サイダードロップ・センテンス (2)

 人は落ちるようにできている。けれども、沈むようにはできていない。

 

 ・・・♪・・・


 もちろんわたしは飛び込んだ。けれども、このもちろん、考えが足りなかった。まずは遠回りでも、高飛び台から勢いをつけていくべきだったのだ。

 実のところ、その考えだってあまり現実的ではなかった。なぜならわたしは高所恐怖症で、あの飛び込み台に登る自分を想像しただけで足元がすくむ。

 5メートル。

 底の方を覗き込めば、もう戻ってこれないんじゃないかってほど深い。だから今までわたしは飛び込まなかったのだ。毎日数キロ泳いでいる間も、頭が空っぽになるまでは、そういう冷たく昏い死の恐怖みたいなものと闘うことになる。そりゃあ部員も増えないわけです。

 まあそんなのはいい。

 そんなのはいいんだ。

 体が勝手に動いてしまうということもある。冷静に考えれば、少女が浮かんでくるのを待っていてもよかったし、それこそ溺れ始めるのを待ってもよかったと思う。彼女は背中から落ちてきた。危ない姿勢。けれどもその子にはその子なりの流儀があったのかもしれない。そこまで頭が回らなかった。なぜか。

 水面に消える直前に、彼女はこうつぶやいたような気がしたのだ。

「たすけて」

 と。

 だからわたしは飛び込んだ。そう思って、義で心を奮い起こし、5メートルという深さと暗さに立ち向かう勇気を燃やそうとした。わたしにはそういう洗脳<<マインドセット>>が必要だった。

 でもゴーグルの中で目を開けたとき、そういうレトリックは一瞬で崩壊した。そして全身が理解した。それって本能みたいなものだったんだな、と思った。銜えた肉を水面に映る月に奪われ、追って飛び込み、川に溺れた犬のように、蛍光灯に呼ばれる蛾のように、それとも単に運命感じて、わたしは飛び込んだのだ。

 

 だってその子、咲いてるもん。

 

 水の中に咲く女の子がいるなんて知らなかった。金色の髪がボタンになっていて、それを中心に広がる白いワンピースは、まるで花弁のように揺れていた。布の間に閉じ込められていた空気が、逃げるように立ち上っている。炭酸水の中に飛び込んだら、多分こういう世界が見えるんだと思う。彼女が引き寄せる、どこかの世界の日の光とか、それとも彼女自身が輝いているのかもしれないが、気泡の一つ一つが星のように瞬いていた。

 わたし、宇宙にダイブした。だったら、もう、怖がる必要はなかった。

 その子に見惚れていた間、わたしの体はすっかりリラックスしていた。浮かばなければと無意識のうちにきつく思っていた気持ちも縫解けて、ただ重力の誘うままに、するするすると沈んでいく。わたしは彼女に降りていく。

 とん、と多分、彼女の背中がプールの底を打ったのだろう。その反動で、彼女の体は上昇してくる。いやどうなんだろう。正直、いまのわたしには、縦とか横とかの感覚が、大分あやふやになっていた。無重力だった。

 彼女は背中を打ったときに、やっと目を開けた。翡翠の目がきらりと光る。金色の髪もそうだけど、この炭酸水の宇宙において、彼女は自分の力で光を発しているようにみえた。太陽だ。

 わたしは下降し、彼女は上昇してくる。

 彼女は両手を伸ばした。気がつくとすでに、わたしの方もそうしていた。彼女の白く細い指先が、わたしの指先と触れる。静電気みたいなものを感じる。ピリッとくる。多分まわりが炭酸水のせいだ。びっくりしてちょっと指を引いてしまう。傷つけただろうか? ここにはわたし達しかいないのに?  

 そんなわたしを見て、彼女は微笑んでくれる。五指が指先から間接を一つ二つと滑り降りて、わたし達の指は絡み合い、互いの手を握る。

 この手のひらの間に生まれる温度の高まりを、そこから広がる心拍の上昇を、わたしはなんと名付けよう――そんなことを考える一方で、わたし達の体は浮上していく。そのことをわたしは感じている。重力だって遮ることなんかできないのだ。

 水面に近づくのが、少し怖かった。いつものように息継ぎをして、この胸を締め付ける切なさが吐き出されてしまったとき、わたしもまたこの感情を失って、彼女と繋がるこの手も縫解けてしまって、そうして人魚の言葉で書かれた、このひとつの名詞が泡になってしまうのが怖かった。

 

 でも――わたしはわたしの世界に戻ったら、彼女の名前を聞こうと心に誓う――ひとは沈むようにはできていないのだから。

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