第8話 作業仮説
何回かの実験を経て、ようやく“ヘルメット”に慣れた私たちは、タンク経験に没入できるようになった。いつも見るのは、過去のあまりにリアルな映像記憶である。機器も動作させており、視覚野の興奮が観測されるに至った。まだ、細かい分析はこれからだし、作業仮説であってもよいから理屈が欲しいところだ。作業仮説とは実験を推進する上での暫定的な仮説である。確固としたものでなくともよいし、実験により修正していくものである。
そこで、私たちは実験を進めるにあたって作業仮説を立てることにした。この仮説に従って検証を実施していくことになる。MRIやPETほどの強力な解像度がある測定法ではないため、どうしても推論が必要となる。隔離タンクでMRIのような大げさな装置を持ち込むことなどできない。できるのかもしれないが、どれほど莫大な予算をつぎ込めばよいのかも分からない。
そこで、あくまでも考察が必要となる。事実をもとにした著者の考えは論文では「考察」という項目に記述される。考察では私見を含めた自分の意見を述べる。それがいわゆる「仮説」なり「○○論」などと呼ばれるものになる。
「西田先生、私の大まかな仮説はこうだ。まず、脳のエネルギー消費量は極めて大きいが考えていない場合でもピーク時の90%以上のエネルギーが消費されている。リリーは重力計算のために使われている、と考え、最近の説ではデフォルト・モード・ネットワーク、DMNなるもので消費されているという考え方が増えている。2013年に発表された総説では、DMNの内容についていくつかの説を紹介している。注目すべきは、「ひらめき」が起きるのは、映像処理が切れる瞬間であり、DMNはその背後で働いているという説だ」
「我々の実験では、やはりリリーの重力計算説も捨てがたいと思います。隔離タンクでの経験からですが。もちろんDMNの正体が分からない以上、重力関係の情報処理もDMNに含まれるのかもしれません」
「そこだ。重力遮断により、余剰能力の発生した脳にはDMNの処理以外に記憶や視覚に関係した神経を興奮させるだけの余力ができる。普段なら、過去の映像は普通の映像を見ている間に起こるひらめきのように、パッと瞬間的に発生するだろう。
DMNの活動が抑制されつづければ、脳は深層から記憶をずるずると引っ張り出すだけの余力ができ、なおかつ視覚が抑制されているから、視覚野で妙にリアルな記憶映像が長々と再現される。我々の見たものはそれではないか、という仮説だ。
同時に同論文ではワーキングメモリ、つまりコンピュータの電源を入れてるときのメモリのようにいつでも引っ張りだせる記憶領域とDMNの相関についても言及されており、DMN活動とワーキングメモリの活動が相反する可能性を示唆している。ただ、一方で普通の状況ではDMNとワーキングメモリが協調して活動しているのではないかとも述べている」
「私も流し読みですが、関連論文を読んでいます。これ、DMNは社会活動に必要な処理をしたり、認知にも活動したり、単にDMNとひとくくりにしてよいのか疑問を持たせる内容になっています。私の考えは自分の体験を踏まえ、DMNはそのような活動をしながらも、かなりを重力関係の処理に使っており、感覚遮断実験により重力関係の処理がなくなって余裕が発生し、別なモードに切り替わっているのではないかと考えています」
「つまりだ、観測すべきはやはり視覚野の活動に注目して隔離実験を実施し、他の部分でどのような活動がなされているのか見ていこう、ということになりはしまいか」
「そうですね。ここでは直接心とは何か、という疑問には答えられないですが、どのような活動がDMNでなされているのか、という推論ができる、ということになります。DMNが社会的活動をする生物で見られることから、特に人間のこころの研究についても、推進にはつながるはずです」
参考文献
*1 苧阪, 生理心理学と精神生物学, 31(1)(2013)1-3
*2 M. Yaoi et al. , Scientific Reports, 3(2013)1375
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