第6話 西田助教の体験
まずは実際に運用されている隔離タンクの状況を調べてみたい、と私は考えた。
配管系の業者の手配に目処がつき、現時点では装置の水漏れなどを防ぐため配管の仕上げをしている。さすがにこれは自分たちではできない。彼らは我々の施工した雑な配管を直している。タンクはこの間、使えないことはないが、水漏れを気にしながらの危うい運転はしたくない。
この時間を利用して、日本のサイト、米国のサイトで運用状況と機器を見て、実際に体験をすることにした。すでに短い時間でのタンク経験はあるが、大学では独自開発のものを使っており、実績のあるサイトで、タンク体験を積みたいと考えたからだ。
感覚自体はほとんど大学での経験と同様であったが、硫酸マグネシウムの濃度が異なるように思えた。大学にあるものは浮力が小さすぎ、体が沈み過ぎてしまう。このため、水位を高くする必要がある上、長時間の使用では液面と顔面が接触する可能性がある。顔面に付着した溶液は浸透圧が高いために目にしみる。これはタンク体験を阻害する。また、温調の応答性、溶液交換の手間とコストを考えれば、液量は少ない方が良い。
さらに、防音にも問題があるように思えた。すでに稼働中のサイトでは、水中用の耳栓だけでかなりの防音が可能だが、大学開発のものは作動音が大きく、ノイズ・キャンセラーを必要としている。防音加工はコストがかかるであろうし、提携先のメーカーが用意した耳栓を兼ねるイヤホン型キャンセラーで効果があるのなら、ここは目をつぶらなければならない。
また、私は、長時間使用することで、過去の記憶が明確に蘇る事象も経験した。離脱こそしなかったが、あまりにもリアルに幼児の頃の記憶が呼び戻された。殆ど、忘れかけていた過去である。
這い這いをしていた頃の、床の木目までが想い出され、あぁそうだったと想い出した。実家は安普請で節の多い木をつかっていたため、そこかしこに特徴的な木目があったのだ。あらためて人間の記憶の奥深さを思い知らされた。とにかく、長時間の隔離体験を可能にするためにも、硫酸マグネシウム濃度を上げ、水位を下げるべきだ。
大学に戻り西田助教に報告した。早速、硫酸マグネシウム溶液を調製し直し、マネキンで必要な水位を確認した。水位は確実に下げられることが分かったので、騒音の原因を調べた。主因はポンプであり、必要な時だけ作動させることにした。液量が少なくなったので、ポンプ稼働時間を削減できる。
一つだけ大学のタンクの良いところを挙げれば、設置面積を気にせず大きめに作ったことである。手を広げても壁面に接触せず、感覚を維持したまま実験を継続できるからだ。他の商業用タンクは小さめであり、手が接触して感覚が中断されることがしばしばあった。
私はそれなりの時間、隔離タンクを経験したので、大学の改良装置を用いて、西田助教にも体験してもらいたい、と考えた。二人で経験を共有すれば、何か良いアイデアが出るかも知れない。
「西田先生、今度は長時間稼働させても大丈夫だと思う。装置の操作は私がやるので、実際に体験してみてはどうだろう」
「やってみたい、と思っていました。さっそくですが、今日の午後、どうですか」
「今日の午後は講義もないし、会議もない。大丈夫だ」
「どうも、学生たちは准教授のAI研究に興味を奪われているようですし、今日の学生の面倒は准教授にお願いして、その間にやってみたいですね。90分くらいでどうですか。もちろん、私の様子をカメラで見ていただいて、短くしてもよいし、長くしてもかまいません」
「分かった。15時くらいから始めよう」
その日の午前は、学科の会議に呼び出された。予算の話もあり、長い会議になった。私は午後になってようやく解放された。早速、西田助教に体験してもらうことにした。
ヘッドセットは、最初のうちはいらないだろう、と私は考えるに至った。なぜなら、本人が隔離タンクに慣れないと、データを取っても仕方がないと思ったからだ。また、ヘッドセットの締め付け自体が感覚を邪魔しているようにも思えた。体と脳が慣れるまでヘッドセットなどせず、体験を増やしていくべきだろう。自分自身で体験してみて、初めて私も分かったのだ。
西田助教の体験時間は結局120分程度になった。本人が望む時間まで入れてみて、体験を聞きたかった。
タンクから出てきた西田助教にタオルを渡しながら、私は聞いた。
「西田先生、どうだった?」
「ほぼ、武田先生と同様の体験です。真っ暗ですから、自分の方向感覚がなくなり、重力も打ち消されるので無限の空間に浮かんでいるように感じました。ごくわずかな体の移動が大きく感じられました。昔のことが想い出され、それが非常にリアルなんです。ほとんど忘れていたことまで想い出しました。ただ、離脱体験はありません。ファインマンが報告しているような体感と体の位置のずれ、というのもまだ感じてはいません」
「ほぼ、私と同じだね。続ければ、感覚も変わってくるかもしれないし、我々がタンクになれてヘッドセットをつけても安定して感覚を維持できるまで、データをとっても仕方がないかもしれない。むしろ、どのように感じたかを記録して、その変化が安定するまで追っていったらどうだろうか」
「そう思います。ある程度、体験が安定するようになったら機器でデータの収集と分析をした方がいいでしょう。それまでは、あくまで主観になってしまいますが、記録を自分で取って、変化を追っていった方がいいかもしれません」
「そうだね。そうしよう。それまで、データ取りを急ぐ必要もない。AIではないし、強力な競争相手もいないしね」
参考文献
*1 R. P. Feynmann, "Surely You're Joking, Mr. Feynman!", W W Norton & Co Inc. ,
訳書: R. P. ファインマン著, 大貫 昌子 訳,「ご冗談でしょう、ファインマン
さん」, 2000年, 岩波現代文庫
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