二十二 地球に飽きたら、
夏は
叔父の取ったウィークリーマンションの二室は、どちらも一等地からやや離れた2LDKで、閑静な場所にあった。そのうちの一室に、僕と
もう一室の2LDKには、すでに
僕は僕で、早緑がいない方の四畳半で、デスクにノートパソコンを開き、いざ執筆をせんとする所まで画面を進めていた。これから書き始める。反転の世界を、文字だけの世界で描ききる。つと、目の前を面影がよぎり、懸案ではなくとも、僕は意図的に意識を遣るのを避けている人物について思い知らされるのである。
意識のうちで、ふわりと、無理に脱色した金髪が揺れる。
愛に似た何かがそこにあるならば、僕はそれを裏切ればいいと思っている。
裏切りきれるものならば。
取り返しがつかなくなるまで、書き終えるまで、僕は愛に近しい何かを裏切り続けていられるだろうか。最も労りに近い何かを、かなぐり捨ててしまえるだろうか。早緑を選び、勇奈と食らい合い、僕の惰弱な生は、それに耐え得るだろうか。
けれど、僕は書く。
デスクに座り、キーをタイプしていく。僕が僕の神でいられるうち、最後の小説を、たかが文芸部の引退に際するだけの作品を、この夏の全てを裏返した物語を。僕は書く。言葉は踊る。そう、出だしは曖昧に、次の段はスタッカートで、次いでテンポを乱し、
早緑に淹れてもらったホットコーヒーを飲みながら、僕はぎりぎりの綱渡りをしている。全霊を込めれば、安全な橋ばかりを渡ってはいられない。自らの語彙の端を爪折るように言葉を拾い、文章の作法の隙間を無理に通して言葉を接着させて、一語ずつ、一文ずつ、一段落ずつ、夏の言葉は終幕に向けて追い詰められていく。
気づけば陽は落ちていた。書きかけの小説を上書き保存し、SDカードにバックアップを取ってから、パソコンを閉じる。今まで存在を忘れられていた照明のスイッチを入れても、まだ僕は僕の世界から戻れない。頭の中で、先程まで書いていた文を
リビングを抜けて、ノックもせずに早緑のいるベッドルームへと入った。早緑は熱心に英語の問題を解いているところだったが、こちらに目を遣ると「そろそろシャワーを浴びてもいい頃合い?」と、問うた。僕は「好きにすればいい。」と返すに
早緑は気分を害する様子なく、せっつくのでもなく、疑問を僕に向けた。「ねえ、本当に、天才なんてものはいるのかしら。」「僕がそうなんだって話なら、聞き飽きてる。努力を説く話ならそもそも聞きたくない。」早緑はペンを置いた。「私にはユウが獣に見える。あるいは、ひとりの登山家と、でも。」僕はベッドに腰掛け、早緑は椅子をいったん持つと、向きを変えて置き直した。気晴らしが要るとして、僕の側からは、それは交わることでも意見交換でもかまいはしなかった。「まず解説をくれないか。」と問うと、「あるいは人間。」と、早緑は的確な答えを返さなかった。
早緑は解説を寄越さない。「私にはどうしても、ユウがくだらないひとりの人間に見えて仕方ない。」反論する気は起きなかった。ようやく、補説らしきものが挟まれた。「天才はいる、けれど、自らを追い求めれば求める程に、くだらない獣になっていく。ただの登山家、あるいは人間。」「わからないな。」僕の言葉は無視されて、「シャワー、浴びてくるわね。」早緑はそれを言って、自分のキャリーケースからバスタオルを取り出すと、浴室へと向かった。ベッドの上には、近場のスーパーで買ったらしいバスタオルと寝間着が畳まれている。何も持って来なかった僕の分だろう。僕の財布は早くに早緑に預けていた。「くだらない人間か。」僕は僕の神さえも踏みにじられたような気を味わったが、それで悪い思いはしなかった。早緑はいつも正解しか言わない。それでも僕は僕の神に従う。だからこそ、なのか。
口に貼っていたガムテープを剥がすと、「言葉が巧いから、煽るのが上手。」と、早緑は僕を称えた。済ませた後の悪戯にと、僕は早緑の肌に触れるのみならず、胸を
互いに裸体を晒し、毛布もかけずに横たわった。僕は片肘を枕にしてから、「それで、僕が目指しているのはどんな山なんだ?」と尋ねた。「さあ。私は山には詳しくないから。」と、早緑はつれない。「K2か、エベレストか、例えてみるくらいはできるだろう。」早緑は首を横に振った。「やっぱりそれはわからない。ただ、K2にもエベレストにも登ったら、きっとユウは、火星の山を登りに行くわ。それはわかる。」火星には確か、エベレストの三倍近くにもなる山があったはずだ。「僕はどこかで死ぬらしい。」と、僕はそんな結論しか導き出せなかったのだが、早緑の答えは違った。「生きるために行くのよ。だから獣なの。そこにしか餌が無いから。」「僕が、今回の作品で僕の神を捨てようとしているとしても?」会話はまるで繋がっていなかった。それでも早緑は応じてくれた。「きっと行く道が変わるだけ。ユウは地球に飽きたら、火星まで行く。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます