二十一  勇奈ちゃんのがまだよかった。



 夏があまりに深く身に沈み込むので、僕はその為だけに呼吸を整えなければならなかった。季節と比すれば、あまりにちっぽけな命だ。畢生ひっせいのうちに何ができるとも知れない、ゆるがせにしか、どうせやれない生だ。そんな生が書くものを、僕の神は――僕は、信じ続ける。盲目的に、惰弱な命を打ち割りながらも。

 その末に何が残るかなど思慮のほかであれば、どうなるともわからない。

 愛はそこに残るのかも知れない。

 反転した夏の先に。

 馬鹿馬鹿しい。

 花凛かりんの唇から煙草を取り上げて、花凛を脇に寄せ、僕は立ち上がった。「結真くん、膝枕してくれる気あるの。ないの。」花凛の批難は僕の耳を素通りする。振り返り、花凛を向かいに後退あとずさった。そばにある街灯は、ベンチの屋根に邪魔されながらも、ぼうと花凛の顔立ちを夜に浮かばせ、あるいは二三歩、四五歩と下がれば、それ程に屋根に隠れなくなる星彩を僕が望むことを、無遠慮な光で邪魔した。こんな空が知る限りの星空くらい、軽々と超えてやるさと言えても、あるいは満天の星を前にしてそれを言えるとしても、僕は僕の生を超えてやれるとは言えない。向こう見ずに振り回し、忽せに振り回された結果を知るだけだ。

 後退るのにすっかりと嫌気が差していた。足を止め、僕は花凛を見据えて言った。「結婚はできない。」そして、その続きは、僕の神が僕に言わせたのだと思う。しかし、紛れもない僕の本音へと成り果てていた。「互いに成人したら、僕の養子になってくれ。」花凛の方が誕生日が遅いために、養親になるのは僕になる、そのことくらいしか、頭を巡るものはない。僕はいっそ寧静ねいせいな心持ちでいたが、花凛の胸中はざわついたらしい、思わず、といった様子で立ち上がるも、適切な言葉は見つからなかったようで、「ちっとも、」とだけ口にした。僕にとっては全てが明白であるので、「夫婦になる必要はない。養子になれば、それだって間違いなく家族だろう。もう二年余り、余計に待ってもらうことにはなるけど。」二人共が成人していれば、養子縁組をするのに支障はないはずだ。やはりそんなことしか、頭を巡らない。

 花凛は立ったまま呆気にとられていたが、称えるべき所だろうか、すぐに思考を引っ繰り返し、ベンチに座り直した。微風が吹き、花凛の短い髪を撫でると共に、煙草の煙の行方を少しばかり踊らせた。花凛はどこか諦めた風で、「勇奈ちゃん、年上の子供を持とうとは思わないと思うけど。」と言った。僕と結婚すれば、花凛という娘を持つことになる。「安心してくれ、」つまらぬ遊び心で、風に向けて煙草の煙を吹いた。「僕の人生設計は完璧だよ。」花凛は反転する。からへと。この夏に僕が見る真実としては正しい。「誰をお母さんって呼べばいいの?」と、花凛は拗ねたように言い、「そりゃあ、どっちにしろ、大楠おおくす花凛なんだけども。」と不満げだ。僕の提案を断るつもりはないらしい。「今のところ、。」「げ。」とまで花凛は言った。

 結局、一も二もなく、という申し出には違いないらしく、花凛は「結真くんパパ」と、言いつつ、再度立ち上がった。「僕から申し出ておいて悪いが、は勘弁してくれ。」不満を口にする立場ではないのだが、違和感が先に立った。花凛は気にする素振りを見せない。あるいは軽い仕返しなのかも知れない。「私、これから行きたいところあるんだけど。」「どこへ?」端的に問うと、「この近くにドンキ、あったよね。ぬいぐるみが欲しい。」歩いて程なくのところに店はある。「なぜ?」と問えば、花凛は大きくひとつ伸びをした。「いい加減、親離れしなきゃ。パパに買ってもらったぬいぐるみがそばにいてくれれば、うまく眠れるかもしれない。」そう口にしてから「勇奈ちゃんのがまだよかった。」と、付言した。



 目が覚めると、慣れない布の香りがした。隣にもう花凛はいなくて、前夜に買ったのぬいぐるみだけが目に入った。花凛曰く、結真くんに似ている、とのことで、非常に失礼な話だ。隣室に行くと、ちょうど花凛がインスタントのホットコーヒーを淹れた所で、ちゃぶ台の上にはふたつのマグカップがある。花凛は、「そろそろ起きる頃だと思った。」と微笑んだ。いったい僕は花凛に何から何を知られているというのだろう。「不運にも予想が外れた場合は?」と、寝惚けた声で切り返してみると、「コーヒーを淹れたから起きなよ、って言う。」と返されたので、花凛の負けはないらしい。

 ごく普通の有り様で息をひとつ吸った。何も起きてはいないふうで、僕は床に腰を下ろして後、「しばらく帰らない。」と言った。花凛がマグカップを持つ手は揺れなかった。「そういうことを言い出すんだろうなって、思ってたよ。」と、花凛は言い、すっとコーヒーをひと口飲んだ。コーヒーは、僕の好みを優先して選ばれた銘柄だ。僕は何から何まで知られているのか。花凛はさらに踏み込み、「書くんでしょ。」と尋ねる。僕に目を遣り、瞳はまっすぐで、口を挟む隙は与えてもらえなかった。もとより僕の答えは不要だったらしく、花凛はひとりで納得して、「たぶん、今までになかった作品を。書く。大楠結真ゆうまはそれを書く。たぶん、誰にも止められない。それじゃ勝てないなぁ、私。」と苦笑した。

 まるで違う。「いいのか。」と、問うと「今までだったら、きっと怯えてただろうって思う。」と、花凛の声音はあっさりとしていた。近くにある遠くを見ながら、言い足した。「順番を、順位を気にしてさ、一番じゃないから、大親友ならどれくらいだろうって考えて、でも、もう関係ないから。コーヒー、飲まないと冷めるよ。」僕は急かされて酸味の少ないコーヒーのひと口を飲んだ。「関係ないとは?」「家族になったら、順番とかそういうの、関係ないでしょ。良くったって、悪くったって。」花凛のげんは真理と思えるばかりで、僕は黙ることを是とした。「実家にいる人たちとは違う。結真くんが、本当の家族になろうって言ってくれるから、安心していられるの。順位とか、まるで関係ない。」まったくこれでは拍子抜けだと、そんなふうに思わざるを得なかった。

 ゆるがせの生の中で――

 花凛は大親友から家族になり――

 ――すなわち、きっと、僕の探し求める愛ではなくなった。




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