二十六  それ、困るから。



 早緑さみどりに「今夜、浮気してくる。」と、本当でも嘘でもないことを言ったら、早緑は生真面目に、余所よそ行きの服をそろえてきた。裾を折り曲げて履く黒のスキニーパンツ、ブルーの半袖シャツ、高くはないが安くもない銀色の腕時計、早緑曰く「ユウが洒落っ気に乏しいと思われるのも嫌だから。全く世話の焼ける男。」だ、そうだ。

 早緑を早めに帰した後、せっかく揃えてもらった服をお披露目の前に汗で汚すのもためらわれたので、僕は三度みたびタクシーを呼んだ。後部座席にふわと漂うタクシー独特の匂いの中で、僕は「T駅の東口まで。」と素っ気なく伝えた。そのまま黙って窓外そうがいに目でも向けていればよかったのだが、どうにも落ち着かない。僕はこの夏を裏返して書くと決めた。南水みなみには愛がある、すなわち、愛を裏返した南水を書かなければ、僕の言霊は完成しない。もはや会わねば、何もかも足りない。僕は裏返しに行くのだ。愛をそこに見ながらも。

 緊張を解くために、タクシーのドライバーに要らぬ会話を振った。「こう暑いと、やはりお客さんは増えますか。」夏は続く。僕はまだ季節の終わりを見ていない。ドライバーは気さくな調子で話に応じてくれた。「やっぱり、増えますね。でも、あんまりに熱いと、逆に減るんですよ。」「どうしてですか。」単純に疑問に思った。今日もまた、やはり暑く、酷暑と言って差し支えない。夜の八時半を回っても趨勢すうせいは明らかで、暑気が潰走かいそうなどするものか。冷房の効いた車内に逃げ込みたくなるだろうに。「酷く暑いと、そもそも外に出る気にならないんでしょうね。」と、聞いてみれば得心がいく話だった。

 東口のロータリーで車を止めてもらい、金を払って外に降り立ってみれば、シャツを脱いでタンクトップに着替えたい衝動に駆られた。やはりこの夏はどうかしている。じめりとした外気が服をすり抜けて肌にまつわりつく。

 T駅の外観は質素だが、乗降客数は多い。徒歩ですぐ隣の駅に乗り換える者が絶えず、往来に人の流れを成していた。繁華街もすぐ眼前にあり、これから街に繰り出そうという者もまた多かった。ここにも夏の呼吸がある。人の熱がある。僕はそら恐ろしくなった。こんなにも生きている季節を書き切ろうというのか、お前は。駅前は静けさを知らず、雑多に音を吐き出し、せいのざわめきが絶えず、各々の命を剥き出しにしてある。夏の湖と対極にありながら、同じ夜空の下に。しかし書けるだろう。大楠おおくす結真ゆうまなら、いともたやすく、その対称性をひとつの点に収めてしまえるだろう。その程度なら。

 待ち合わせ時刻まであと五分あったが、南水が僕を好んで待たせるとは思えなかった。ただ、僕が出てくるとしたら、タクシーの車内からではなく、T駅の東口からだと思っているだろう。煌々こうこうとした街の明かりのもとで、僕は南水が好んで待っていそうな場所を探した。頂点に近しい位置で結われた、肌よりさやかな金髪は、雑然たる種々しゅじゅが行き交う街にあっても目立った。コンビニでマンガを立ち読みしながら、ちら、ちらと東口に目をやる南水の姿があった。ガラス越しに目の前に立つと、ついと驚くふうになった南水と目が合った。

 コンビニを出て僕と落ち合うなり、南水は嬉しそうにせず、むしろしかめ面で、「他の女の匂いがする。」そう言った。新品の服に早緑の匂いが移ったとは考えられなかった。南水は続けた。「結真があたしに気を遣ってお洒落してくるなんて天変地異、ある?」今となっては、どうとも言い難い。「勇奈いさなでも花凛かりんでもなさそう。他の女の入れ知恵って感じ。」ともあれ、南水は真っ先に正答を得ていた。

 南水は残念がるふうにカーキ色のバッグをぶらぶらとさせた。「せっかく、シンプルにコーディネートしてくるであろう結真に合わせて買ったのにさ。台無し。」と言うので、僕はさっそく愛を裏切ったらしかった。ホルターネックのトップスは白で、南水の背中を半ばまではだけさせている。ミニ丈の巻きスカートはアッシュグレー、サイドには飾りの編み込みがあった。僕の身長に近しくなるミュールは紫で、左耳だけに通したピアスもまた紫だ。「本当にシンプルが並んでも面白みがないから、ちょっと飾りっ気を混ぜて、って、解説させないでよ。」「僕は何も聞いちゃいないぞ。」こうした軽いやりとりに、どこか安心感を感じた自分は確かにいた。

 色彩のある街の明かりが、南水の表情をまだらに照らした。南水の表情に、涙顔がふっと覗いた気がした。「どこに行って、何をしようか。あたしたち、いつまで経っても両思いになれないみたいだし。」僕が僕である限り、南水に愛しているとは言えない、僕が僕でない限り、南水は僕を愛せない。その平行線上にあって、僕は何を言えばいいというのだろう。その平行線上の対岸はどこに行き着くだろう。

 僕は猶予が欲しくて「少し歩こう。」と言った。南水は「腕組んでいい?」と聞くのだが、すぐ自ら首を横に振った。「やっぱやめとく。結真、困った顔するの、うまいね。」僕は南水を前にして、否定の言葉ひとつ探せずにいる。「どうせ面倒なことになってるんでしょ。いいよ。話してよ。いつもみたいにさ。」僕は南水に甘えるしか知らない自分をそこに認めた。


 南水の感想は、「睦人むつとさんに聞いて知ってたけどさ、結真、本っ当ぅにたち悪いね。」だった。電車が明かりを吐いて行き過ぎる。線路沿いの道を選んだのは、騒音に声が紛れる間、ささやかに休憩ができると、そのことだけだった。電車が通り過ぎて後、南水は加えた。「ま、結真があたしに愛を見たっていうなら、悪いだけの話でもないけどぉ、限度あるよね?」苦言が刺さる。反論するすべは知らない。結局僕は、南水を前にすると、気付けば洗いざらいを話している。

 やや諦めた面持ちで、南水は言った。「結真、別れ話がしたくて来たんでしょ。それ、困るから。」街灯に蝉が不毛な体当たりを繰り返すのは、この街でも同じだった。早緑の選んだシャツが肌に張り付く気配を見せた。それもまた、早緑の言う夏の情緒じょうしょかもしれない。「困ると言われても、他に話題がないんだ。」南水の瞳がぎらりと意力を持った。「嫌だって言ってるんじゃん!」バッグを握る南水の指には、憤りと共に力が込められた。バッグはゆらめき、その向こうにある影もまた揺れる。複数の街灯に照らされたそれは、複雑な動きを見せた。

 先程とは逆の向きから電車が迫る。騒音だけが、僕たちの会話に静寂しじまを作る。通り過ぎる明かりが南水の顔を断続的に照らす。ふとした拍子に涙は零れる。両眼から一条ひとすじずつ、南水の頬を伝う。そのまま見つめられて時が過ぎる。騒音が通り抜け、次第に去り行く。南水が口を開く。「あたし、そんなに優しくなれないよ。結真には当然のことかもしれないけど、愛があるのに! だって、愛はここにあるのに!」南水は僕に迫り、少しだけ南水の顔は角度が上向いて、僕にキスをしてから、「あたしが誰に愛を見るか、当ててみてよ。」そう言った。僕は何も答えられなかった。

 気の抜けた調子になって、南水は嘆息した。「あー、疲れた。部活の試合があって、その後ここに来てるんだよ。ミュールだし、あんまり歩かせないで。」僕は返す言葉をあえて間違い、「勝てたのか?」と問うた。「圧勝。」と南水は誇ってから、「そこに都合の良い看板があるの、見える?」と聞くので、南水の視線を追った。ラブホテルの看板だった。「書くための予算、あたしのためには使ってくれないなんてこと、ないよね。」と畳み掛けられるので、僕に逃げ場はないらしい。


 いかにもラブホテルらしい、派手な内装の部屋だった。もっと落ち着いた雰囲気の部屋を選びたかったが、生憎ほとんど満室という具合で、選びようがなかった。空調がすっと肌とシャツの間を通り抜けた。南水はバッグを掛けてから赤のソファにもたれると、マルボロメンソールに火を付けた。僕も隣に座ると、叔父からもらったセブンスターをくわえた。「はい。今日はしてあげない。」と、ライターを差し出す南水から言われるのは、煙草に火を付けてくれるかどうかの話だろう。拗ねるのも当然だと、僕は黙ってホテルのライターを受け取り、火を付けた。「あたしはあたしだよ。有友ありとも南水。反対側なんてない。結真に捨てられたからって、それで変わると思ってるの?」南水の指は震えていた。「反対の岸辺から、変わらなかった南水を書くさ。」「頑固者。」「どっちが。」僕とて落ち着きはしなくて、さして溜まってもいない煙草の灰をひとつ落とした。南水もまた、震える指で、煙草の灰を落とした。「いいの? 愛はここに――」南水はひとつ頷いた。「――ううん、確かめようか。愛はあるのか。どんな愛がここにあるのか、ってこと。」




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