00. プロローグ集

織倉未然

二つの都市を歩く

 最近、よくベルリンの夢を見る。


 会社の喫煙スペースで一人煙草をふかしているときや、雨に濡れた夜の住宅街を歩いているとき――決まって孤独で、静かな時に――あの街の風景が浮かぶ。


 「浮かぶ」とぼくは表現する。

 しかしそれは、あくまでコロケーションの都合上そうせざるを得ないのであって、実態としては「投影されている」の方が近い。でも本当はまだ足りない。もっと自分の感覚に向き合えば――ぼくは、それを現実の風景であるかのように感じていることがわかる。

 このまま、吸いさしを灰皿スタンドに投げ込んで、小雨の降る中に歩き出せば――ラットハウス・シュティグリッツ駅の前に繋がるかもしれない――そういう予感があり、期待がある。


 道路の反対側に立ち並ぶ倉庫の横腹に重なるようにして見えている、その風景を、ぼくは「夢」と呼ぶしかない。ぼくは、自分が望んでいる以上に自分が〈ここ〉にいることを理解しているらしく、その一方で、その風景を「単なる思い出だ」と切り離せるほど、〈ここ〉を好んではいないらしい。

 できることなら、7年前のベルリンに帰りたいと願っている。しかしそれが叶わないことをよくわきまえてもいる。自分はもうどこにもいけないということを、ぼくの現実的身体は受け容れていて、その事実がぼくをこの灰皿スタンドの横に、雨の帳の眼前に縫いつけている。ぼくは自動的に煙草を口元に持っていき、煙を吸い、しばし肺に留め、やがて吐く――そのプロセスを繰り返している。

 もはや習慣になっているこの一連の動作も、あの街で身についたものだ。それまでぼくの体はニコチンなんてものをほとんど知らなかった。

 そして今、習慣だからには「だから」もないのだろうが、あえてそれを求めるならば、ぼくの無意識に残された〈ここ〉に対する反抗心のようなものが――その気体交換プロセスを呼び水に、7年前のあの歳月と〈ここ〉を接続しようとしているようだった。


 無自覚のうちに、ぼくは時を越えようとしている。そう考えてみれば、この感覚は、それがたとえ勘違いに違いなくとも、強くぼくの求めるところだった。


 正直なところ陰気くさい風景だ。

 Sバーンから地下鉄に乗り換えるまでの道、その脇にある中華料理屋、右にいけば高架線下に並ぶのは、ケバブスタンドやらドラッグストア、キオスク――あるいはそのまま直進し、地下鉄に乗り換えるのではなく、入り口を通り過ぎて、市役所ラットハウスの方へと向かえば、左右にシュロス通りが横たわっているはず……

 そういった都市の要素は、全て雨の中にある。どこもかしも雨のにおいがする。濡れたアスファルトを主香ノートにして、尿のようなにおいが混じっている。一瞬だけ都市の猥雑さを思い浮かべるが、それはすぐ雨に流されてしまい、残るのは通り過ぎる人々の姿だけが残る。

 影法師の群ファンタズマゴリア。それは必ず何者かであるはずだが、ぼくの知る者ではない。人型の向こうに彼らの人生は見えない以上、ぼくは彼らを群衆の一要素として見る、あるいは見流す。彼らの人生がぼくから隠されているからこそ、容易に想像もつかないからこそ、そして結局のところ無関心の対象であるからこそ――ぼくはこの街で安心感を得ることができる。

 雨の中にいて、ぼくのことを知っている者は誰もいなかった。ぼくだけが、ぼくのことを知っていたし、それがぼくの形をしっかり補強していたのだった。


 これは7年前の風景だ。ぼくの目の前に重なっているのは、あの一年間のどこかの時点だ。


 本当に時を超えたいのであれば、ぼくは雨の中に歩き出せば良い。一歩を踏み出しさえすれば、もう片方の脚も自動的に続くだろう。喫煙なんかよりももっと習慣になっているはずだ。二足歩行動物の矜持を見せてやれ――そんなことを考えるが、しかし、〈ここ〉にいる現実的身体は、一向に、動かない。


 ただ、眼前に広がる夢を見つめている。倉庫の横原にオーバーラップする風景の時間が停まっているように、ぼくの現実的身体もまた、時の流れに対して留保されている。今年の四月にはじまったこの刑罰は、不可視の首輪をぼくに巻きつけている。その首輪に繋がれた、見えない鎖はぼくを〈ここ〉繋留している。


 海を行かない船は死んでいるのと同じだと、昔の作家は書いていた。であれば、ぼくはほとんど死んでいるのも同然だ。"ほとんど"であるからには(だからこそ、瀕死の状況を語りうるわけだが)残り数パーセントのぼくが、まだどうにか生きているのも事実だった。


 乾季の樹木がわずかな水分を啜るように、ぼくは〈ここ〉で、何らかの要素を吸い上げていた。それらが、ぼくの現実的身体の裏で生き残っている別の身体で加工され、雨の中に掲示されているというわけだ。「7年前のベルリンの夢」として。


 突然、指の間に挟んでいた煙草が軽くなったせいで、ぼくの右手は跳ね上がった。目の前の風景に陶然としていたせいで、灰が落ちる程度の重さの変化に驚いたみたいだった。期せずして、目の前の風景に手を伸ばす形になった。

 今しかなかった。ぼくが〈ここ〉から歩き出して、雨を渡って時を超えるには、この勢いに乗るしかなかった。その先のベルリンが、たとえ7年前の時点で凍りついた、ぼくの記憶に他ならないとしても。たとえ、それが、ぼくの勘違いにすぎず、雨を渡ったところで、道路の反対側にある、倉庫の壁に、触れるに終わるのだとしても。


 ぼくはベルリンに帰りたかったのだ。当時は憎み、帰国を強く願い、今では逆に愛して止まないあの街へと。この気持ちは本物だ。嘘なんかついていない。現に雨は降っているのだ。アスファルトの濡れたにおいも、ちゃんとしているのだ。


 それでも、ぼくは煙草の吸い殻を灰皿スタンドに捨てた。ぼくではない。現実的身体の方が、勝手にそうしたのだ。時間はもはや凍結されていなかった。ぼくの体は小雨の壁に背を向けた。そうしてしまえば、もはや都市のにおいはしなかった。



 ベルリンの夢を見た。

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