ハロー、ベルベット・ローズクライン


 十五時。昨日も来なかったか、この十五時というやつは。


 人間の死を見たことがあるかい。心臓は脈打っている。呼吸をすれば、胸郭は膨らむし、萎む。尖ったもので突けば反応もしている。そういう意味では生きている。しかし、それだけだ。それだけで全部。ベルベット・ローズクラインという人間は、そういう生き方をしていた。

 彼の――パッと見は性別なんてわからない。二十一世紀という時代は、個人から性差を取り除くことに成功した――横たわる姿からは、ただ呆然としているようにも見える。ただし、少し頭を枕から持ち上げれば、ちゃんと脳の後ろにプラグが差し込まれていることに気づくだろう。しっかり、確実に、金属だかプラスチックだかわからないようなものが、彼の意識の奥深くまで挿入されている。

 もっとも、彼に意識なるものがあればの話だが。

 ぼくとベルベット・ローズクラインとの出会いは、大したことがない。彼女ガールフレンドが死んで、失意の内に病室を後にした時――いつだってその時が来る。病室を後にすべき時が――どこからか風が吹いてきて、そちらを見た時に彼がいた、というだけだ。言っただろ、なんのことはない。病院だからには、病室というのも無数にあり、その中のひとつが窓を開けていただけで、窓際に新しいベルベットが置いてあって、風がその匂いを連れてきただけだ。

 すまない、ガールフレンド。

 ぼくはそいつを、きみの代わりにした。


 とはいえ、ネクロフェリアの趣味はない。それに、そいつの頭上の心電図は、彼がまだ生きていることを世界にアナウンスしていた。君よりは確実に生きていた。ただちょっとここにいないだけだ。この二十一世紀中葉の社会と、若干歯車が噛み合っていないだけ――そう思うにしたって、あくまでぼくの生きる奴隷的労働の次元と、というだけの話だ。

 医療費だとか「生を受けし者、死すべきにあらず」なる法律の次元では、彼はちゃんと噛み合っている。ぼくの方も意識してこそいないけれど、そういう次元の構造体に組み込まれているわけだ。実に忌まわしいことに。

 ローズクライン、というファミリーネームの話をしよう。

 これだって、ぼくが勝手につけたものだ。意識がこちらの世界にコミットしてないからって、ぼくらが初対面なことは変わりなかった。いつだって、誰に対してもそのように。いきなり下の名前で呼ぶわけにもいかないだろう(初対面なんだから)。だから、君の好きだった小説家の名前をつけた。

「ハロー、ミスター・ローズクライン」

 ぼくはパイプ椅子を引き寄せて、彼にささやきかける。

「もし違ったら、教えてくれ。呼ばれるべき名前があるのなら」

 当然反応はない。加えて不思議なことに、彼の病室の前にも、彼の頭の上にも、正しい名前は何もなかったのだ。ぼくがどう呼ぼうとも、いずれも異なる点で同じだった。もちろん、彼が――彼女かもしれないが――自己申告をするなり、ぼくを睨みつければ謝罪する用意はあった。この点、ぼくは常に罪の意識を抱えて、話しかけたことになる。それは、今も変わらない。

 ただ、ベルベット・ローズクライン氏に本物の名前がないことは、ぼくを安心させた。もし名前がどこかについていれば、話しかけようとしなかっただろう。美術館に提示された作品に話しかけるやつがいたら、君だってぞっとしたことだと思う。

 ところで、ガールフレンド、寒くはないかい? 死後の世界というやつは。

 こちら現実リアル、季節は冬に差し掛かったところだ。

 雪虫も飛ぶ。

 朝起きると息が白い。

 窓は凍ってすぐに開かない。

 それでも、道路に雪はない。

 多分夜のうちに姿を消したんだろう。君と同じさ、ガールフレンド。春が来たら、ぼくも前を向くことができるだろうか。冬の内はダメだね。君が不在の部屋は寒すぎるんだ。暖房も鳴かない。戻ってくれとは言わないよ、君だって嫌気が差したんだろう。あるいはぼくの想像もできない理由があって、君は星の下に殺されてしまったのだろうね。

 水の中は冷たくなかったかい?


 ぼくとベルベット・ローズクライン氏の会話は一方的だった。ぼくは彼を君の代わりにしたわけだから、話の内容も君の想像通りだと思う。本の話、音楽の話、映画の話、星のめぐりの話、遠いどこかで超新星が爆発した――そういう社会に益のない話だ。君は嫌がらず聞いてくれたし、そんな歳月が結構続いたものだから、ついつい彼に対してもそういう話に落ち着いてしまう。

 反応がなくても、ぼくは辛くなかった。

 当然だ、脈もあるし呼吸もある。たまに看護師がやってきたけど、ぼくのことを彼の友人だと思ったんだろう。注意はされなかった。それとも、ぼくの正体が誰であれ、益体もない言葉が、彼を現実に戻す助けになると思ったのだろうか。医療従事者の考えることは、ぼくにはわからない。そもそも戻ってきたとして、この世界に何があるんだ? 君もいなくなった後なんだ。

 ぼくには話し相手が必要だった。

 彼に何かを言って、応答が得られるところを想像しながら、ぼくはまた言葉を続けた。それはまるで、彼が古い友人であるかのように。そう周りに見えたことを期待する。正体がバレることに恐れはなかったし、ここを追い出されたでもすれば、それは仕方のないことだけど、またしても話し相手を失うことは、少し、寂しかった。もしそんなことになったなら、ぼくは冬の間、どう生きていけばいいんだろう。そう思う程度には、ベルベット・ローズクライン氏との会話は、ぼくにとって自然なものになっていたわけだ。


 何事にも終わりはあるらしい、と知識では知っていた。実際、経験もしていたはずだが、どうしてだろう、ぼくにとってそれは、いつだって予期せぬ形で訪れるらしい。もっとも、君がいなくなった時ほど、明確な形で目の前に現れたわけではない。ベルベットの風が吹いてきた時とは逆向きに、それは病室の外から聞こえてきた。二十一世紀が半分経っても、人の口に戸は立てられなかった。

「xxx号室の患者さん、支援が切れるみたい」

「長いことここにいましたものね。わたしが来る前だから――四年?」

「五年。革命祭の五周年記念日で盛り上がったでしょ」

「盛大でしたね。――でも、その間、どうしてたんです、維持費とか」

「なかなか偉いひとみたいだったみたい。支援をするひともいたんじゃない?」

「へぇ。でも不思議ですね。それなのに、名前がないんですか」

「だから、よ」

「うわぁ。なんか触らぬ神に、みたいな話ですかね」

「あと半年らしいけどね」

 本当にこんな話を聞いたのかは、残念ながら確かじゃない。半年というフレーズだけは、確かだと思う。この頃ぼくは物事をよく覚えられなくなっていたのだ。何時に起きて、何を食べて(あるいは何も食べなかったのかもしれない)、どういうルートでローズクライン氏に会いに来たのか、定かじゃなかった。まあ、そのあたりはあまり重要じゃない。

 問題は、ローズクライン氏が、君と同じようにぼくの前から姿を消すかもしれない、という方だった。その可能性は、ぼくを寂しい気持ちにさせた。しかし、まだ半年はある。君が一晩の内に姿を消したときに比べれば、十分過ぎる時間だった。

 ぼくは、ローズクライン氏に会いに行こうと決めた。別にこちらの側に戻ってきて欲しい、とまでは思っていなかった。ただ、一度は彼に挨拶をしておきたいと思っただけだ。

 それには、ぼくにも彼と同じような、プラグが必要だ。

 あまり合法的な手段ではない。

 けれども、当てはあった。

 この日もこの病室の窓は開いていて、窓際のベルベットがどうにか生き延びていた。初めて見たときよりは萎れている。けれども、まだ、確かに生きていた。

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