二十六 それ、困るから。
早緑を早めに帰した後、せっかく揃えてもらった服をお披露目の前に汗で汚すのもためらわれたので、僕は
緊張を解くために、タクシーのドライバーに要らぬ会話を振った。「こう暑いと、やはりお客さんは増えますか。」夏は続く。僕はまだ季節の終わりを見ていない。ドライバーは気さくな調子で話に応じてくれた。「やっぱり、増えますね。でも、あんまりに熱いと、逆に減るんですよ。」「どうしてですか。」単純に疑問に思った。今日もまた、やはり暑く、酷暑と言って差し支えない。夜の八時半を回っても
東口のロータリーで車を止めてもらい、金を払って外に降り立ってみれば、シャツを脱いでタンクトップに着替えたい衝動に駆られた。やはりこの夏はどうかしている。じめりとした外気が服をすり抜けて肌に
T駅の外観は質素だが、乗降客数は多い。徒歩ですぐ隣の駅に乗り換える者が絶えず、往来に人の流れを成していた。繁華街もすぐ眼前にあり、これから街に繰り出そうという者もまた多かった。ここにも夏の呼吸がある。人の熱がある。僕はそら恐ろしくなった。こんなにも生きている季節を書き切ろうというのか、お前は。駅前は静けさを知らず、雑多に音を吐き出し、
待ち合わせ時刻まであと五分あったが、南水が僕を好んで待たせるとは思えなかった。ただ、僕が出てくるとしたら、タクシーの車内からではなく、T駅の東口からだと思っているだろう。
コンビニを出て僕と落ち合うなり、南水は嬉しそうにせず、むしろ
南水は残念がるふうにカーキ色のバッグをぶらぶらとさせた。「せっかく、シンプルにコーディネートしてくるであろう結真に合わせて買ったのにさ。台無し。」と言うので、僕はさっそく愛を裏切ったらしかった。ホルターネックのトップスは白で、南水の背中を半ばまではだけさせている。ミニ丈の巻きスカートはアッシュグレー、サイドには飾りの編み込みがあった。僕の身長に近しくなるミュールは紫で、左耳だけに通したピアスもまた紫だ。「本当にシンプルが並んでも面白みがないから、ちょっと飾りっ気を混ぜて、って、解説させないでよ。」「僕は何も聞いちゃいないぞ。」こうした軽いやりとりに、どこか安心感を感じた自分は確かにいた。
色彩のある街の明かりが、南水の表情を
僕は猶予が欲しくて「少し歩こう。」と言った。南水は「腕組んでいい?」と聞くのだが、すぐ自ら首を横に振った。「やっぱやめとく。結真、困った顔するの、うまいね。」僕は南水を前にして、否定の言葉ひとつ探せずにいる。「どうせ面倒なことになってるんでしょ。いいよ。話してよ。いつもみたいにさ。」僕は南水に甘えるしか知らない自分をそこに認めた。
南水の感想は、「
やや諦めた面持ちで、南水は言った。「結真、別れ話がしたくて来たんでしょ。それ、困るから。」街灯に蝉が不毛な体当たりを繰り返すのは、この街でも同じだった。早緑の選んだシャツが肌に張り付く気配を見せた。それもまた、早緑の言う夏の
先程とは逆の向きから電車が迫る。騒音だけが、僕たちの会話に
気の抜けた調子になって、南水は嘆息した。「あー、疲れた。部活の試合があって、その後ここに来てるんだよ。ミュールだし、あんまり歩かせないで。」僕は返す言葉をあえて間違い、「勝てたのか?」と問うた。「圧勝。」と南水は誇ってから、「そこに都合の良い看板があるの、見える?」と聞くので、南水の視線を追った。ラブホテルの看板だった。「書くための予算、あたしのためには使ってくれないなんてこと、ないよね。」と畳み掛けられるので、僕に逃げ場はないらしい。
いかにもラブホテルらしい、派手な内装の部屋だった。もっと落ち着いた雰囲気の部屋を選びたかったが、生憎ほとんど満室という具合で、選びようがなかった。空調がすっと肌とシャツの間を通り抜けた。南水はバッグを掛けてから赤のソファにもたれると、マルボロメンソールに火を付けた。僕も隣に座ると、叔父からもらったセブンスターを
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