サイダードロップ・センテンス
サイダードロップ・センテンス (1)
ラムネは留め玉を落としたときにはじまる。彼女が落ちてきたとき、わたしの貸切プールは、サイダーの海になった。
・・・♪・・・
青春。
そのブーム。
クラスルームを席巻しているその圧倒的人気の精神状態に、興味がなかったといえば嘘になる。夏が近づくにつれて、一人また一人と手を出した。そして一度手を出したら、後には引けず辞められないというものだ。
その通り、恋は麻薬だ。世界の全てが繋いだ手の間に、両手を組み合わせてくるくると回る、その中心から湧き出ずるように感じるらしい。
全知全能な高揚感に浮かされたわたしのクラスメイトたち。昨日までは、どうでも良いことで笑い転げていた彼女たちが、たった一つの観念の虜になり、それ以外の全てを忘却した。盲目なんてものでは効かない、それを視野狭窄というのは僻みだ――そうわたしは友人たちを弁護する。彼女たちは何も、自ら進んで、恋なる関係性を選択したわけではない。それともそうなのだろうか、と仮定してみても、そこで行き止まり。もはや無効だ、追求はできない。彼女たちはもう、恋を知らなかった時代には戻れないのだ。ただ単に、それ以外のことを忘れてしまったわけだから。
万人に――というほどもちろん、わたしのクラスメイトに数はいないから、観測人口100%の世界で、ということだけど――受け入れられる、恋とは一体なんなんだ、とそりゃあわたしだって気になる。とてもなる。しかして、そういう道に足を踏み入れなかったのは、一重に天気が悪けりゃ学校を休むくらいには雷が怖く、つまりは我が身大事で、冒険型の人間ではなかったからだ。
雷は怖いよ。一度実家が吹っ飛んだことがあるからね。
逆に晴れの日はいい。空から何かが落ちてくる心配はない。こうもりがさを差したシルクハットの男性が落ちてくることだってあるかもしれないが、あれはシュールレアリズムの世の中だけの話で、わたしの住むこの世界は、どちらかといえば写実的だ。時代の隔たりに感謝。
とはいえ、この暑さ、どうにかならないんだろうか。
時計だって蕩ける季節がやってきた。
・・・♪・・・
サマーセーターを発明した人間を恨む。校則を制定した人間をタイムトラベルの末に撲殺したい。なぜなら、この二つの策略によって、わたしは通り雨でも飼っているかのように、びしょびしょだったからだ。汗で。時間をかけて平らにしてきた、髪の毛も、もはやメドゥーサじみていて、ショーウィンドウに自分の姿を見るたび、制服姿の老婆と自己の乖離に苦しみ、自己同一性を失う。汗となり、涙となりて、わたしのアイデンディティは流出していた。
恋は夏の温度を緩和するのだろうか? そんなことを思いながら、行き交う恋人たちの横を通り過ぎる。まあ多分、そうだろう。彼らの幸福そうな笑顔は摂氏五千度くらいあるのだ。形而上学的サンライト。つまりこの季節、街には太陽が増えている。
わたしが目指しているのは、プールだった。これでも水泳部。部員はわたし一人しかいないけれど。当然、大会に出たりというストーリーがあるわけではない。ただ、わたしは泳ぐのが好きなだけだ。そしてただ泳ぐの好きだという人間は、なかなか少ないようだった。わたしにもわかる。ただ何キロも泳いでいると、自分は一体何をしているのかを見失う。途中で止まるわけにはいかない。五メートルの深さがあるからには、それは死を意味するからだ。泳ぎだしたら、泳ぎきらなければならない。
体だけを必死で動かしていると、魂がどんどん引きこもる。反復運動に心が飽きて、そうして残されるのは自動化された運動と、それからわたしの中の小さな疑問――それは言葉にし難いものだけど、疑問文であることには違いないのだが――それだけだ。その疑問にもっと近づいて、内容を読み取るためには、もっと効率的に泳ぐ必要がある。毎日毎日、わたしはここにきて、自分の中にあるその一文を読み解こうとして、五メートルの谷を渡る。これは発掘作業のようなものだ。死と隣り合わせの。おすすめできることではないよね。
ともあれ、そのプールはわたしの王国だった――昨日までは。
誰もいないことが確約されているからには、入り口から制服を脱いでいって、プールサイドにたどり着けば水着姿、というのが可能になる。お母様がいたら、すごく叱られているところだ。
しかしここに母はいない。もう随分昔に卒業してしまったから。
いまここにいるのはわたしひとり。
さあさ飛び込むぞ、と助走をつけて走り出した。ぐっと膝をかがめて飛び上ろうとしたところで、しかし先客が――落ちてきた。
少女。
金髪。透き通った白いワンピース。
水面に消える前に、彼女は一瞬だけこっちを見た。
翠の目。
どぼん、と五メートルに消えた。
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