タピオカの夜べ
友人が彼女とタピオカミルクティーなるものを飲みに行った、と言ったとき、正直僕は嫉妬した。そして危機感を覚えた。そいつに彼女がいたことが、ではない。彼女がいるのは前から知っている。僕に彼女がいないから、というのも違う。それはずっと前からそうで、ただ必要性を感じていなかっただけのことだ。
危機感――これが特徴的だった。
「で、味はどうだった」
「ただのミルクティーだった」と彼は言う。「タピオカが入ってるからって、全体の印象が変わるわけでもなくてさ」
「ブームなんだろ?」
「それでもさ」と彼は言いながら、ちょっと目を瞑ってみせた。その時のことを思い出しているのかもしれない。彼女と歩いた放課後のことを。
「なんであれが売れてるのか、いまいちわからない。でもさ、別によかったんだよな、どうでも、そういうのは」
「彼女と一緒だったから?」
「ひとに言われるとちょっと恥ずかしいな」と彼は苦笑して、そして頷いた。「でもその通りだ。そこまで刺激的じゃなくても良いんだよ。”たいしたことないね”ってあの子は言ったし、俺もそう思った」
それは実に幸せそうな顔だった。
僕にはどうでもよかった。
危機感を抱いたのは、そいつが僕といる時には見せたことのない幸せそうな表情をしている、ということではなかった。
全然違う。
“たいしたことない”――そういう日常性を共有してきたのは、今まで僕だった。
そのポジションが、奪われた。そのことについての危機感が強かった。
どうでもよいことを、たくさんやった。いざ数えようとすると、とたんに見えなくなってしまうようなこと。一つ一つは特別な出来事ではなかった。この印象は今でも変わらない。特筆すべきことなどなんにもなかったのだ。
たんに僕らは、帰り道の途中までを共有し、カラオケに行ったりハンバーガーショップに行って、くだらない時間を共に過ごしていただけにすぎない。特別な感情も、特別な感動も、何にもない。むしろ、ただ過ぎていく時間に耐えていた、という方が正しい。
黙っていたって、時間は過ぎて、僕らは成長したということになってしまう。そういう静かな社会的強制力を、僕らは共に浴びていた。ある種の境遇を共にする仲間意識とか、そういうものは何もなかった。そいつは特に何も語らなかったし、僕だってそうだ。
ただ、タピオカミルクティーを最初に飲むとすれば、それは僕のはずだったのだ。
だって、そんなにぶっ飛んだものでもなかったんだろ? 流れる時間と一緒じゃないか。だったら、そこにいるのは僕だろう。
おのれタピオカミルクティー。僕は密かに復讐を誓った。あいつは悪くない。あいつの彼女だって悪くない。ここには善悪はない。大丈夫、十分僕はわかっている――あいつの生き方は変容し、僕の在り方はそのままだ。ただそれだけ。しかし、そこにある差異に、僕は戸惑っている。これもまた否定し難い事実だった。
だから僕は、タピオカミルクティーを闇討ちすることにした。
・・・♪・・・
近頃このテリオカの街には、舶来物の嗜好品が出回るようになった。江戸であれば黒船、僕らの時代では角船――港にやってきたのは、とある嵐の夜。朝日が水平線から顔を出し、港を白い光で満たし、起きた人々がまず目にしたのは、角船の第一尖角が雲をくすぐっている姿だった。嵐は去っていた。しかし混乱が街を支配した。純然たる混乱、困惑。
誰もがはじめてみる船だった。
まあ、船は良い。
空に突き刺さる第一尖角の表面で、パチパチと光が弾けた時、街中に異邦人が出現した。これはもう出現、という他ない。人混みの中に、誰かのベランダに、サッカーグラウンドのど真ん中に、その他その他のあちらこちらに、突如として彼らが立っていた。一瞬前にはいなかったはずなのに、とみんなが証言している。
彼らは僕らによく似ていた。しかし頭の周りに、必ず液体を湛えていた。透明な袋に入っていたわけでもなく、無重力空間の液体の振る舞いのように、そこに浮いていたのだ。共通して、匂いはなかったが、しかし色はさまざまだった。そもそも液体なのかは、今になってもなおわからない。中には、形あるものを引っ張りだす者もいた。ただ流れるように振る舞うので、〈襟泉〉と僕らは呼んだ。
角船の民は、ところ構わず商業活動を開始した。平たくいうと路上販売、デモンストレーション。初めこそ、物々交換が基本だったが、一週間も立てば規模は拡大していった。交通は乱れ、職場や学校に遅刻する者が多くなった。そうなれば、市だって何か手を打たなければならない。
結局、角船に近い、港の一角に、彼らのバザールが開かれることになった。昔は競りの行われていたところ。そこが彼らの拠点になり、名の知れたのデートスポットになり、僕らが放課後、静かな時の刑罰を過ごす場所となったのだった。
名前を、カベリ・パタランタという。店の暖簾にもそう書いてあるのだから、大した自信家だ。異邦人のひとり。〈襟泉〉から、ティーなるものを汲みあげて、客に提供する。聞けばグレート・アングレやアンドにも似たものがあるという。彼は他のお仲間と同様に、時間や地理を超越して、そういうものを引っ張ってくることができた。
ティー。そんなものはテリオカの街にはなかった。飲みものといえば、井戸水か水道水か、雨という具合だ。しかしそういう時代も今は昔、厳密に言えば一月と二日過去。今や誰もがティーを知り、ミルクティーを知っている。
タピオカなるものが追加されたのは、今週のはじめからだ。当初こそ異物混入事件として、みんなが騒いだ。これが月曜日。角船の民が、チェストブレイクさせるべく、何かの卵を飲ませているのだ、とささやかれたのが火曜日のこと。そして水曜日、カベリ・パタランタは、地元の新聞社の協力を経て、街中に号外をばらまいた。
「タピオカの夜べ――あなたもタピオカをその手につかんでみませんか」
僕の友人とその彼女はこのイベントに参加したのだと言う。商業活動の妨げになりかねない根拠のない噂に払拭すべく、カベリ・パタランタが企画した、ちょっとしたセレモニー。もとより、角船熱に浮かされていた住民のことだ。多くがこの集いに参加した。
誰もが知りたがったのだ。タピオカの正体を。
「で、それはなんだったの」
「なんだったんだろうな」
「見たんだろ」
「見た。でも――お前、目の前にある物事のさ、どこまで自明だって言い切れるよ」
「哲学?」
「俺としては違う」
「趣味じゃないのは知ってるよ。でもじゃあなんなの」
「現実」
「哲学じゃん」
「いやだから違うって。でも、あれは現実だったんだよな。カベリ・パタランタが何をしたのかを俺たちは見た。実際に俺たちもやったんだ。それで活きの良いタピオカがゲットできて、俺たちはそれをミルクティーに入れて飲んだ。事実はそうだよ。でも、あれがいったいどういうことだったのか、なんでそんなことができたのか、俺にはわからなかった。誰にもわからなかったんじゃないかな」
「不安じゃない? そういうの」
僕はそういうわけのわからなさは、嫌いだ。
「まあなぁ」と彼は言う。「だからってのもあるな。俺が絶対確かだって思い出せるのは、それが”たいしたことじゃない”ってことと、その時、俺の彼女がいて、そういうのを共有したってことなんだよ」
それで十分だ、という風に彼は頷いた。
良い面だけを見て蓋をする、それがそいつの魅力でもあり、そいつ固有の魔法だった。そいつにかかれば、あらゆるストレスが軽減されるし、その気になればハッピーエンドにだってなる。だから僕は、彼と一緒にいるのが嫌じゃなかったし、その線で見れば、そいつに彼女ができたことだって頷ける。
しかしこれとそれとは別だ。
僕にしてみれば、あの角船の民がこの街にやってきて、〈襟泉〉から得体の知れないものを引っ張りあげ、商業活動を開始したことで、全てがはじまったのだ。あいつらは確かに、このテリオカの街に、いろんなものを与えたのかもしれない。しかし奪われたものだってあるだろう。時代の変化は常なるものかもしれないが、法定速度はあってしかるべきだ。やつらがそれを加速した――僕は置いてきぼりにされている。
やはり許すまじ、タピオカミルクティー。その謎は解明されねばならない。
チャイムが鳴って、教師が入ってくる。
「本日のデザート、古文でござい」とやけっぱちな声で彼は言う。
「待ちわびてたって顔だな」と先生は僕の友人を指名する。「今日はお前が在原業平だ。86ページから暗唱しろ」
「意味わかんねぇよー」
「わかってたまるかよ。いいからとっとと、あはれを感じろ」
僕は友人の在原業平を聴きながら、放課後の計画を立てることにした。今夜もまた、開催される「タピオカの夜べ」に向けて。
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