死ぬならエルフを抱いてから(1)

 明日死のうと思っていた。

 仕事はクビになったし、あらぬ噂も流れてしまった。蓄えも底をつき、腹は常に空いていた。生きる気力は失われ、かといって自らの意思で状況を変えようという気概もなく、ただ愚痴を言っては不貞寝するという日々が続いていた。不健康だったし、不健全だったし、そんな自分が肯定できなかった。

 とにかく毎日辛かった。

 だから私は、死ぬことに決めた。


 後悔は無限にある。人生そのものが後悔と言っても良い。どん底の中にある私からすれば、もはや全てが罪だった。

 けれども、そんな私にも夢が一つあった。

 どこか華々しく散りたい、という気持ちがあったのだと思う。

 あるいはそれこそが、私に残された最後の気概だったかもしれない。

 男子として生きてきたからには、とびっきりの美女と一戦構えたい――そういう気持ちが、死すべき日を決めた時に、遡求的に生じた。

 この考えは私を虜にした。

 街を歩けば、冤罪的な噂話が聞こえてくる。しかしその時の私には、もう一切が気にならなかった。

 なぜなら私は明日の朝死ぬからで、絶世の美女を抱いたという、瞬間的な勝利を胸にこの世を去るからだ。想像してみる度に、そのヴィジョンは素晴らしいものに思えた。それほど誇らしいこともきっとなかろう。

 墓は要らぬ。一輪でも花が咲けば幸運だ。

 

 最後の魔導書を売り、剣も売った。どちらも思い出の品だったが、明日の朝には死んでいる身だ。思い出は心のどこかにあれば良いと思われた。物質的な世界にさようなら。死後の世界に期待はないが、現世に残しておくほどのこともない。

 店の場所は知っていた。

 クビになったその後でやけ酒をしていた時に、同じく泥酔した冒険者を名乗る旅人に聞かされていたからだ。

 旧市街と新市街のちょうど境界のところにあるというその店は、元は修道院だったこともあり、大変徳が高いという。正直なところ、相互に酔っていたので、彼の言葉は意味不明だった。私の方は前後不覚だったのだから、良い勝負だ。

 今になって思うに、修道院が娼館になるだなんて、にわかには信じがたい。信仰はそこまで変化するものか? けれどもそういうこともあるのだろう、何しろこの私がクビになり、あらぬ噂が街を席巻することだって起こるのだから。世にはとにかく政治的な力が跋扈している。そして私もその被害者だった。

 まあいい。

 そんなことは良いのだ。私は今日、人生の意味を得る。その前には有象無象、悪いがしばらく夢となれ。

 さて、冒険者を名乗る――名乗ること自体は誰にだって可能だった。難しいのは王宮から船を借りることだ――彼の言うことには、その徳の高い娼館は、西の亜人を売りにしているとのことだった。

 西の亜人。すなわちエルフだ。

 背が高く、肌が白く、背丈がすらりとしていて、まつげと耳が長い。瑕疵なき美貌は天と地の創造主たる神々の寵愛を受けており、その故あって長命で、衰えることを知らない。

 私たちの文明にも、彼らの存在は大きく寄与していて、元に魔術やら星見の術やらは彼らよりもたらされた歴史がある。ただしそれでも決定的に生息域が違うので、彼らの存在は同時にファンタジーなものともなっている。街中で見かけないことはないが、それでもやはり少数派だ。

 大義には、彼らエルフだって同じヒト型生命ではあるのだが、「西の亜人」と言うのは、よく通った表現だ。対して彼らは私たちのことを「エルフに満たないもの」「未満」と言うこともあるのだから、どっちもどっちという感じではある。要は己が何者かという話だ。

 私にとって重要なのは、その徳の高い娼館には、エルフの女性がいるという点だった。雪のように白い肌の、アテランシアの湖のように青い瞳の、創世記より住まう古き民。人間の世界観を超えた、ファンタジーとの一夜――憧れ以外の感情は、機能を停止したか脱落してしまっていた。


 自称冒険者の男の言う店まで、私は鼻唄混じりに歩いて行った。数週間ぶりに愚痴以外の音を出したことになる。遠くの山に雲はかかっていたが、娼館に着くまで降ることはあるまい。そして街の上空は、すっきり晴れていた。人生最後の一日に相応しい天気だった。たとえ雨が降ろうとも、一体それがなんだと言うのか。エルフに雨弾きの呪文でも唱えてもらえば良い。

 新市街と旧市街を隔てるテロノォ通りに着いたときには、私の心は軽くなっていた。同時に期待と高揚から、胸が締め付けられるようにも感じられた。躊躇はなかった、といえば幾分嘘になる。けれども全ては予定通りだ。

 こういう興奮は、学生時代を思い出す。

 西からの留学生の女の子に、片想いをしていた日々が蘇った。ひょっとして私はこれから、あの日の欲望を叶えるのかもしれない。当時望んでいた形とはだいぶ離れてしまったけれども、まあそういう人生だったのだろう、と思うことにした。

 よし、覚悟は決まった。

 私は娼館「レ・シャンテ」の扉を叩いた。

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