二十二  地球に飽きたら、



 夏はたける。僕が二社からウィークリーマンションの鍵を受け取る頃、まだ午前であったのに、鶯色うぐいすいろのシャツのうちですっかりと体は火照った。しかし叔父はずいぶんと高級な部屋を取ったものだ――もっともそれは、叔父が自ら賃料を払うつもりでいたから、だ。

 叔父の取ったウィークリーマンションの二室は、どちらも一等地からやや離れた2LDKで、閑静な場所にあった。そのうちの一室に、僕と早緑さみどりはいる。シンプルなデザインで、いずれも洋室だった。早緑は六畳の寝室を占領し、早くも机に問題集とノートを広げていた。ボーダー柄の緩いシャツにバックルの付いた幅広のベルトを高い位置で合わせ、黒いレース素材のロングスカートを穿いている。勉学に励むためだけの服装でないのは明らかだった。「勉強はするけれど、ユウの手伝いもするわけだし、まさか、抱かないなんて言わないでしょうね?」と、釘を打たれた。「執筆の合間の気晴らしにされて満足か?」と問うと、「結構。」と、返される。さすが、僕の将来設計に組み込まれるだけのことはある、とは言わなかった。

 もう一室の2LDKには、すでに勇奈いさなを案内していた。今頃ひとり、デスクに新しいノートパソコンを広げて執筆でもしているだろうか。部の冊子に載せるはずだった作品はすっかり没にしてしまって、今から恋愛小説を書き始めるのだと言っていた。僕は「また来る。」とだけ言い残した。それは当座の懸案がなくなることを意味した。

 僕は僕で、早緑がいない方の四畳半で、デスクにノートパソコンを開き、いざ執筆をせんとする所まで画面を進めていた。これから書き始める。反転の世界を、文字だけの世界で描ききる。つと、目の前を面影がよぎり、懸案ではなくとも、僕は意図的に意識を遣るのを避けている人物について思い知らされるのである。

 南水みなみのことだ。

 意識のうちで、ふわりと、無理に脱色した金髪が揺れる。

 愛に似た何かがそこにあるならば、僕はそれを

 裏切りきれるものならば。

 取り返しがつかなくなるまで、書き終えるまで、僕は愛に近しい何かを裏切り続けていられるだろうか。最も労りに近い何かを、かなぐり捨ててしまえるだろうか。早緑を選び、勇奈と食らい合い、僕の惰弱な生は、それに耐え得るだろうか。

 けれど、僕は書く。

 デスクに座り、キーをタイプしていく。僕が僕の神でいられるうち、最後の小説を、たかが文芸部の引退に際するだけの作品を、この夏の全てを裏返した物語を。僕は書く。言葉は踊る。そう、出だしは曖昧に、次の段はスタッカートで、次いでテンポを乱し、虫螻むしけらの言葉に虫螻の言葉を継ぎ、廉潔れんけつを打ち遣り降り増さる。簡単だろう。塵芥じんあいの語句に塵芥の語句を足し、非情な夏を瑰麗かいれいなものへと装い、陽光にう。泥土ういじが連なるような鈍い言葉でもって、さあ、種はすぐには明かさない、夏は非道ではないさ、そうだろう、僕は奇術を探り、涜聖とくせいを忌み、そう、夏を描くんだ、その先にある夏の言霊を抉り出すんだろう。僕は書く。どうせ空言そらごとばかりの連なりでも、たとえ誰ひとり騙すことができなかったとしても、僕の神が命と認めればいい僕のたち。打鍵は絶え間無く、命を注ぐなんて馬鹿らしいことはせずに、ただ神に従えばいい、お前の書くものであれ、ああ、なんて簡単な! 血の気が引く、意識は僕に問い掛ける、道は間違っていないか、間違うものか、こちらが一本道で、あっちが行き止まりだ。そう、ただひとつ、たったひとつ、愛に近しい何かを置き忘れてきていることを除けば、こちらが一本道で、あっちが行き止まりさ。書くだろう。お前の言葉がお前の言葉でありさえすればいい。打鍵の音は切れ間無く、命を絞ることもなく、大楠おおくす結真ゆうまは天才だと誰かが言った、光を削ぎ落とす、一文に変えて、また光を削ぎ落とす、一文に変えて、僕は神に従う。盲従の果てにあるものがただ命でありさえすれば良い。僕が望んだ命でありさえすれば良い。テンポを落として、さあ、陥穽かんせいをひとつ用意して、飛躍して、夏の陽光をもぎ取って、一文に一文を連ねるゆるがせの生に脅えさえする祈りにも満たない欲の果てに書き上がるものが涜神とくしんでなければ虫螻は喜び夏の言霊はひたすらに追い求められる。



 早緑に淹れてもらったホットコーヒーを飲みながら、僕はぎりぎりの綱渡りをしている。全霊を込めれば、安全な橋ばかりを渡ってはいられない。自らの語彙の端を爪折るように言葉を拾い、文章の作法の隙間を無理に通して言葉を接着させて、一語ずつ、一文ずつ、一段落ずつ、夏の言葉は終幕に向けて追い詰められていく。

 気づけば陽は落ちていた。書きかけの小説を上書き保存し、SDカードにバックアップを取ってから、パソコンを閉じる。今まで存在を忘れられていた照明のスイッチを入れても、まだ僕は僕の世界から戻れない。頭の中で、先程まで書いていた文をそらんじ、続きの世界を思い描く。反転の夏は嘘吐きだ、だから僕は種明かしをしなくてはならない。まだ達してはいない。今は嘘を嘘のまま描き、ひっくり返すのはこれから。僕の意識が部屋中に浮いているようで、しかし休息は挟まねばならないと考えた。

 リビングを抜けて、ノックもせずに早緑のいるベッドルームへと入った。早緑は熱心に英語の問題を解いているところだったが、こちらに目を遣ると「そろそろシャワーを浴びてもいい頃合い?」と、問うた。僕は「好きにすればいい。」と返すにとどめた。

 早緑は気分を害する様子なく、せっつくのでもなく、疑問を僕に向けた。「ねえ、本当に、天才なんてものはいるのかしら。」「僕がそうなんだって話なら、聞き飽きてる。努力を説く話ならそもそも聞きたくない。」早緑はペンを置いた。「私にはユウが獣に見える。あるいは、ひとりの登山家と、でも。」僕はベッドに腰掛け、早緑は椅子をいったん持つと、向きを変えて置き直した。気晴らしが要るとして、僕の側からは、それは交わることでも意見交換でもかまいはしなかった。「まず解説をくれないか。」と問うと、「あるいは人間。」と、早緑は的確な答えを返さなかった。

 早緑は解説を寄越さない。「私にはどうしても、ユウがくだらないひとりの人間に見えて仕方ない。」反論する気は起きなかった。ようやく、補説らしきものが挟まれた。「天才はいる、けれど、自らを追い求めれば求める程に、くだらない獣になっていく。ただの登山家、あるいは人間。」「わからないな。」僕の言葉は無視されて、「シャワー、浴びてくるわね。」早緑はそれを言って、自分のキャリーケースからバスタオルを取り出すと、浴室へと向かった。ベッドの上には、近場のスーパーで買ったらしいバスタオルと寝間着が畳まれている。何も持って来なかった僕の分だろう。僕の財布は早くに早緑に預けていた。「くだらない人間か。」僕は僕の神さえも踏みにじられたような気を味わったが、それで悪い思いはしなかった。早緑はいつも正解しか言わない。それでも僕は僕の神に従う。だからこそ、なのか。


 口に貼っていたガムテープを剥がすと、「言葉が巧いから、煽るのが上手。」と、早緑は僕を称えた。済ませた後の悪戯にと、僕は早緑の肌に触れるのみならず、胸をつねってみて、それなりの力を込めたはずが、早緑からはくすぐったがるような反応しか返ってこなかった。試しにと秘部も同様に抓ってみるが、やはり反応はくすぐったがるふうだ。針の痕の多く残るももに触れて、やっとそこで、早緑は感じたと蠢いた。僕は早緑の両手首を拘束していたタオルを解いた。

 互いに裸体を晒し、毛布もかけずに横たわった。僕は片肘を枕にしてから、「それで、僕が目指しているのはどんな山なんだ?」と尋ねた。「さあ。私は山には詳しくないから。」と、早緑はつれない。「K2か、エベレストか、例えてみるくらいはできるだろう。」早緑は首を横に振った。「やっぱりそれはわからない。ただ、K2にもエベレストにも登ったら、きっとユウは、火星の山を登りに行くわ。それはわかる。」火星には確か、エベレストの三倍近くにもなる山があったはずだ。「僕はどこかで死ぬらしい。」と、僕はそんな結論しか導き出せなかったのだが、早緑の答えは違った。「生きるために行くのよ。だから獣なの。そこにしか餌が無いから。」「僕が、今回の作品で僕の神を捨てようとしているとしても?」会話はまるで繋がっていなかった。それでも早緑は応じてくれた。「きっと行く道が変わるだけ。ユウは地球に飽きたら、火星まで行く。」




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