空の下に落ちてた少年
知らない春の匂いがした。
目を覚ますと知らない天井、青天井。
空。
雲ひとつないが、青に縞がある。空の底は夜に続いて濃い色で、裾の方は大地のように白かった。大の字になって横たわっていた。
風が吹いて、獣の匂いがした。
不吉な感じはしない。
むしろどこか懐かしさを感じた。
その正体を追って、寝返りを打つ、その前に、左の方を見て、ぎょっとした。
山がある。
よもや幻覚でもあるまいに、突然湧いて出たようにも思われた。
しかも息をしている。少し膨らみ、しぼむ――それを繰り返している。
そんな奇妙なものは見たことがなかった。
手を伸ばして、なんと、触れた。
温かい。
確かに生きていた。
毛皮を撫でていると、さすがに山も目を覚ます。パッと立ち上がって、こちらを見る。
犬だった。
「こら! ダズ!」
少年が犬に押し倒されて、顔じゅうを舐め回されていると、少女の声が聞こえた。
平野の向こうから走ってくる。手には杖のようなものを持っていた。青い宝石を握った杖。何やらマジュマジュしい感じがする。
彼女の姿を認めると、ダズと呼ばれた犬は、少年から跳びのき、少女の方に駆けて行った。ワン、ワン、と叫んでいる。喜びか、興奮しているような、調子だった。今日の天気によく会って、快活そうな声だった。
「わかった、わかったから、ダズ、えらいね、ちゃんと見守っててくれたんだね」
少女はそんなことを言いながら、ローブのポケットから干し肉を取り出し、犬にやる。
犬は干し肉を宙でキャッチする。
尻尾が飛んでいきそうなほど勢いよく振られている。
「あの子はああしてると静かだから」
と微笑みかけてくる少女。
「ダズ?」
「そ。紅茶みたいな色してるでしょ、だからダズ。ダージリンの略」
なるほど、少女は思う。
犬の紹介もしてもらったのだ、さあ名乗ろうとしてそこで言葉に詰まった。
思い出せない。
そこに何かがあったことはわかる。聞けば思い出すような勘もあった。確かこんな音だったような、と口の中で適当に転がしてみるが、これだというものに当たらない。トンとかタンという単純な音ではなかった気がする。トタタンタンのように長くもなかろう――そうやって色々試してみるが、リズムも音もわからない。
沈黙に耐えきれなくなったのは少女の方だ。
「わたしはアレト」
手を差し出してくる。
「アレト・ルジャンスカ。見ての通り、今は趣味で魔法をやっている者です」
少年はその手を握って、でも力を借りるのは悪いと思い、結局自分で立つことにした。
彼女の方は引き上げてくれるつもりだったのだろう、ふらついた。
さっと手が動いた。
少女の腰を抱いて、倒れるのを止める。
「あ、ありがとう」
「うん」
彼女が立ったのを確認して、彼は手を離す。
「あなたの名前は?」
「それが、思い出せない」
「言いたくないってこと、じゃなさそう」
「すごく言いたい」と少年は言った。礼儀に反すると感じたからだが、何より自分のことがわからないというのもひどく居心地が悪かった。
「ふうん」
少女が覗き込んできた。
「青い目に苦しみが見える、なのかな。わかんない」
「わかんないのかよ」
「ハハハ、まあわたしは趣味で魔法の練習してるだけだからね」青い宝石の杖をぶんぶん振る。一度振る度、空を切る音がヒュンと鳴る。「占いはダメ。演技が苦手なんだもん。あれにはあれの理論があるっぽいけど、全然納得いかないし。そりゃあ説得力、出せないよね」
足をしっかり踏み込んで、身の丈ほどあるだろう魔法の杖を、大きく振り切った。
気持ちの良い音がする。
「ふう」
「きみの話を聞いてると、ここは魔法がある世界で、きみは学生のようなものって感じがするな」
と少年は言った。
自分のことはわからないのに、相手に対しての情報がどんどん増えていく。
「そこからかぁ」
少女は言って、彼を頭の先からつま先までしげしげと眺める。
観察されるのはくすぐったかった。自分の姿すら忘れられていたから、彼はとても居心地が悪い。
「よし、街へ行こう」と少女は言った。
「街?」
「街はわかる?」
ばかにしないでくれ、と少年は思った。しかしバカみたいなのは自分の方だ。名前も過去もわからないのに、街という概念はわかる。それは空や犬に近いからだろうか。
「冗談だってば」と少女は笑って、少年の腰を指差した。
「あなた、剣を持ってる」
「……ほんとだ」
彼は柄を握る。
スラリと抜けた。抜き方を知っていた。
「気がつかなかったでしょ」と少女。「普通だったら、それだけの重さを下げてたら、傾くよ。でもあなたはそんなんじゃなかった。ってことは、その重さに慣れてるってことだと思う」
少年はびっくりした。
占いは苦手じゃなかったのか?
「ちょっと見せてね」
「はい」
「落としちゃいけないから、そのまま持ってて――そう……あっ、ほら脈がある」
少女が指差したのは樋の部分。少年の剣は両刃だったが、その合わさる部分に透き通った管のようなものが走っていた。
「やっぱりこれ、魔法の剣だよ。この細い脈は、魔法を遠くまで飛ばしたり、エンチャントしやすくするためのもの。省エネだけど扱いが難しいから、相当のひとじゃないと使えないはず」
「僕にそんな力が……?」
「あるいは泥棒さんかもね」と少女は言う。
「付け焼き刃じゃまっすぐ立てないのでは」
「体幹のしっかりした泥棒さん」
記憶がないから否定もできない。
自分が盗人である可能性は考えていなかった。
代案がない現状では、これが一番濃厚な線だった。
「うそうそ、冗談だよ」彼女は笑う。「魔術用の剣は生産が限られているし、
アレトはどんどん話を進めてしまう。
「どうしてそうまでしてくれるの?」と少年は尋ねた。
「んー」彼女は何かを言おうとしたが、その言葉を飲み込んだ。コホンと咳払いをして、他の言葉に替える。「だってあなたの目、寂しそうだったからね」
キリっとして見せた。
少年はぐっと来た。彼女のしたり顔に、ではない。その言葉にだ。
盗人かもしれないが、それ以前に僕は寂しかったのかもしれない――とそう思った。
「ありがとう」
「ダズもあなたのことを気に入ったみたいだしね」と少女は言う。
少女と少年の間に駆け寄ってきた紅茶色の犬は、賛同するようにワンと言った。
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