わたしと私が生きてきた道。

@kinotomo

第1話 わたしの一番古い記憶

 わたしの一番古い記憶。

 それは冬の寒い時期。母と二人で湯船に浸かり、笑いあっている光景である。

 とても楽しかった頃の記憶。ぼろぼろの古い家だったため、風呂場は冷え切っていたが、お湯はあたたかくて心地よかったのを覚えている。

 あの頃の母はソバージュを当てており、子供ながらに大人の女性への憧れを抱いたものだ。わたしも大人になったら、母のように美しい女性になりたいと心から思っていた。

 いつも明るく綺麗で、友達の多い母は、幼いわたしの憧れだった。母が料理をするのを横で眺めていたり、一緒の布団で寝たり、時には母の使っているマニキュアを勝手に使ったりして叱られたり、4つ下の妹とおもちゃの取り合いで泣いたりすることもあったが、幸せであたたかい毎日だった。

 だが物心ついた時から、母と父がよく喧嘩をするようになった。

 もしかすると、わたしがあまりに小さくて分からなかっただけで、ずっと喧嘩の絶えない夫婦だったのかも知れないが、わたしにとって両親の喧嘩はとても不安だった。

 寝ていても飛び交う怒鳴り合いの声で目が覚めては、異様な雰囲気に怯えて泣いた。わたしが泣くと喧嘩も収まるので、わたしはまた安心して眠りにつく。そんな毎日だった。

 なぜ両親は喧嘩ばかりしているのか。もしかするとわたしのせいで何か不機嫌になったのではないだろうか。どうしたら仲良くしてくれるのだろうか。

 そんなことをよく考えていたのを覚えている。

 それからわたしは小学生になった。

 母は以前から内職をしていたが、それに加えてパートに出るようになり、家にいることが少し減った。

 学校が午前中までの日は、お昼に帰ってくる母をお腹を空かせて待っていた。母が帰って来ると一緒にお昼を食べるのだが、お昼ご飯のほとんどが、母のパート先のスーパーのお惣菜だった。それでもわたしは母と一緒にご飯を食べる時間が大好きだった。

 けれども、母の帰りが遅い時は、父方の実家に預けられることもあった。

 父方の実家では親戚の子とよく遊んでいたが、わたしはあまり歓迎されていないようだった。特に父方の祖母が母のことをよく思っていないようで、わたしにもきつく当たることがあったのだ。

 そんな時はいつも、父方の祖父がわたしの頭を撫でてくれた。祖父はとても優しくて、わたしが喜ぶことをたくさんやってくれた。自転車が壊れたことを知ってマウンテンバイクを買ってくれたり、お昼にお寿司をご馳走してくれたり、母に内緒で漫画を買ってくれたりした。

 でも一番嬉しかったのは、祖父の職場の軒下に、わたしだけのブランコを作ってくれたこと。わたしはいつも祖父に会いに行っては、そのブランコに乗って遊んでいた。手作りのブランコはよく軋むし、高さも斜めになっていたが、わたしにとっては大切な宝物だった。

 幸せな時間、大好きな祖父、憧れの母。

 だが小学2年になる頃には、家庭の中がしっかり見えるようになってきていた。

 父はいつもどこかへ遊びに行っては帰って来ず、帰って来たかと思えば母にお金を要求していたのだ。父はパチンコにはまっていた。もしかすると他のギャンブルにも手を出していたのかも知れない。

 仕事は土木をしていたが、すぐに休んだ。

 体調が悪いと言っては毎日のように休み、パチンコに出かける。

 仕事を休む際の連絡も自分でしなかったため、母が電話でよく謝っている姿が目に焼きついている。

「すみません、体調が悪いとのことで…本当にいつも申し訳ありません」

母は、泣きそうな声で、電話ごしで顔も見えない相手に向かって何度も何度も頭を下げて謝っていた。

 そんな姿を見ているのに、平然と出かけていく父が、わたしはとても嫌いだった。

 また、母がパートに出かけている時、生活費を隠している場所をわたしに聞きにきたこともある。

「お母さんがお金を隠している場所を教えて?それがないとお父さん困るんや…な?頼むから、はよう教えて?教えろって言ってるやろ!隠し場所知ってるのは分かってるんやで!」

父は、最初は優しいものの、わたしが黙っていると怒鳴った。

 それがとても怖くて、最後には教えてしまい、見つけた生活費の封筒を片手にまた父はパチンコへと向かう。

 暫くしてパートから帰宅した母は、生活費がなくなっていることに気付くと、わたしを責めた。

「なんで教えたんや!絶対に言うたらあかんて約束したやんか!もうあんたにも隠し場所言わんから!信じてたのに」

そう言う母の目は、涙をこらえていたように見えた。

 わたしは母の信頼を失ってしまったのかと、子供心に絶望感を味わった。

 それからもどんどん生活は苦しくなり、働かない父の代わりに母が身を削って働いていた。夜遅くまで、スタンドライトを点けて内職をし、昼間はパートに出る生活。働いても働いても、父に生活費を食いつぶされ、それでも母はわたしや妹を育てるため、必死で働いていた。

 母の髪のソバージュはいつの間にか取れてしまっていたし、伸び放題になった髪を後ろで束ね、洋服もあまりおしゃれではなくなっていたが、母自身そんなことは気にもしないかのように毎日忙しそうだった。

 しかし、ある時から父の様子がおかしくなった。

 最初に変だと思ったのは、これが始まりだった。

 ある日わたしと母が買い物から帰り、夕飯の支度を済ませて父の帰りを待っていたが、いくら待っても帰宅しない。待ちくたびれた母が、

「お父さんまだパチンコ行ってるんちゃうか。先にご飯食べてしまおう」

そう言われ、わたしたちは夕飯を食べ始めた。

 食べ終わると、母は洗い物をしに台所に立ち、わたしと妹は当時流行っていた少女アニメを見始めた。

 それから数分後、布団をしまってある押入れの襖がすっと開いた。

 びっくりして振り返るわたし。母も丁度洗い物を終えてこちらに来たところだった。

「あんた何やってんの!」

母が大声で言った。押入れから出てきたのは、父だったのだ。

「別になんもしてない」

父は言ったが、わたしと母は驚きのあまり何も言えなかった。

 どうして父が押入れから出てきたのか。そもそもわたし達が帰宅してから数時間経つのに、それまで物音を立てずにずっと隠れていたのはなぜなのか。この時の父の異様さに、頭は混乱していた。

 別の日には、背の高い洋服箪笥の上にテープレコーダーを仕掛けていたこともあった。掃除機をかけていた母がたまたま見つけ、それを手に取ると、録音されていることが分かった。

 父がパチンコに出かける前に、わたし達の目を盗んで仕掛けたのだ。

 父が帰宅すると、わたしと妹はテレビを見させられ、両親は台所で何やら言い合っていた。テレビから流れる音声などなにも耳に入って来ない。

 わたしは、両親の会話に耳を傾けた。

 どうやら父は、母が浮気をしていると思っていたらしい。その証拠集めのためにテープレコーダーを仕掛けたり、現場を押さえようとして押入れに隠れていたことが分かった。

 いつものように怒鳴りあう声。けれどわたしはいつの間にか、そんな両親の声を聞いても泣かないようになっていた。

 ただ込み上げるのは、怒りに似た感情。もどかしい気持ちや呆れともとれる思いだった。

 それからも暫く同じような生活が続く中で、母の言動が少しずつ変わっていった。

 わたしに対して、きつい言葉を遣うようになっていったのだ。

 些細なことでも本気で怒り、時には1円ブスと蔑まれた。1円ブスとは、それ以上崩すことの出来ないくらいのブスだということらしい。笑顔で怒りながら、わたしをそれだと言う母に、わたしも反抗したが、内心ではとてもショックを受けていた。

 なぜ母にそんな酷いことを言われなければならないのか。なぜこんなにもわたしに怒りを向けているのか。理解できなかった。

 時は流れ、わたしは母と妹の3人で、母の実家に行くことになった。

 母の実家はとても遠く、田舎なので嫌だったが、少しの間だろうと思っていたので我慢して付いて行った。

 田舎の家にいる間、何度も父と、父方の祖父母が訪ねて来ては、話し合いをしていた。大人たちが話し合いをしている間、わたしと妹は、大人の話だから外で遊んでおいでと追い出されていた。

 外で遊びながらも、わたしは大人たちが話している内容が気になって仕方なく、一体なんの話をしているんだろうとばかり思っていた。

 そうしてしばらくの後、両親の離婚が決定した。

 父は泣きながら、お前たちともっと一緒に居たかったと言った。大好きな祖父も、泣きながらわたしに住所を書いた紙を渡し、痛いくらいに抱きしめながら、いつでもいいから手紙を書いて欲しい、忘れないで欲しいと言った。

 いつもにこにこ笑っていた祖父が泣くのを、初めて見たこの瞬間、わたしはもうこの人たちとは会えないんだと悟った。

 その瞬間、わたしは大声で泣いた。

 今までなんとも思わなかった父にさえも、これからは会えないんだと思うと、無性に寂しさが込み上げてきて、泣いた。

 当たり前に過ごして来た日常がもう二度と戻らないんだと分かり、例えようのない悲しみと不安がわたしに襲い掛かる。

 泣きじゃくるわたしを置いて、父たちの乗った車が走り去り、見えなくなってからも、延々と泣き続けていた。

 それからわたしはこの母の実家である田舎の小学校に転校し、新しい生活を送ることとなる。

 この時わたしは、何があっても母を支えていこうと心に誓ったのだった。

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