サイダードロップ・センテンス (3)

 主文。

 被告人をデイ・サイダーの刑に処す。


・・・♪・・・


 突然、飛び降りてきた少女を捕まえて、浮かび上がったところまではよかった。飛び込み台から飛んだのではなく、その途中――空中から現れたように見えた。そういうのって、見たことない。だから、蜃気楼とか逃げ水とか、そういう類の幻かと思った。

 でも、肉体はある。

 現実だ。

「あなた、どこの子?」

 その子はワンピースを着ていた。

 普通なら、この学校の子が着替えたか、あるいは、外から入ってきたということになる。どちらにしても、「どうして?」という疑問は免れえない。彼女の目は翠色をしていた。そういう目の色って、見たことない。実家の近くの白猫が化けてワンピースを着た、と言われた方が信じやすい。

「どこの子」と彼女は繰り返す。

 細い顎下に手を当てて、ううむ、と唸る。

 水分を吸って、ピタリと張りついている、薄い布。

 ちょっと待って、下着らしい線がない。

「えっなんで?」

「なにって、なに?」

「下着とかさ」

「なに、それ」

「こういうの」と言いながら、わたしは自分の体に指で線を描く。「下に着るやつ」

「……?」

 要領を得ない様子で、彼女はまたしても首を傾げる。

 こうなれば、実物を見せて説明するしかない。

 プールサイドは走らないでください、なんて注意する人はいない。ここはわたしの貸切だ。通学カバンに自分の下着を探して、ふと手を止める。待て待て、何をしようとしているわたし。自分の着古した下着を、見ず知らずの女の子に見せびらかそうってのか? それって、変態的じゃないの、とわたしは思う。

 とぼとぼと彼女の元に帰るわたしであった。

「…………?」

 ああ、余計に困惑させてしまった。

 しかし、スマホがあるもんね。

「えー、下着というのはですね」検索。「肌に直接着る衣類のことです」

「……ではこれでは?」

 と言いながら、彼女は張りついたワンピースを引っ張る。

「まあ、定義的には……」

 インターネット、あまり意味がない。

 過不足なくても、咄嗟の事態に弱い。

「でもね、それだと下着のままで出歩いてたってことになるんだよ」

「問題が?」

「変態です」

「ふうん」

 彼女は手を伸ばしてきて、わたしの胸を掴む。

「ぎぇ」と鳴くわたし。

「この下にも何か?」

「み、見えないようにパッドが」

 何が、とは言うまい。起伏の乏しい我が身なれども、起する部分というのはあり、それって見せびらかすものではないのである。本当に全身滑らかだったら、生身でプールに飛び込んでるね。これもまた言うまでもなく、わたしだって哺乳類なのだ。

 ていうか、揉まないでほしい。

 寄せてから崩すように揉む女である。

「それは下着?」

「ではないです」

「これは下着!」

 彼女なりの検討つけたのだろう、ニヤリと微笑んで、水着を引っ張ってくる。

「残念ながらノー!」

 ぶん、とふりほどく。

 べちゃ、と濡れた彼女がタイルに倒れる。

「これは痛み」

「すみません」とわたしは頭を下げてしまう。

 正当防衛でしょ、とも思ったが、悪いものは悪い。

 ていうか、

「下着の概念すら知らないってどういうことなの?」

「んー」彼女は言葉を探して上を見る。

 わたしも、そちらを見る。

 全面強化ガラスの天井は、苔むしている。国歌以外でも使うもんね、というのがわたしのささやかな誇りだった。嘘です。どうだろう。あまり他人に言ったことはない。

 元々、この貸切プールにしたって、水道設備が生きているから使えているだけで、業者のひとが管理しているわけでもないのだ。当然、天窓の苔むしをどうこうできるような胆力はわたしにはない。飛び込み台までの高さが関の山。

 彼女が見ているのは、そういう高さではない。

 星座を認めるように、彼女の視線を正確に辿る。

 何もない宙を見ていた。

 虚空、という表現が多分そう。

「……身ぐるみ剥がされた?」

 と、訊かれましても。

「んー」今度はわたしが悩む番だった。「……悪いことしたの?」

「そのつもりはない」

「襲われ」良くないな、と反省。

「てもない」

 地名かな。北の方にありそう。

「牢獄にはいた」と彼女は言う。「みんないた。新しい王様? 的にNGってことになった。で、ガシャン」両手を組み合わせる彼女である。「捕まった。身ぐるみ剥がされたのは、その時」

「ふむ」

 やばいかも。やばい子なのか? 不思議ちゃん?

「判決までのスピード、早かったから、多分事前に決まってたんだと思う」

「判決?」

「裁判。そう」指を弾こうとするも、ぺにゃんと鳴る(鳴ってない)。

「やはり悪いことをしたのでは」

 およそそんなことをするような顔には見えなかった。

 地上の猫の大半は、透き通った目をしている――という誰かの言葉を思い出す――彼らに罪の意識はない。どんなに残酷なことをしているように見えても、猫の世界の理屈があるのだ、と。申し訳ないことをしたような表情をすることもあるではないか、と思う。昔に死んだ作家の言葉だから、反論しようにも応答は望めない。

 彼女の翠色の目は、恨みや後悔というものから無縁だった。

「悪いことになった、とすると正しいかも」と彼女。「で、デイ・サイダーの刑になった」

「泥酔ダー?」

 弟の見ている特撮ものに出てきそうだな、とわたしは思う。

「そうかも」首を傾げているから適当だ。「シュワシュワする池に落とされる」

「炭酸水? 温泉?」

「そんな感じ」

 どっちだよ。やはり適当な子だった。

 そんな刑罰なんて聞いたこともない。

 ていうか、王様にしても不明だった。

「……多分、ポータルが開いたんだな」と彼女。「石抱きの紐は切れたけど、時間がかかった。水面まで保ちそうになかったし、射手隊も見えたし。覚悟したな」

 彼女はそこまで言って、わたしを見た。

「あなたが助けてくれた」

 グッと乗り出してくる。

 わたしは後ろ手に支えにしていたけど、グイグイくる。濡れてまとまった髪が、水着の上を走ってくすぐったかった。普段なら笑う。けど、今はそれどころじゃない。胸が触れて、体温が流れてきた。彼女の脈拍は遅く、対してわたしの方はバクバク言っていた。

 翠の瞳なんて、初めて見たのだ。

 こんなに間近で見つめられたのも初めて。

「あ、あなた、どこから来たの」とわたしは言う。

 違う。

 離れて、とかなんとか言うべきだったのだ。

「んー」

 ちょっと空を見る彼女。

「イセカイ?」

「なに、それ」

「説明ムズい」

 彼女はそう言うと、さらにグイッと前に出てきて、わたしに体重をかける。

 支えにしていた腕が持たなかった。どかりと倒されるわたし。

「ちょっと、何――」 

 疑問は、彼女の唇に取って替られた。

 他人の舌の長さなんて初めて知った。

 歯を開けて滑り込んでくる熱い塊が、舌を一周する。

 ピリピリとした。

「ぷぇ」

「伝わった?」と言って、ぺろりと舌を出す彼女。

 なんにもわからなかった。

 ただ、彼女の髪の色が、天窓から降り注ぐ陽の光に似ていると思った。

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