其は我が愛の異端 グルッテン・ベルバロンズの手錠

 グルッテン・ベルバロンズは、教会からの帰りにある金属片を見つけた。それは二つの輪が鎖で繋がれたもので、繊細さと力強さを兼ね揃えているように見えた。ブレッシアの職人なら作ることもできるだろうか――疑わしかった。であれば神か悪魔が与えたものに違いないのだ、と彼女は思った。

 何に使うかはわからない。

 ただそれは示唆に富んだものに思われた。

 だからグルッテン・ベルバロンズは、それを拾い上げて聖書の間に挟んで持ち運ぶことにしたのだった。


 彼女の通った教会――ベレ・バハレンツァ教会――は、先の戦災で失われてしまったから、2498年に住む我々には見ることができない。しかしながら、こうして超時空遠鏡を使えば見ることはできる。わしの時代には商店街の電気屋の前で、みんなで手に汗握りながら、普仏戦争を見たもんじゃ。こりゃ技術の進歩に足を向けて眠れないな。死体だってそんなことはしない。べへろん


 なぜ聖書の間に挟んだのかって、そりゃあサンドイッチと同じことですよ。キュウリ、ハム、マスタード、マヨネーズ、バターかマーガリンにその他もろもろあなたの好きなものいっぱい――そういうものが、パンなしだって考えてごらんなさいな。びちゃびちゃのべったべたでしょ。楽しみは日常の間に挟んでこそなんだ。

 グルッテン・ベルバロンズにとって、聖書は持ち運び可能な日常だった。そして彼女は考えることが好きだった。夢想家と言ってもいい。とにかく、あることないことを考えて、自分の中で形にしていくのが好きだったんだな。だからこそ彼女は、好奇心をくすぐり、思索の対象になるだろうその金属・ダブル輪っか・間にチェインを、聖書に挟んだわけだ。


・・・♪・・・


 グルッテン・ベルバロンズに「日曜日が好きか?」と聞いてみるということは、彼女の好意のバロメーターにもなる。彼女に気に入られていないなら、答えは「好きよ。だってお祈りをする日ですもの」。もう少しまともな答えなら、「みんなの心がひとつになるものね」が追加されるだろう。いずれにせよ、脈なしなことには変わらない。

 では逆に、好感触の回答は何か。

「教会帰りのマリファナって最高じゃない?」

 無論、こんなセリフを聞き出せたものはいない。なぜなら彼女は誰に対しても心を開かなかったからで、「好きよ。お祈りをする日ですもの」まで辿り着けた人間すらいない、という方が歴史的に正確だからだ。

 しかしこのことは、彼女が時代に先んじて大麻常習者であったことを否定するものではない。事実、彼女は教会帰りのマリファナを愛した。

 それが暴露れなかったのは、彼女が自分のポリティカル・イメージに気を払っていたからだった。実際それはうまくいき、誰も彼女がマリファニアンだなんて知らなかった。こういう要領の良さが、彼女を「日曜日が好きか?」の集中砲火の標的としていたわけだ。その才覚が主に発揮されるのは神学ゼミの議論の場で、当時のゼミ生は彼女のそばにミカエルだのガブリエルだのの姿を幻視したりしたものだった。なにもドンレミばかりがオリジンではない。


 教会のドアを開ける。必ず晴れた青空が広がっている。湖を取り囲む森は、確かに反聖書的なものなのかもしれないが、湖に映り込む静かな姿を見るに、悪いばかりでないような気がする――これは、グルッテン・ベルバロンズがゼミの議論で言わない、彼女だけの秘めた直観だった。

 学業とその先に待つ(かもしれない)栄光を考えれば、迂闊な発言はできない。そんなことをすれば、自分もまた、近頃流行りの裁判にかけられて、魔女として処刑されることにもなりかねない。

 けれども、それは今はまだ、自分に力がないからだ、と彼女は考えている。聖書に書かれた内容を、否定するつもりは毛頭ない。しかし、ペテロもサウロを受け入れたのだ。自分たちとは別の物事だって、今はありえないとされることにしたって、受け入れることはできるはずだった。そしてそういう路程の先に、神の国があるのではないだろうか――という想念を、彼女は密かにマリファナの煙に込めて、放つ。

 そういう風にグルッテン・ベルバロンズが考えるようになったのは、隣の家に住んでいる少女、ペリエ・トラウノスに出会ったからだった。

 

 ”出会った”、という表現は、しかしグルッテン・ベルバロンズにしてみれば、控えめな表現だったかもしれない。彼女はそれまで、特定の人間に心をかき乱されるというようなこともなかったし、恋なんてものがあるとして、それは形而上学的な概念に過ぎず、けれども彼女が読んだ聖書の中にはそんな言葉が見当たらなかったから、結論として流行語の一種だと思っていた。

 ペリエ・トラウノス。

 遠い国から越してきた家族の、一人娘。栗色の巻き毛とは、秋色なのに春の日差しのような柔らかさで、青い目ときたら、噂に聞くオケアノスを確信させるように澄んでいた。自分とは違って、白亜のように透き通った肌。世界の秘境をまるっと代替するような、美しさがそこにはあった。

 トラウノス家は、薬売りの家系だった。

 どういう理由があって、この地にやってきたのかは、誰もわからない。

 少なくともグルッテン・ベルバロンズは知らなかった。

 もとより周りとあまり関わりを持たない彼女のことだ、それぞれの家庭の事情など、耳に留まることはない。

 けれどもそんな彼女にも、トラウノスの家がやってきてから、街の人々の健康が改善されているのは聞こえてきた。

 噂の断片を接ぎ合わせると、トラウノスは森から草花を採ってきて、それを元に呪術を行うのだという。1日何包、あるいはこれをこうして燻した煙を、このように吸うが良い――そう命じ、そうすることで、それまで神学が行なってきた奇跡を再現してみせる。

 街の人々は、それを呪術と言う。しかし、グルッテン・ベルバロンズにしてみれば、それだって奇跡の一種ではないかと思われるのだった。もっとも、彼らがそれをそう呼ばない理由はわかる。彼らだって教会の庇護下にあったから、どこに司祭のいるかもわからないこの世の中において、大声で「奇跡だ!」と叫ぶわけにもいかなかろう。


 ベルバロンズが、トラウノスの一人娘を見かけたのは、今日のように日曜日の、しかし晴空の失せた日のことだった。

 その頃、グルッテン・ベルバロンズは、風邪を引いていた。学業への使命感から、体は動くには動いたが、咳は止まず、呼吸の苦しい日々が続いていた。

 一方のペリエ・トラウノスは、森に潜んで、草花を採っているところだった。

 グルッテン・ベルバロンズが、教会から出て、晴天がないのを理由に日曜日を棄却しようとして、湖をぐるっと回って帰ろうとしたところ、森の茂みの向こうに、ペリエ・トラウノスが見えた。腰をかがめ、地面に鼻をつけるようにして、何かを探しているところだった。ペリエの背中の丸まりに、グルッテンは哀れみを感じ、同時に少しだけ興奮した。自分が今まで学んできた、神学的奇跡を実践する機会かもしれない――この時のグルッテン・ベルバロンズは、神学こそが世界の真理だと信じる、独善的な人間だった――そう思って、わくわくした。

 声をかけようとしたが、咳のせいで潰れた喉では、思うようにそれができなかった。まごまごしている間に、ペリエ・トラウノスは目的の花を見つけたようで、すっと立ち上がった。背筋が伸びた瞬間、彼女はまるで、忘れていた百年の歳月を取り戻したようだった。木の実から芽が出て、それがやがて大木となるように、するすると立ち上がる。木漏れ日を楽しむように浴びながら、そうしてペリエは森に紛れた。

 そんな姿を見て、グルッテン・ベルバロンズは声を失った。そこには、彼女の知らない別の真理があるように思えたのだ。脇に抱えた聖書から、いつの時代かに溢れてしまった事柄があるとしたら、それはペリエ・トラウノスに体現されているような気がした。

 しばらく、その場を動けなかった。そうこうしているうちに、トラウノスの娘は、視界から消えた。やがて日の落ちる頃、グルッテン・ベルバロンズもまた、自分の家に帰ることにした。


 それからだった。

 どうも彼女は、自分の隣の家――といっても、キロ単位で離れているが――トラウノスの娘を探す日々が続いた。血眼になって、というほどまではいかないが、毎日彼女の姿を見かけますようにと、誰かに祈る毎日だった。初めこそ、自分は異端ではないかと、心が痛んだ。恐れもした。それこそ罪悪感があった。けれども、次第にそういった感覚は薄れてきて、彼女を探す努力も必要ではなくなった。ペリエ・トラウノスを思い続けたせいで、グルッテン・ベルバロンズの頭の中には、彼女の姿が常在するようになったのだ。


・・・♪・・・

 

 グルッテン・ベルバロンズが教会裏の切り株の上でマリファナを巻いていると、目の前の森の茂みが騒がしくなった。トラウノスの娘ではない。彼女は湖を渡ってくるはずはなかったからだ。ベルバロンズは、巻いていたマリファナを聖書に投げ込んで、挟んだ。ここは穴場のはずだったし、教会の人間がやってくるとは思われなかったが、念のためだ。

 しかし、何かの動物の叫び声が聞こえた。悲鳴に近かった。悪魔だ、と彼女は思った。こちらを不安にさせるような、知らぬ声は大抵悪魔の仕業だった。でもよく聞けばそれが、屠殺場で聞くものに似ていることがわかった。なにか大型の生き物の、断末魔。問題は、誰が、何をそうしたのかということで、それはひとくくりにして悪魔的な事態だと言えないこともなかった。

 こういうとき、どうすれば良いのだろう。

 森の茂みの奥から目が離せなかった。

 聖書を握る手が硬くなる。力の加減か、それこそ恐怖からか、震えていた。血の気がだんだん失せてくる。自分が何かにしがみついているところまではわかるが、その加護まで思いが至らなかった。こういう異常事態に対して、今まで神学を学んできたはずなのに、今の彼女はやってくる――駆けてくる――その何者かに意識を奪われていた。

 やがて、ダンッと地面を叩きつける音が聞こえてきた。そうかと思えば、茂みの向こう側から、大きな体が飛び出してきた。日曜日の晴天は、その巨体に多い隠されてしまった。夜になった、とベルバロンズは思った。あるいはそれが死だった。

 観念してベルバロンズは目を瞑った。

 誰にも死は訪れるものだ。まさかそれが、日曜日にやってくるだなんて想像しこそしなかったけれど。でも確かに、今日は神がお休みになられた日でもあるのだ。であれば、森の勢力が活気付くことだって、あるのかもしれない――彼女はそういうことを考えた。ここまでであれば、神学を信じる人間として、ありそうな考えだ。

 天の国のことを考える。わたしがここに死んで、ずっとずっと後になって、裁きの日がやってきたときに、果たしてわたしは蘇ることができるのだろうか。

 そこは、どういう世界なのだろうか。そこにも、ペリエ・トラウノスはいるのだろうか。遠くに見ているだけの彼女とも、そこではまた会うことができて、ちゃんとお話しすることができるのだろうか。

 ――いやそもそも、異端の娘、ペリエ・トラウノスはその国にやって来られるのか?

 ハッとした。

 そうだ、彼女は今のままでは異端なのだ。神に離れた奇跡を行う薬師は、為政者の気分次第で魔女にもなる。そうなれば彼女と再会だなんて望めない。

 日常的な危機もある。街の人々の助けにはなっているから、しばらくは大丈夫だろう。でもそれは恒久的な安全ではない。名前が売れれば、人目を引く。司祭に見つかったときにはどうする? 教会に命じられた騎士たちが、あの家を焼き落とさない保証もない。ペリエ・トラウノスだけが生き残る、なんてことはあるのだろうか――わからない。

 自分はまだ死ぬわけにはいかなかった。

 夢があった。

 それはもっと学問を修めて、しかるべき地位を身につけて、それでトラウノスの娘が生きていける世界を作ることなのだ。薬売りがひとつの仕事として、他の鍛冶や農家や貴族たちと同様に、貧富の差まではどうにもできないかもしれないが、少なくとも火あぶりにだけはならず、共に笑って街を歩けるような、そんな世界。

 死にたくなかった。

 これから先、ペリエ・トラウノスと離れたまま、地面の下で、最後の審判まで待ち続けるなんて、死んでもごめんだった。


「アーーーメン!!!」


 グルッテン・バルベロンズは立ち上がった。聖書を腰のホルスターに修めて、パチンとボタンを留める。両手を握って、前方へ。左足は引く。重心は落とす。

 両前脚を開いたその巨大な怪物は、シルエットこそ熊に似ていて、しかし毛がなく鱗で覆われていた。鼻先が長く、赤い目が三組も並んでいる。だらんと下げられた顎には細かな歯が並んでいて、別の生き物のような舌がのたくっていた。

「わたしだってボロニア大学の女子大生だ。神学なめんな」

 そういう早口で言いながら、彼女はなおも観察する。

 目を引くのはあの長い口吻だが、注意すべきは両腕だ。隆々とした二の腕と、その先の極端にでかい掌。長い爪。それらから繰り出されるだろうダブルストレート。あれで獲物の動きを奪い、いただきますのだろう。

 そこまで分かれば、対策は立つ。だてに神学を修めてきたわけではないの

だ。そういう場合は、まず相手の懐に飛び込んで――

 バルベロズは地面を蹴った。獣は落ちてくる。タイミングはばっちり。狙うは正中線上――と、その時、あちらこちらを見ていた三組の目が、揃って彼女の方を見た。そして、あろうことか、計6個の目が細められた。

 笑っていた。

 狙い通りと言わんばかりの表情だった。

 すでにバルベロンズの両足は地面を蹴ったばかりだった。高度はなくとも宙には変わらない。身動きが取れない。

 獣はなおも両腕を広げた。予備動作が大きくなれば、その後の動きにも時間ができる――しかしそれは、その圧倒的な上腕筋の前には些細な違いにしかならないのだ。ストレートではなく、ホールド。あるいは、圧壊。それこそが、その獣の戦略だったのだ。あの長い口は獲物を切り裂くためでなく、むしろあの長い舌が、潰れた獲物を舐めとるためのものだとしたら――

 バルベロンズは青ざめた。

 やはり日曜日のくせに、こうして曇ってしまったのが運の尽きだった。

 

 獣の両腕を留めていたものが外された。宙に引っかかっていたようなその逞しい両腕が、本来の力と速度を思い出す。爆発するような勢いで、グルッテン・ベルバロンズに迫る。

 その瞬間を覚悟した。

 バチンと目の前で大きな火花が散った。

 グルッテン・ベルバロンズは、それが命の終わりだと思った。ひとが死んでいる間は、意思なんてものもないだろうから、その光は命の終わりと同時に、最後の審判の後の世界の幕開けだとも思った。すべてが凝縮されたせいで、そのような青い、ラベンダーみたいな香りのする閃光が爆ぜたのだと思った。

 しかし違っていた。

「よかった、間に合った。――大丈夫ですか、お姉さん?」

 青い光の十字を背負って、ペリエ・トラウノスがそこにいた。 

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