十九 そりゃあ、帰るさ。僕は。
無音はない。虫は
三十万円弱の使い道は、今夜というのは間に合わなかった。叔父に何を頼んだかと言えば、僕が利用者、叔父を保護者・契約者として、ウィークリーマンションを二室、別に借りること。必要な書類等は叔父がネットを介してやりとりし、残りは明日、僕が二社から鍵を受け取るだけという。手間をかけさせた。感謝しなければならない。
勇奈に倣って、側溝の
か細い糸に刃を宛てられている、花凛の心中は、僕にはそう見えた。「早く帰ってきたら、誰もいなくて。勇奈ちゃんのキャリーケースもなくて、だから怖くて。」僕はポストの中にある鍵を放って、階段を上がった。花凛にどういう言葉をかけてやったらいいのか、不思議と心は
しゃりしゃりと、氷が削られていく。安っぽい手動の氷かき器は、白熊を摸したデザインだった。ちゃぶ台の上に置かれて、ばらの氷を入れられたそれは、花凛にハンドルを回され、下に置いた器にかき氷を積もらせる。「帰り道で買ったの。一応、三人で仲良く食べるつもりで。」花凛の言うことは本当だろう。僕と花凛で食べるだけなら、氷かき器と共に買われたレモンのシロップは要らない。僕はブルーハワイで花凛が苺と、昔から決まっている。二種類だけでいい。
まず最初に僕の分の氷が積み上がり、お決まりのブルーハワイがかけられた。そのまま溶けていくのを見守るのはもったいなく、花凛に先んじて、スプーンでかき氷を口に運んだ。「仲良くってのは体裁だろう? 呉越同舟がレモンのシロップで済む気はしない。」花凛はハンドルを再び回しながら、「そりゃそうだよ。」と言う。「勇奈ちゃんは結真くんの才能が好きだし、私は結真くんにしか興味ないし、どうにか共存できたりするのかなって思って。それで。」友好ではなく、取引に近しいか。今となっては意味のあるものの気もしない。今朝、花凛が家を出た時から、長くない時の中で、ずいぶんと様相が変わってしまっている。
夏の盛り、体の中を溶け落ちていく氷の
僕は正解ではないことを言った。間違いであっても、僕らがずっと築き続けてきた会話のリズムで。「ここはお化け屋敷じゃないし、僕は善良な人でなしだ、勇奈がいないなら、ふたり仲良く食えるだろう。」「仲良く食べてるでしょ。私、嫌がってるわけじゃないよ。」花凛の口元には笑みが浮かんだが、指先の震えは収まらなかった。
僕は何を言うべきか。親友ではなくなる人に。
正解はきっと選べない。僕は僕の書くべきことを捨てられない。ならば、最上の間違いとは何であるのか。
花凛が最も恐れるものは何だろうか。僕に恋人ができることか。違う。眠れない夜を過ごすことか。もちろん違う。では何を求めたか、求婚までして、花凛は何を求めたのか。
花凛は何を恐れるのか。
大親友でいられなくなることか。違う。
自ら否定している。結婚すれば、それは夫と妻で、友ではなくなる。では何になる?
裏側がある?
花凛が真に望んだことがそこにある?
僕は考える。大親友ではない、反転した花凛を考える。共に並ばない、けれど――
僕の選ぶべき間違いがそこにある?
僕のスプーンはまるで止まっていたらしく、花凛はスプーンの先を向け、「どうかした? 食べないなら、半分以上もらっちゃうよ。溶けちゃうし。」と言う。ブルーハワイと苺だけがお決まりなのではない。お互いに半分ずつを食べたら交換するのが、中学生の時からのお決まりだ。勇奈がいたらできなかったろう。僕はそのまま器を花凛の側に押しやって、花凛からは半分残った苺のかき氷を渡された。僕は思わず言っていた。「こういうことばかりしているから、恋仲と思われる。中学の頃から。」花凛は肯定も否定もできない顔になる。「エッチまでたくさんしちゃってて、今さら否定もできないと思うけど。でも、キスはあまりしないね。」普通、キスが少ないとなれば批難だが、花凛の口調は違って、至当だと、そうあるべくしてあると、そのように聞こえた。
完璧主義、美意識、勇奈に言われたことを思い出す、「なあ、」つまらない凝り性の持ち主だ。「これを食べたら、出かけないか。」書くことしか求めない僕が、書くために間違う。反転させる。結果、悪いようには転ばない気がしている。それに安堵を覚えてしまうのは、僕の弱さか。花凛の安寧を望むのは、僕が僕を裏切ることか。
違う。
反転した
僕は、決して、書くべきことを捨てない。結論はそこにある。必ず帰結する。
過程に何がある。
大楠結真が、
ただ願うだけだ。
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