第3話 マッドサイエンティストの検証を目指し
分子生物学は専門ではないが、教える立場として学生に講義せねばならない。
分子生物学はその発端をDNAの発見に持つ学問である。DNAはRNAに転写され、最後にタンパク質としてその機能を発揮する。講義としての予定は、DNAにはじまり、メッセンジャーRNA、トランスファーRNA、そして最後にDNAのコーディングについて説明することにした。
DNAに使われている「文字」はたったの四つしかない。それを三つ組み合わせてタンパク質合成に必要なアミノ酸を表記する文法がある。三つずつの「文字」で指定されたアミノ酸が一列にくっついて並ぶと、ポリペプチド、すなわちタンパク質になる。DNAはいわば、タンパク質の記憶装置なのだが、その記憶の方法についてまでを講義することにしている。
学生が相手で、しかもやる気があればまだいいが、そんなもの期待しようがない。一コマあたりに使える時間から考えて、教える範囲はそれが限界だ。今日は初回なので、興味を持たせるためにDNA発見に至るまでの人間同士の確執などをお話ベースで解説した。適度な落としどころ、であったと思う。
数人だけ、私のところに質問に来た。DNAを発見した人はなんで探そうとしたのか、とかどうやって構造を決めたのか、とかその手である。誰しも思うところなので、手持ちの資料で説明した。彼らが少しでも理屈を理解してくれればそれでよい。
研究室にもどってから、今期にやりたいことを考えていた。特に興味をもっていたのが、最近、うつ病を直す手法として再度、薬から瞑想などを中心とする東洋医学的なアプローチに変化していることだ。瞑想とはなんだろうか、といつも思う。認知行動療法として採用されてはいるが、本質は理解されていないのではなかろうかと思う。リリーの考案した、
隔離タンクとは次なるものである。まず、人が入る箱状の風呂おけみたいなものを想像してほしい。タンクには窓がなく光が遮蔽される上、可能な限り遮音される。内部に人は閉じ込められ、温水の中に浮かべられる。人を浮かばせるために、水の代わりに比重の高い硫酸マグネシウム水溶液を使う。硫酸マグネシウムは、多量に飲んだりしなければ無害であるし、食塩より肌を刺激しないので都合が良い。真っ暗な中で体温と同じ液に浮いている内に、人は特殊な精神状態に陥る。肉体から魂が抜けるように感じる人もいれば、過去の記憶が鮮やかによみがえる人もいる。物理学者のファインマンも離脱現象とまではいかないが、体と心が少し離れたように感じた、と著書に記している。
隔離タンクを宗教に利用したり、また、自分の功名心のために妙な解釈をする文系評論家のバカ共、果ては理系でも事情を知らずに学生実験に使わせる阿呆がいる。この先生はご立派な理系専門の某大学で教授をされていたにもかかわらず、隔離タンクの発祥も知らず、1980年代に開発されたとまで、自分の本にこれまたご立派な誤りをご記載である。その本がバカ売れしてるのも腹立たしい由縁である。大手書籍サイトの書評でその著書を激賞する阿呆までいるのには参る。哲学者も同様だ、やつらは科学と哲学は分離された、と言った下の根も乾かぬうちにAI議論である。インチキ臭いことこのうえない。
私はそんなインチキごとにではなく、科学的な立証を目指してリリーの研究を考証したいのだ。直近の目的は変性意識状態と瞑想との共通点、相違点をはっきりさせることである。そこから「こころ」なるものを理解する原点を見いだしたいのだ。その一方で、これは多忙になってできないかもしれないが、神経伝達についての再考証もしたい。なぜなら、あれほど騒がれ、今では標準投薬されるSSRIという神経伝達物質に作用する抗うつ剤が、米国で殆ど効かない、とまでする論文が出ているからである。
究極的な目的は「こころ」とは何かを見いだすことではあるが、それは最終目標であって、今できることから始めるのなら、そのような計画になるであろう。
さて、隔離タンクを手に入れるところから始めようとしたが、果たして殆ど廃れて、米国からバカ高い価格で入手するしかない。これでは予算がもたない。簡単な装置なので、学生たちを動員して作るしかない、情けないがDIYの隔離タンクになりそうだ。隔離タンクの内部は、死海に浮かんで本を読む人たちのように、高濃度の塩溶液が満たされている。通常の塩化ナトリウムでは腐食や肌への刺激などの問題があるので、硫酸マグネシウム溶液が必要だ。大量の硫酸マグネシウムは、安い工業用レベルのものを製薬にいたころからの知り合いに都合してもらうことにした。硫酸マグネシウムを溶かす水も超純水なんてバカバカしいものは使わず、水道水を使う。幸いにして塩素殺菌していない地区なので、多量の塩素イオンもなく、脱塩素する必要もない。
隔離タンクは半年もしないうちに完成した。学生たちを動員したので、それなりに彼らには単位を認めなければなるまい。隔離タンクには、まず自らが実験台として入ることにした。まるで、映画、「アルタード・ステーツ」のマッドサイエンティストそのものである。映画では冒頭に解説が入って、ドクター・ジェサップはある日、自らを実験台とすることにした、とナレーションされている。私はリリーのように、脳みそに電極を突っ込んで、とかそんな極端なことをするつもりはなく、そこは先端的な脳の活動状態を測定する装置を借り受けて使うことにした。また、当然ながら、アルタード・ステーツのように危険な薬物を使ってなどとは一切考えていない。純粋に隔離タンクのみの効果を検証し、その結果を脳の神経回路網と関係づけて説明できれば、最初の成果になるであろう。
企業の援助なぞ期待もできないが、AIの次です、というような宣伝資料を作り、マスコミ関係をおもに資金提供先として回った。積極的にカネ集めをするようなつもりもないので、適当にしておいたが、とある民放の記者が食いついてきてわずかなカネを提供してくれることになった。これで十分な実験ができる、その程度の予算方針なのである。
私は研究するためにきたのであって、カネ集めのために就任したのではない、それは口が裂けても言えないが、内心は大学当局にコネでも作って理解してもらわねばなるまい。
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