第41話 新しい出発

 三月は慌ただしく過ぎていった。様々な学会関係の引き継ぎを仕方なくやった。また、私は自分の退官パーティなどやるつもりもなかったし、企画してる連中にはやらないようお願いした。代わりに、退官の日に同僚の教官、学生たちと学科事務室で簡単な立食会だけをした。


 立食会では成田先生と、しばし話をした。


「武田先生、まぁ結果的にいいんですけど、これでほんとにいいの?なんか勿体ないというかね」


「成田先生、いいんじゃないんですか。僕はあくまで研究をしたくてね、それは大学がこういう状況だっていうことは分かってたんですが、結局、経済界に巻き込まれてしまってね」


「まあ、ある意味、うらやましいけれどね。私だったら絶対に最後まで粘っちゃうけどねえ。潔いというか」


「潔いもなにもないんですって、人それぞれの価値観があるんですから」


 成田教授はそういうと、仕方ないな、という表情でワイングラスを手に他の教授たちと話を始めた。立食会は二時間ほど続き、最後に私がおざなりの挨拶をして閉会した。この小規模なパーティの後に、研究室の同僚たち、つまり田中さん、西田助教、関と例のバーに出かけた。


 関は珍しくずいぶんと酒を飲み、酔っ払っていた。


「いや、いくらなんでも、先生、そりゃないんじゃないかって、僕思うんですよ」


「我が儘、許してもらえないかな。それに君はご立派な准教授、博士号も確約だ。いいじゃないか」


「そういう話じゃないんです」


 そういって関はしきりとからんできた。困り果てた私の顔を見た西田助教が言った。


「関君、分かるんだよ、でも先生は純粋な研究者、なんだ。無理してマネジメントに注力されてきたから、我々がこうして今あるんだよ。許して差し上げてくれ」


 私は言った。


「それに、君たちとの縁を切るつもりもない。自宅でこそこそと、目立たないように、ではあるが君たちと同等の研究者として相談しながらやっていくつもりだから。私はこの立場がいやなだけさ」


「そうですか」


 関は若干、力抜けしたように答えた。


「ああ、西田先生有り難う。関君、そういうわけなんだよ。納得は行かないと思うが」


「いや、納得はいきました。これからもどんどん質問しに行きますから」


 私は笑みを浮かべて答えた。


「どんどん、はやめて欲しいなあ」


 関も笑った。


 私は三月末で大学に行くのを基本的にはやめて、しばらく自宅で静養しつつ頭も動かしていた。ナノ・デバイスの商売は出足から好調で、四半期業績は前年度比200パーセントになる見込み、と荒井から聞いた。ラインを増設して需要に対応するため、さらに売り上げは向上する、とのことであった。坂田氏とは、もう会うことすらできないほど多忙になっているようだ。荒井は約束通りにデバイスを組み込んだ基礎回路セットを二台送付してきた。必要に応じて増やす、とのことで、また重要なことに気付いたら連絡をくれとのことであった。


 四月の上旬は上述の通り、ゆっくりと過ごしていた。だが、まずは荒井から届いたデバイス二個、周辺回路セットとPCをつなぐことだけはしてみた。そして四月終盤のある日、デバイスの妙な動作に再び気付く日がやってきた。


 その日は桜も散り、青々とした新緑が庭に広がる日であった。


 私は朝遅く起きると、退官してからの調子でいつものようにデバイスとPCに電源を入れた。しばらくは、二台のデバイスと周辺回路はこれまでに見られた動作をした。異変は数時間後した昼前に起こった。


 その異変を感じた時、下の階から妻が声をかけた。


「お昼ができましたよ、いらして」


 私はそれどころではなかった。


「わるい、ちょっとあとで昼を食べるからそのままにしておいてくれ」

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