From the moon, with love

 アナログ時計の長針と短針がもっとも安らぐ時はと言えば、06:30に違いない。この時彼らは実にリラックスしているように見える。寄り添い、重なり合って、息を潜めている。

 こういう休息が、日に2度だけ許されていて、それ以外は、ずっとなんらかのテンションの中にあるわけだ。

 無論彼らは自由意志からそのような生活を送っているわけではない(とされている)。彼らを動かしているのは、スクリーンの裏に隠された電流生成器である。しかし、そのことを知っているのは、時計の針よりは自由な視点を持つ、僕らだけである。


 自由というのは、実は刹那的なものであり、過去であり、妄想の余地のようなものではないだろうか。

「俺は自由だ」と僕が言うとき、「自由」の持つ真実味は少し色褪せる気がする。「自由」という言葉が「何にでもなれること」であるとするならば、僕がこの瞬間を「自由」と呼んだそのときに、「自由と呼ばれる前の状態」には戻れない。

 一度読んでしまった本は、表紙から中身を想像していたときの豊かさを失ってしまうわけだ。

『そうかな』

 明確な声が耳の中で響き、僕は「しまった」と思った。ポケットの中の端末を操作し、拡張視界にアイコンを呼び出す。〈テレスピーク〉をオフにするのを忘れていた。

『オープンにしてるから、声かけちゃった』

『マナー的には黙っててくれるもんじゃないの』

『もしかして結構若い?』

『君と同じくらい』当てずっぽうだ。

『想像上のわたしはナイスバディかな』

声の彼女は僕の話をどこから聞いていたのだろう。ポイントは押さえているらしかった。想像力がコンテスト・バザーレを開催し、あちらこちらに像が立つ。全部彼女の像。一番巨乳で脚の長いものを選んだ。

『えっちなんだね』

『僕の心を読むなよ』

『そういう機能なんてないじゃん、〈テレスピーク〉。ただの発信専用だし……ま、あっても使うまでもないよね』

『男をよくご存知で』

『そういう生き物が好きなの。探偵とか、失せ物探しの子犬みたいなものが』

彼女がどんな顔で笑ったのか、僕には想像もできなかった。4と20の巨乳像は、全てがサモトラケのニケの影響を受けている。

『野良犬に話しかけるタイプ? 僕はこれからコーヒーを飲みに行くんだけど』

『<ヴァンサンス>ならこちらにもある。ちょっとお話ししてみない?』

ヴァンサンス・コーヒー。長い禁煙法時代の夜が明けて、一気に流行り出したコーヒー・チェーン。今では世界中に店を構えるが、ほとんどが地下にある。つまりなんのヒントにもならない。

『探し出して、とか言うんじゃないよな』

『まさか』また笑う彼女『ミッションは別。ちょっとした事件があって、その解決に力を貸して欲しいの』

『面白そうだね、ワトソン』

『残念、そうはいかない。あなたがワトソン。聞いて、リフレクトしてくれる人が欲しいの』

奇妙な話を持ちかけられている。

それでもどうしてだろう、彼女の話し方はどこか僕を引きつけていた。知らない街で、地図を頼りに目的地に向かう時のような……興奮があった。スリルとロジックのせめぎ合う波止場で、ただ僕は雑踏を切り分けていく、あの感じ。

『もう少し聞かせてくれよ。で、〈ヴァンサンス〉?』

『どこでも一緒。このまま話すつもりだし、その方が早い』

『慎重なタイプなんだ』

『そうかもね、ナンパ男さん。ーーでも、あなたがどんなに素敵でもここまで来られるとは思えないな』

笑う彼女。

『試してみなよ。どこに住んでる?』

チュッ、と音がする。

キス?

それから彼女は口を開き、僕は思わず空を見上げて、星々を誘拐していった犯人の姿を、東の錆びた街の合間に発見する。

あそこに、あの丸くて白い窓の向こうに、彼女がいる。


『From the moon, with love』と彼女は言った。

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