ウィル 1-3 寄港


 地の底で巨大な獣が惰眠を貪っているかのような独特の駆動音は、〈幽霊船〉に住む者なら誰しもなじみ深く思っていることだろう。

 外から来た者ではなく、船で生まれた世代であればなおのこと、誇張なく子守歌がわりに聞いて育ったといいきってもいい。

 あまりにも日常に根づいているので、それが鳴りやむ瞬間は、まるであらゆるものが凍りついてしまったかのように錯覚してしまう。

 しかし、すぐに船内は祭のような喧騒に取って代わられる。

 駆動音の停止はすなわち、船がどこかのに到着したことを示しているからだ。


 昨夜、ニーニヤは予定していた行き先を急遽変更した。

 もしも着いた先がはじめて立ち寄る世界なら、彼女の愛してやまない未知の品が運び込まれてくるのは確実だろう。

 出発前のひと悶着は、もはや恒例行事といってもいいので、さほど水を差されたとは当人も感じていないらしい。羽根の生えたような足取りで門から飛び出したニーニヤは、そこでいきなり両手で顔を覆った。

「ぎゃあああああああ! 目が! 目がアァァァァァ!」

 門の外は、書物を保存するために光量が調整されている敷地内の何倍も明るい。そのうえ蝙蝠人バッティストであるニーニヤは、体質として光の刺激を他種族よりはるかに強く感じてしまうのだ。

「はいはい。毎回それやらないと気がすまないわけ?」

 ため息をつきながら、ウィルはニーニヤの頭につば広の帽子をかぶせた。

「いやあ、この肌と網膜を灼かれるような痛みは、ちょっとクセになるんだよ」

「変態なの?」

「気合を注入するようなものだと思ってくれたまえ」

 わかるようで、よくわからない理屈だった。


〈幽霊船〉の甲板上に築かれた居住区は、無数の建物がでたらめに積み重なったような外観をしている。

 部分的にはハチの巣のようだったり、塔のようだったり、神殿のようだったりもするが、およそ様式も建築技法もばらばらで、なんらかの法則性を見出すことは不可能といっていい。

 数万人とも数十万人ともいわれる住民が、各々の世界でのやり方で好き勝手に家を建てていったのだから、そうもなるだろう。

〈図書館〉の建っている区画は、居住区の中心からだいぶ左舷寄り。高さはだいたい中の下に該当する六層から八層のあたりになる。階層の数字が曖昧なのは、建物の高さがまちまちなので、明確にここが第何層だということができないからだ。

 住民の暮らしは、階層を下るほど貧しくなるのが一般的で、このあたりの建物も、ほとんどがみすぼらしいものばかりだった。

 まず左舷側に進んでから、木製でぎしぎし軋む階段を降りて甲板を目指す。ウィルはニーニヤと並んで歩きながら、油断なく周囲に目を配った。比較的安全な区画であっても、いつなにが起こるかわからないのが〈幽霊船〉である。

 居住区を歩いていて思うのは、実にいろんな連中がいるということだ。

 獣と人が混じっている程度では珍しくもなく、虫や魚、植物だとか、どう見ても半分機械だろ、というような見た目の亜人もたくさんうろついている。

 醜い者も、美しい者も――中には、言葉は喋るけれども人の姿をしていない者さえいて、ペットかと思っていたら、いきなり話しかけられてびっくりする、なんてこともあった。

 ここではウィルのような、まったくふつうの人族など、むしろ少数派なのだ。

「よう、ニーニヤちゃん。元気かい?」

「晩飯頃にまた来なよ。ごちそうするよ」

 よく通る道には顔なじみも多い。明るく物おじせず、しかも器量よしのニーニヤは、なかなかの人気者だった。

 一方で、彼女のうしろにくっついているウィルには誰も声をかけない。金魚のフンだと思われているか、そもそも認識すらされていないのか。

 いつだってそうだ。誰にも顧みられない、無力でちっぽけな、ただのガキ。所詮はひと山いくらで売られた身だ。

 奴隷商人の倉庫で、おなじような身の上の子供たちといっしょに、不潔な檻に押し込まれた記憶。抗議の声をあげれば鞭で打擲され、動物以下の扱いを受けた。

 売られた先では、すこしはマシな生活ができるかと淡い期待を抱いたが、それもすぐに裏切られた。

 ウィルに将来性がないと判断した飼い主は、鼻をかみ終えたちり紙を捨てるように、彼を路傍に放り出した。

 そのあとのことは思い出したくもない。

 這いずるようにして見知らぬ街を延々さまよい、ゴミを漁り、泥水をすすった。

 食べ物を盗んでつかまり、散々に殴られて何日も呻いてすごしたこともある。気力も尽き果て、死が近いと自覚したときは、むしろこれで楽になるとさえ思った。

 そのとき、倒れていた場所が〈図書館〉の庭だった。

 いったいどうやって入り込んだのか。

 ともかくも、そこで彼女に出会ったのだ。


「ウィル!」

 弾んだ声がウィルの思考を現実に引きもどした。

 駆け出すニーニヤの背中が見えた。甲板に着いたのだ。

 空を見るのは久しぶりだった。

 世界ごとに異なる色をしているのがふつうだが、やはりもっとも多いのは青系だ。この世界の空は、ウィルの元いた世界によく似た、明るい水色だった。

 潮の匂いが鼻をつく。甲板はおそろしく広いため、ウィルのいる場所からは舳先も船尾も遠く霞んで見ることはできない。

 荷役はすでに始まっており、肌脱ぎになった大勢の人夫がいそがしく立ち働いていた。その周囲には憲兵隊の姿もあった。彼らは青のジャケットに白い軍袴。腰にはサーベルを佩き、険しい目つきで周囲を警戒している。

 憲兵隊は、船内の治安を守る組織で、〈幽霊船〉の正規クルーでもある。どこかの世界に到着したときには、こうして彼らがやってきて、人と物の出入りをチェックする。

 特に病原菌の持ち込みには厳しく、消毒薬入りのボンベを背負った検疫官に指示を出し、外からやって来たすべての生物と物資を消毒するといったこともおこなう。

「ちょ、ちょっと待ってください! 薬は困ります! これはナマモノなんですから!」

「そいつがいちばん危険なんだ。……やれ!」

 銀色のボンベを背負い、防護服とゴーグル、マスクで全身を覆った検疫官が、手にした管の先から消毒薬を吹きつけた。木箱に詰められた異世界の果物が、たちまち白い粉で埋めつくされる。

 商人風の男は、木箱の前で膝をついた。おおかた、異世界の物品は高く売れると聞いた新しい住人だろう。儲かるという話自体は間違いではないが、モノは選ばないとこういう目に遭う。それに、近場で入手できるような品ならどの道たいした値はつかない。

 消毒を命じた憲兵は、ひと際人目を惹く容姿をしていた。

 黄金の滝のような髪に、一切の無駄を削ぎ落としたかのような細身の身体。隊長の印である厚手のマントを羽織り、白い手袋を嵌めた手を腰に当て、怜悧な美貌を不機嫌そうに歪めている。

 ぐ、と踏み出しかけていたウィルの足が止まった。

「どうしたんだい、ウィル」

 もどってきたニーニヤが、ウィルの視線をたどって「ははぁん」と呟く。

「今日は隊長さん自らお出ましかぁ。もしかしてウィル、あの人の洗礼を受けたのかい?」

 ニヤニヤと、実に愉しそうな顔をしているのが腹立たしい。

「……いや、受けたのは主に、おれの最初のご主人様なんだけどね」

 これもまた、あまり思い出したくない記憶だ。

 渋面を作り、ウィルは語って聞かせた。

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