握力の強い妹
妹はアイドルだ。握手会があれば、兄である僕だって赴きはする。何しろデビューしたてだ。曲も一曲、iTunes Storeで120円、8cmCDのものだけだ。そりゃ並ぶでしょ。両親は賛成してないけど、がんばれって言いたいし。
しかし世界は広い。見てくれるひともいるんだなって思った。会場に近くに連れて、人の密度が増えていく。キャーキャー聞こえてくる。女の子の方に人気があるなんて、ちょっと意外。まあともあれ、みなさん、あれが僕の妹なんですよ、そして僕はあのアイドルの兄なんです、って言いたくなるのをぐっと堪えて、るんるん気分で歩いていった。途中、何度かパトカーやら救急車やらが通り過ぎた。物騒な街。しかしそこに我が妹、アイドル一年生が花と咲く。もはやこのポストアポカリプセの現代社会、ひとびとは生きるオアシスの夢を見ることになるだろうね。
並んでいるのがそれこそ女の子だったり、我が誇らしい妹の熱心なファンだったり、信徒だったりすればよかった。こういうからには違うという意味だ。やっとの思いで到着、し損ねた。いや到達なんかできっこないでしょ。会場前には救急車とパトカーのバリケード、それから青ざめた人々、スマホを掲げた人だかり。ちょっと待って通してください、その先に僕の自慢の妹がいるんです――そんな気持ちで、青ざめた。
アイドルなんてやめておけ、変なやつに絡まれるぞ、と父が言っていたことを思い出す。それが現実のものになるなんて想像だにしていなかった。そういう日がいつか誰かの元に来るとして、自分の妹に来るなんて思ってもいなかった。
ガラガラガラと、タンカーが運ばれてくる。呻いている男性が寝そべっている。被害者であるのは一目瞭然。悪いけど、今はそのひとには構っていられなかった。
妹、僕の妹は。
一心不乱で人混みを搔きわける。タンカーとすれ違いに走り込んだ。
つまづき、転がるようにして、僕は会場へ。後ろから警察か野次馬かは知らないが、「君、待ちなさい」と声をかけてきた。そうは言いましても、旦那様、ご覧の通りワタクシは転びましてございます。
「あれ、お兄ちゃん」と、頭上から。
この声に安心した。
いつもと同じ声音。
「ああよかった」と顔をあげる。見れば彼女は男の手を握っているところだった。厳密に右手だけ。多分、それは右手。具体的には憚られるけど、クシャっとなった元右手が、彼女の小さな手の平の中、一輪の花のように咲いていた。全然よくなかった。
「お前、なにしてるの」
「握手会だよ〜」のほほんと言う。「でも緊張しちゃって」
限度があるだろ、と僕は思った。
やりきった感がそこにはあった。
才色兼備、文武両道、どんなことにも手を抜かない彼女。常に自分の限界を試し、常に塗り替え、成長していく少女。それが僕の自慢の妹だ。
そんなんだから、学生のレベルを超越するのはあっという間だったし、それで周りを傷つけることを彼女は恐れた。だからこその、アイドル。歌って踊る分には、間隔は保たれる――それが最後のところで、両親が彼女にアイドルになることを賛成こそしないまでも、反対はしなかった理由だったのだ。
しかし、僕ら家族は、握手会という概念を知らなかったし、彼女が緊張するという可能性を忘れていたのだ。僕たちの中でも一番そういうものをコントロールできる人間だと、どこかで信じていた節がある。
「お兄ちゃんも来てくれたんだね」と妹は言った。「力、入れすぎちゃって」
「見ればわかるよ」
「手は抜かないってのが信条だったのに」と彼女は笑った。力の無い笑い方だった。
外からは拡声器越しの声が聞こえてきた。
「君たちは完全に包囲されている。今すぐ両手を上にあげて、出てきなさい」
妹は吹き出した。
緊張とストレスと罪の意識で、ちょっとおかしくなっていたんだと思う。
「"両"って、今三本あるんだけどなぁ」
「奇数は"両"って感じしないしな」
この妹にこの兄ありだった。よくなかった。父も母もここにはいない。今、この妹を助けることができるのは、兄である僕しかいなかった。
僕は妹の手をとって走り出した。
「ちょっと、お兄ちゃん、どこ行くの」
「監獄でないことは確かだけど、わからん」
「逃げる? まさか逃げるの?」
「とりあえず、今は逃げる」
「包囲されてるって言ってたよ。裏口なんてものも……」
「ないかもしれないけど、どうにかする」
するしかなかった。
「あるの、四本目」
「四?」
「奥の手」
こうなったら仕方がない、発明しまくるしかなかった。とりあえず、僕も彼女の兄として、家族の秘密を世間様に知らしめるしかなかろう。両親も僕も妹も、本当の自分を隠して生きてきた。人間らしく、人様に恥ずかしくないように。でも小さい頃から思っていたのだ、そんなの窮屈だ、思いっきり暴れてみたいって。
そうとも。妹の夢がこんなところで終わってたまるか。
だって、アイドルなんだぜ。
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