第5話 隔離タンクでの実験
私が最初の実験台となる予定であったが、何かあっては困る、と考えたのか、助教が最初にタンクに入ると言った。どうしたものか、と私は思った。私が入った方がよくはないだろうか、設備的問題点の指摘が必要だからだ。それに助教には機器の扱いに慣れてほしかった。
西田助教と話した結果、予定通り私が先に入ることにした。さらに言うと、もっと根強い私的な要求もあった。それは、ファインマンの体験と同じものを得たいという思いである。
「西田先生、悪いが先に入らせてもらう。各種のモニタリング・デバイスの操作を頼みたい」
「先生、分かりました」
かくして、隔離タンクのドアを開け、ヘッドセットをつけた上で内部にそろりと入った。ヘッドセットは水に浸かっても動作するよう、メーカーが特殊な工夫をしつらえたものである。内部は青みのあるLEDで照明されており改めてその大きさを確認できた。私が多少手を広げても、機器にぶつからないように幅は広めに設計した。また身長の高い人が入ることも想定し、2.5メートルの奥行きがある。寝そべって入るバスタブに近いが、バスタブのように腰を下ろせるほど浅くはない。
私が力を抜くと、比重の高い液体のために自然に体が浮いた。LEDのスイッチは外部から操作するようにできており、マイクとスピーカー、赤外カメラがタンク内に装備され、非常時に備えていた。
「西田先生、聞こえるか?LEDを消してデバイスを全てオンにしてくれ。テストを始める。30分たっても出ないようなら開けてかまわない」
「聞こえます。デバイス、OKです。脳内マッピング開始します」
LEDが消され、私は液体上に浮遊した。ゆっくりと体の力を抜いていくと、自分がどこにいるのか分からない、という感覚が最初に現われた。そのうちに目を開いているのか、閉じているのか意識できない状態にまで精神状態が弛緩してきた。リラックスしている状態にはなっている。しかし、目的はリラックス状態を得ることではない。今回は初回であるので、どのような感覚かをつかみ、さらに自分の脳をこの環境に慣らさなければならない。
さらに自分の精神状態、内部にいる感覚について観察をした。落ち着いてくるにしたがい、遮音環境にもかかわらず、音が聞こえてくる。液体上に浮いているため、液の音がまず気になった。場合によっては消音イヤホンが必要だ。さらに自身の動きが緩慢になるにつれ、鼓動が聞こえてくる。
重力による効果は人体に多大な影響を与えているように感じた。あらゆる方向が知覚できなくなり、無限大の広さの空間に浮かんでいるように感じ始めた。幻覚のようなものはなかった。時間の感覚がなくなり、やがてそれがどうでもいいことのように感じ始めた。
脳内の活動は意識下でも動作していることが確認されており、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)として知られている。おそらくだが、DMNが抑制され始めているようで、あらゆる知覚から意識が解放されているように感じ始めた。
やがて、西田助教の声がスピーカーから響いた。
「先生、大丈夫ですか。30分経ちましたので、今日はここまでにしませんか」
私は通常の精神状態にすぐに復帰した。
「OK、LEDをつけてくれ。タンクから出るのでデバイスを外すのを手伝ってくれ」
「分かりました」
西田助教の手を借り、ヘッドセットを外して自力で立ち上がり、タンクから出た。
「西田君、かなりの効果があるかもしれない。モニタリング結果を見たい。それより、私はどうなっていた?」
「最初の15分くらいはあまり普段と変わりませんでしたが、その後は目を開いたまま静かに浮かんでいました。何かをしゃべろうともされていました。自覚はありますか?」
「いや、ない。それよりも時間が非常に速く感じられた。というか、時間そのものの感覚がなくなる。何か喋ろう、という自覚もない。短いので、今回の感覚はそのあたりまでだ。モニタリングはどうだった?」
「ええ、短い時間でしたので、脳内活動に注目すべき点は見つかりません。気づいていない点があるかもしれませんが。時間を長くして慎重に調べる必要があると思います。最初はベータ波、アルファ波が大きく、やがてシータ派が大きく出始めているのが気になる点です。まだ初回ですので必ず再現できると断言はできません」
「そうか、再現性は大事だね」
「脳内活動は全体的に活動が落ち着いているのが初期です。後期にはあちこちでの活動が現われました。定量的な分析が必要だと思います。つまり、正直、今回の実験では正常時との判別がまだつかない状態だと思います」
「時間が短かったこと、それに私の脳が慣れていないこともあるだろうね。実験は少しずつ時間を延ばし、交互にやってみよう。学生被験者も募集したい。それから、感覚を遮断するために消音イヤホンを使えないかメーカーに聞いてみよう。その手の機械は我々の得意とするところではないし、溶液中で正常に動作させないといけない」
「そうですね。メーカーに連絡してみます」
「もし、何か特徴的なところが得られたら、隔離タンク実験だけではなく、脳内活動の特徴をハードウエアで再現できるかまでやってみたい。要するに体系的な研究が必要だが、まだデータが足りないし、もう一人くらい専門家がほしい」
「ええ。データを集めて学会発表で協力者を探しましょう」
「そうだね。ただ、この実験はリリーが手をつけていることもあり、下手をすれば我々はマッドサイエンティスト扱いになりかねない。慎重に、かつ定量的に言えることだけを報告することから始めたい。学会も、権威主義的な医者の集まるようなところではなく、生物科学系、情報系の学会がいいと思う。現時点のAIは統計論だから、この際無視でかまわない。すでに終わった学問をまたやるつもりはない」
「学会はいくつかリストアップしましょう。文献調査もやりますが、煽情的な情報が多いと思います」
「選別が必要だね。大学がこんな状態だろう、みんな目立ってカネ集めをしたくて仕方がない。平気でウソを論文に書く阿呆までいる。よく選別しよう。後は学生たちに被験者になってもらうのはいいが、感想を聞くのはよそう。信頼できるとは限らないし、彼らの遊び場にされては困る」
「今日はデータの分析、機器の問題点の洗い出しをしたいと思います。リラクゼーション施設ではないので、研究目的に機器を洗練させる必要があるかと。それから、リリーは薬物を利用していますが、ベンゾジアゼピン、SSRIなどの影響も調べたいです」
「リリーはLSDまで使っているが、それはできない。ベンゾを実験に使うとしても医師、薬剤師が必要だね。とにかく、データの蓄積と分析だ。急いでやる必要もない、腰を落ち着けて確実にやっていきたい。何度も言うが「こころ」なるものの研究だ、何も隔離タンクや瞑想、薬物だけで終わらせるつもりはないよ」
私たちは実験室を片付け、データを回収して研究室のPCに送付した。まだ研究は端緒だ、何らかのひらめき、あるいはアイデアが必要だ、と私は思った。
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