八月終わりのクレーターにて

 大きなクレーターの真ん中に立つ気分ってどんなものだろう。そこに向かっている間、僕はずっとそのことを考えていた。実際には、もっと純粋に、その疑問文だけが頭の中を占有していて、他の物事にリソースを回せなかったという方が近いかもしれない。

 一応、礼儀として僕は、途中で花を買い、彼女の好きだった瓶のサイダーを買った。少ないリソースでも、手ぶらじゃ悪いだろうし、くらいのことは思ったのだろう。

 でもこのちょっとした買い物をしたことで、僕の頭は少しずつ回るようになってきていた。

 この頃には、街の表面に人々が少しずつ人々が顔を出してきていた。長い冬が終わって、春が来たみたいに。腕を吊った花屋の女性は記憶を辿るようにして僕を見たし、照明のまだつかないコンビニの店員は、ぬるいサイダーを買う僕にやたらと頭を下げていた。

 彼らにも物語はあった。でも、支払いを済ませている間の僕には、そういうことを考える余裕がなかった。

 今回の事件を経て、彼らの顔をまた見ることができたことに、本当であれば僕は感動してもよかったはずだった。でも、商店街を出てしばらくしても、そんな気分にはなれなかった。

 彼らにとって、一連の出来事は、理解の及ばない不幸なのだ。その裏で僕らのしていたことや、自分たちのしていることに覚えた罪悪感、もうダメかと思って彼らの無事を祈っていたことなんて、知る由もなかったし、現にただ一人残された僕にしたって、そういうことを語る資格がないように思われた。

 僕らは最善を尽くした。その結果、廃墟になってもこの街は、消滅しないで残っている。そもそもあれは、僕らが招いた事態というわけでもなかった――でも、そういうことがどれほどの免罪符になるのか、僕にはわからない。

「君はただこの事件に立ち会っていただけだよ」と先輩なら言ってくれるかもしれない。「だから君は悪くない」とだって言ってくれるだろう。あのひとは優しいひとだったし、結局のところ全ての責任を自分で負ってしまうひとだったからだ。しかし、それは純粋に、彼女なりの使命感とか贖罪意識からのことで、結局のところ他人の罪悪感をまるっと肩代わりできるようなキャパシティがあるというわけでもなかったのだ。

 この街は傷つき、僕たちの思い出の場所も瓦礫になってしまった。理不尽の冬が終わり、穏やかな春が来はじめている。けれども、実際の季節は、どうしようもなく夏であり、商店街のアーケードを抜けた先の空はあまりに高すぎて、青の過剰な濃度に、僕は息苦しさを感じた。影が重たく感じ、つまづきそうになる。でも僕は行かなければならなかった。

 

 クレーターの名前は、〈八月えくぼ〉と呼ばれることになった。あの先輩ならすかさず「ディンプルとディシプリンって似てるよね」とか言うかもしれない。字にしてみるとそこまで似ていないのは目前だけど、多分途中まで言って、「ディシプリ」当たりではっと気づき、弱々しく言い終えるやつになる。そう考えると、ちょっとふふっとなった。懐かしくなって、涙が込み上げてきた。

 僕は地面に腰を下ろして、銅像を見た。

 事件が終わったあの晩から、もう三ヶ月ほどが経過している。その間に、どこかの誰かが持ってきて、ここに据えた銅像。それは少女の姿をしている。三角帽子はない。ローブもない。杖の代わりに剣を持って、空に向けて突き立てている少女の像。多分見る角度によっては、ドラクロワの絵に似ているのかもしれない。何もかも、僕の知る彼女とは別の姿だった。シャンプーやリンスをあれこれ変えても結局まとまらなかった髪も、銅像ではストレートになっている。

 そこに祀られることになる彼女の気持ちを、この街の人々は考えたことがあるのだろうか、と思わずにはいられなかった。それがあの先輩を象ったものだとして――きっとあの先輩がこの事実を知れば、罪悪感を募らせるに違いない。そういう背景を知っている僕からすれば、釈然としない部分もあった。

 でもそれが、彼女の魔法のあり方だった。いつだってそうだ。周りのことを考えすぎてしまうということもあって、その分自分の中のハードルが高いせいで、余計に苦しむことになる彼女。他の魔法使いとかにも一目置かれていたにも関わらず、成果を誇ることのできなかった彼女。不器用な女の子。

 僕は銅像を見上げて、言った。

「遅くなってすみません。ちょっと心の整理がつかなくて」と僕は言った。「高校、再開するらしいですよ」

 銅像は何も答えなかった。

 でも、僕にはどちらでもよかった。ただ、言いたいことがあるから言う。それだけだ。幸運なことに、周りには全然ひとがいないし、ここにいるのは僕だけだった。

「とはいえ、時期的には夏休みですし、みんなが通うようになるのはだいぶ後になりますけどね」

 もちろん、そんな独り言をするために、僕はここにきたわけではなかった。似ても似つかない静止物に向かって、そんなことを言っても何にもならない。

「これもだいぶ先のことにはなると思いますけど、街も元の姿に戻っていってます。牛丼屋さんとか、カラオケとか、市民プールとかも戻ってきますよ。なんかあっちこっちで、そういう動きがあるみたいです。ビラとか配ってました」

 空が高くて、僕は孤独だった。

 雲ひとつない空だ。まるであの日の晩が嘘みたいだ。

 でも翻ってここから先の日常はどうだ、と思わずにいられない。 またそれまでの日常が戻ってくるのだろうか。器が変わっただけで、中身の方は変わらないのだろうか。基準線があり、やがては全ての項目がそこに達して、僕らは日常を取り戻したと言う日が来るのだろうか。

 わからない。

 僕にはそうとは思えなかった。

 ここから先は非日常だ。それとも、先輩のいないこれからの歳月に、いつかこの僕も慣れる日がやってくるのだろうか。そのことを想像してみた。


 僕は立ち上がって、先輩に似ても似つかない銅像の足元に、買ってきた花を添えた。サイダーの瓶を開け、そこで考え直し、結局自分で飲むことを決意した。

 甘さが絡みつき、その中で炭酸が破裂する。痛みに似た感覚があり、そうしている内に涙が出てきた。けれども僕は飲むのを止めなかった。

 バックパックから、ローブを取り出して肩に羽織る。三角帽子をかぶる。あの先輩には大きすぎるサイズだったが、今の僕にはぴったりだった。長い縁のせいで、空は見えなくなった。僕は均された地面を見つめながら、来た道とは別の方向に歩き始めた。

 ローブの内ポケットに入っていた、杖を取り出す。それを手に取ると気のせいか重い。僕はそれをくるりと回し、トナトナと唱え、けれどもそこに続けるべき願いのひとつも思い浮かばなかった。

 しいて願わくば、あの魔女の笑顔を僕の日常にしたかった。しかしそれには遅過ぎたか、あるいは今はまだ早過ぎる。僕は彼女の弟子なのだ。おそらくはずっと。そして――ああ、それこそが願いになるかもしれないが――あの日々をまた繰り返したいと僕は望む。けれどもこれもまた、彼女の願いを否定することにもなるのだ。僕にはそういうことはできそうにない。

 だから、せめて。

 このまま海に行こうと思った。そこには先輩がいる気がしたし、少なくとも思い出の場所は残っているはずだった。

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