シリウス・アンド・カルセラス

 暮郡少年が目を覚ますと、自分の上に馬乗りになっている美少女がいた。美少女だからには当然光を放っている。彼女が呼吸するのに合わせて、彼女を取り巻く星々の瞬きが、距離を近くし、遠のいていた。その間隔がとても短いので、修には、この美少女が、興奮しているのだとわかった。問題は、なぜ、だ。

「お兄ちゃんが悪いんだよ」と美少女は言う。月夜の小雨を爪弾くような声だった。「わたし以外の女のひとと、腕なんて組んで歩いているから」

 覚えはなかった。

 暮郡少年は、高校男児である。中学は男子校だった。今年の春に進学を果たし、共学になって初めて、彼は女生徒なるものを身近に見た。概念としては知っていても、実態を持つものとして認識したのは、故にここ数ヶ月の話である。たとい街中ですれ違っても、それは群衆の一要素、風景の一つに過ぎなかった(もっとも、彼女たちの潜在的な華々しさの前には、自分こそが風景の一部だと暮郡少年は感じ、耳元で鳴る年代物のロックンロールに逃げ込むことを常としていた)。

 そんな彼に、腕を組んだことなぞあるわけがなかった。

 言いがかりだ、と思ったが、声には出なかった。そもそもこれは現実か、夢でも見ているんじゃないかしらん、と彼は考えた。金縛りのようだった。時計を見ようにも首が回らず、できることといえば、浅く呼吸を繰り返すばかりである。

「弁解、しないんだね」と美少女は言った。

 あるいは、暮郡少年が金縛りのように動けなかったのは、目の前の少女に身も心も奪われているかもしれなかった。

 星の白いのを集めて溶かし、伸ばして編んだような髪。月のように白い肌。涙に潤む瞳は、まるで大陸の科学小説で読んだ、海に沈むサファイヤを思い出させた。悲哀の色調を帯びながら、しかしその中核に、烈しく燃える火があることを、暮郡少年は知っていた。

「君」と暮郡少年は声に出した。

 声が出たことに彼自身も驚いたが、少女の驚きはそれ以上だった。

「何」と少女はやっぱりむくれることにする。

「君、誰だい」

「ひどいっ、それってないよ、お兄ちゃん」

「お兄ちゃん、と君は言うけど」

 そうだ、暮郡少年はみるみる思い出してきた。

「僕に妹なんていないんだぜ」

 少女はワッと泣き出した。


 暮郡少年には妹はいなかった。欲しいとも思わなかった。妹のいる友人達は皆、めんどうなものさと言うのを聞いて過ごしてきたからだ。彼らがやれやれと首を振って、苦労話を打ち明ける度、彼は自分が一人っ子であることに自由を感じていた。

 それなのに、真夜中に目を醒ますと、妹を名乗る少女が現れた。今はベッドの端にいて、膝を抱えてスンスンと泣いている。おそらく悪夢の類だろうが、そう口に出すのは気の毒に思われた。見ていると自分が悪者のように感ぜられてならない。

「君、泣かないでおくれよ」と暮郡少年。

「いや、いや、君なんて、いや。そうなふうに呼ばないで」

 女の子と腕を絡めたこともない暮郡少年は、弱ってしまった。自分が泣いた時のことを思い出す。どうして泣き止んだんだっけ。ここしばらくは涙と無縁の生活だったことに思い当たった。元来辛いことは忘れる性質でもある。想像力を働かせて、引っ張ってこられた赤子の記憶――いやこれは違う、自分のではない、先日、路面電車で啼いていた、どこぞの赤子の印象だ。役に立たない。

「暮郡――」少年が口に出すと、少女は泣き止んだ。こちらの次の句を待っている風でもあった。少年はしめた、と思う。いや何をしめたことがある。彼女が自分の妹を名乗るなら、姓は同じで当然だろう。

「――ザムザは、ある朝目を醒ますと……」

「わたしが毒虫って言いたいんだ」

「違う、誤解だ」

「夜なのに!」

「?」暮郡少年は首をひねった。「えっどういう意味だい」

「うるさいリンゴにぶつかって死んじゃえ!」

「豆腐の角なら聞いたことあるけど」

「もうなんでもいい! わたしのことを思い出せないお兄ちゃんなんて、嫌いなんだから」

 暮郡少年、これにはぐわんときた。

 見ず知らずの少女ではある。しかし嫌いと言われると、惜しいような情けないような気がした。そこで、この少年は、考え方を抜本的に改めることにした。たといこの少女が夢の産物だとしても、このまま嫌われたまま、朝日を迎えたのであれば、きっとメランコリィに囚われる予感があった。

 それは避けたい。

「わかった。ヒントをおくれ」

「妹が妹であることを証明するのにヒントが必要なの? 生まれて生きてることが、私がお兄ちゃんの妹であることの証左じゃない」

 思ったより手強そうだった。

「ほんのゲームだよ。生まれはどこだい」矢継ぎ早に暮郡少年は尋ねた。そうでもしないと、この自称妹は、またしても彼にはわからないようなことを、言い出しかねなかった。

 妹は頬を不機嫌に膨らませながら、人差し指を持ち上げた。はじめは向こう隣の両親の寝室を差すのかと思ったが、それは杞憂だった。彼女は指先をどんどん持ち上げる。天井を示したところで指は止まる。

「シリウスの向こう」と彼女は言った。「カルセラスの手前」

「はじめの星はおおいぬ座だとして、あとの方はどこの星だい」

 暮郡少年は聞いたことがなかった。

「……そっか」彼女は言う。「七夕の話ならわかる?」

「織姫と彦星の」

「ベガとアルタイルって言わない辺り、ロマンチストなんだね」

「君に合わせたんだよ」

「ありがと」と妹は言って、「星々はね、連れ沿うものなの。もちろん、全部がそうじゃないけど、そういう星も宇宙には多いのね。ベガとアルタイルは連星ってわけじゃないけど、でも、イメージの上ではペアで、アベック」

「君は一体何の話をしているんだい」

「生きてるものの話。科学に分断されないでいて、今も息づいている、ロマンティックな伝承の話だよ」

 暮郡少年には、全然意味がわからなかった。

「ね、お兄ちゃん。兄妹っていうのも、そうじゃないのかな。そうはなれないのかな」

「それは僕が決めて良いことなんだろうか」

「わたしの方は、準備ができているんだよ」


 そして僕らは兄妹になった。

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