十九  そりゃあ、帰るさ。僕は。



 無音はない。虫は音鳴ねなく。原付のエンジン音、排気音、近づいて遠ざかる。誰かと誰かの談笑と行き違う。蝉は断続して街灯に不毛な体当たりをする。僕は路面を踏みしめ、スニーカーが足音を知る。それで、それでも、僕はひとり、花凛かりんの部屋を目前にして、夜が幽寂ゆうじゃくに従っていると感じる。どこにもない静けさを聞くことを心底しんていが望み、僕の主観が屈する。静かだ。静かな晩だ。錯覚じみている。長く、半ば重なるようにしてつるんできた親友に、決着を求めようという中、真っ当な感性では向かえないのかもしれない。隔たる知覚と現実との空き間に、どれだけ近い距離に互いが在ったのかを垣間見る。

 勇奈いさなをどうしたかと言えば、早緑さみどりと交渉をして早緑の家に泊めさせた。今は送り届けた帰りだ。キャリーケースはコインロッカーに預け、家出ではなく、単に友達が泊まりに来たというていにした。早緑は「最っ低。」と言い、むじなである勇奈は、「もう先輩に振られてますから、私。」と言った。勇奈をラブホテルに連れて行けるかというと、まだ高校一年、幼さの残る顔立ちで、泊めてもらえるかは微妙なところか。

 三十万円弱の使い道は、今夜というのは間に合わなかった。叔父に何を頼んだかと言えば、僕が利用者、叔父を保護者・契約者として、ウィークリーマンションを二室、別に借りること。必要な書類等は叔父がネットを介してやりとりし、残りは明日、僕が二社から鍵を受け取るだけという。手間をかけさせた。感謝しなければならない。

 勇奈に倣って、側溝のふたを踏んだ。音が聞こえれば聞こえるほどに、僕の鼓膜は闃寂げきせきを捉える。建物を迂回し、アパートのポストにまで辿り着き、ポストのダイヤルに触れようかというところ、二階でドアが開いた。花凛の部屋の位置だということは、すぐに分かった。弱々しく「結真ゆうまくん?」と声がかかるので、二歩、三歩と下がり、花凛を視界に入れれば、廊下から身を乗り出し、不安げに僕を見下ろす花凛がいた。手すりを握る花凛の手は、一階から容易に見て取れるほど、はっきり震えている。「バイト、たまたま早く上がることになって。一時間半分の時給、稼ぎ損ねたよ。」高校に入ってからずっと、花凛はバイトをして自分の生活費を稼いでいる。

 か細い糸に刃を宛てられている、花凛の心中は、僕にはそう見えた。「早く帰ってきたら、誰もいなくて。勇奈ちゃんのキャリーケースもなくて、だから怖くて。」僕はポストの中にある鍵を放って、階段を上がった。花凛にどういう言葉をかけてやったらいいのか、不思議と心は寧静ねいせいで満ちて、しかし答えは浮かばなかった。ずいぶんと劇的な再会を果たした気が、ついと湧いた。階段を上がって目線を合わせれば、向かいには涙目と呼べるものがある。「アプリでメッセージ送って、確認すればよかっただけなのに、それも、それもすっごく怖くて。もう帰らないって返事だったら。」花凛の帰る時刻には間に合わせるつもりが、酷く心配させたらしい。僕は普段通りの声音で、普段通りのつもりで言った。「勇奈が僕に好きと言って、勇奈が僕に振られたんだよ。そりゃあ、帰るさ。僕は。」正解の返事は分からなかった。分からなくなってしまうほどに、近すぎる。「それ、全然わからないからね。勇奈ちゃん、家に帰ったの?」「いや、家族会議は決裂、家出は続行。」僕は花凛の肩に手を置いた。「とにかく、部屋に入ろう。暑くて敵わない。」もし正解が転がっているとしても、それを拾うのは今の僕ではないだろう。今、僕の殉情じゅんじょうはそこにない。


 しゃりしゃりと、氷が削られていく。安っぽい手動の氷かき器は、白熊を摸したデザインだった。ちゃぶ台の上に置かれて、の氷を入れられたそれは、花凛にハンドルを回され、下に置いた器にかき氷を積もらせる。「帰り道で買ったの。一応、三人で仲良く食べるつもりで。」花凛の言うことは本当だろう。僕と花凛で食べるだけなら、氷かき器と共に買われたレモンのシロップは要らない。僕はブルーハワイで花凛が苺と、昔から決まっている。二種類だけでいい。

 まず最初に僕の分の氷が積み上がり、お決まりのブルーハワイがかけられた。そのまま溶けていくのを見守るのはもったいなく、花凛に先んじて、スプーンでかき氷を口に運んだ。「仲良くってのは体裁だろう? 呉越同舟がレモンのシロップで済む気はしない。」花凛はハンドルを再び回しながら、「そりゃそうだよ。」と言う。「勇奈ちゃんは結真くんの才能が好きだし、私は結真くんにしか興味ないし、どうにか共存できたりするのかなって思って。それで。」友好ではなく、取引に近しいか。今となっては意味のあるものの気もしない。今朝、花凛が家を出た時から、長くない時の中で、ずいぶんと様相が変わってしまっている。

 夏の盛り、体の中を溶け落ちていく氷のりょうは、いっそ卑怯なまでに思えた。花凛は十分にハンドルを回し終えると、今度は苺のシロップをかけ、僕に続いてかき氷を口にした。やはり僕には、正解は分からない。「勇奈はまだ家には帰らないけど、ここにも帰らない。」「何で、結真くん、ここにいるの?」花凛は努めて冷静にしているふうだったが、指先が震えているのはまるで隠せていなかった。わずか、花凛のスプーンから氷がちゃぶ台に零れ、花凛はそれをティッシュで拭った。

 僕は正解ではないことを言った。間違いであっても、僕らがずっと築き続けてきた会話のリズムで。「ここはお化け屋敷じゃないし、僕は善良な人でなしだ、勇奈がいないなら、ふたり仲良く食えるだろう。」「仲良く食べてるでしょ。私、嫌がってるわけじゃないよ。」花凛の口元には笑みが浮かんだが、指先の震えは収まらなかった。

 僕は何を言うべきか。親友ではなくなる人に。

 正解はきっと選べない。僕は僕の書くべきことを捨てられない。ならば、最上の間違いとは何であるのか。

 花凛が最も恐れるものは何だろうか。僕に恋人ができることか。違う。眠れない夜を過ごすことか。もちろん違う。では何を求めたか、求婚までして、花凛は何を求めたのか。

 花凛は何を恐れるのか。

 大親友でいられなくなることか。

 自ら否定している。結婚すれば、それは夫と妻で、友ではなくなる。では何になる?

 がある?

 花凛が真に望んだことがにある?

 僕は考える。大親友ではない、花凛を考える。共に並ばない、けれど――

 僕の選ぶべき間違いがそこにある?

 僕のスプーンはまるで止まっていたらしく、花凛はスプーンの先を向け、「どうかした? 食べないなら、半分以上もらっちゃうよ。溶けちゃうし。」と言う。ブルーハワイと苺だけがお決まりなのではない。お互いに半分ずつを食べたら交換するのが、中学生の時からのお決まりだ。勇奈がいたらできなかったろう。僕はそのまま器を花凛の側に押しやって、花凛からは半分残った苺のかき氷を渡された。僕は思わず言っていた。「こういうことばかりしているから、恋仲と思われる。中学の頃から。」花凛は肯定も否定もできない顔になる。「エッチまでたくさんしちゃってて、今さら否定もできないと思うけど。でも、キスはあまりしないね。」普通、キスが少ないとなれば批難だが、花凛の口調は違って、至当だと、そうあるべくしてあると、そのように聞こえた。

 完璧主義、美意識、勇奈に言われたことを思い出す、「なあ、」つまらない凝り性の持ち主だ。「これを食べたら、出かけないか。」書くことしか求めない僕が、書くために間違う。反転させる。結果、悪いようには転ばない気がしている。それに安堵を覚えてしまうのは、僕の弱さか。花凛の安寧を望むのは、僕が僕を裏切ることか。

 違う。

 大楠おおくす結真ゆうまの心情を、めるだけのこと。

 僕は、決して、書くべきことを捨てない。結論はそこにある。必ず帰結する。

 過程に何がある。

 大楠結真が、水野みずの花凛という人と離れたくないと願うことだ。

 ただ願うだけだ。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る