないため、警察側は今回の誘拐は営利目的ではないとの見方を示した。
会見の質疑応答では報道陣から矢継ぎ早に質問が飛んだ。
「要求が無いというのはどういう事ですか?」
「犯人は何が目的だと思われますか?」
県警側の回答は「分かりません」の一点張り。山久は、「それが本当だとするならばこの誘拐犯の意図が全く読めない」と考えていた。
それは、犯人が自ら述べている部分以外で、桜殺害と誘拐事件を結ぶ接点が全く見えないからだった。
会見終了後に、記者クラブ側からも県警の担当者に協定締結するかどうかの報告が行われた。結局、話し合いでは全社が締結に賛成し、県警側へもその旨が伝えられた。
以降は、誘拐事件に関する捜査情報が記者クラブ側に、速やかに伝えられることになる。
ただ、本当に漏れなく情報を教えてくれるかどうかは警察側を信用するしかない。これからは動くことすらできなくなる。記者としては如何ともし難い、我慢の時間が訪れることになる。
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