十八  せめてイーブンだと思っていいんですね。



 僕がわざと背後から電源を入れたことから、勇奈いさなは画面を見るべきと思ったのだろう、目を逸らすことはなかった。起動中、勇奈は目をしばたたき、次いで見開き、気色きしょくを一変させる。われる感情の一条ひとすじには怒りも交じるか。勇奈の瞳が、〈Isana N〉というユーザー名を映したであろう頃。「これ、どういうことですか。」買い換えを口実に、僕が勇奈にパソコンを譲ろうとしている、と、正しい解釈をしたのだろう。勇奈のパソコンは見た目からも新しくはないし、型番から考えても、今、勇奈の前にあるそれとは、倍くらいの値段、性能の隔たりがあるはずだった。それは勇奈も分かっている。

 続くであろう疑問、あるいは叱責について、僕は機先を制して問うた。「逆に聞こうか。じゃあどうして、僕が勇奈の機嫌を取らなきゃならない。責められるわけはないはずだ。」勇奈自身が、師匠と彼女と言い出したのだ。彼女に何かを譲ること、師匠から何かをもらい受けること、どちらも至当だ。「ただ、これについては、そういう言い分も不実でね。責められるわけはない、けれど、尊重する義理もない。」

 ズボンのポケットでスマートフォンが揺れて、僕は話を中途にして確認した。叔父からの連絡が入っていて、僕が頼んだことをうまくやってくれたらしかった。案の定、叔父はカードで前払いして、自分が全額出すという。朔良さくらさんに事情を話し、叔父の銀行口座を聞いているので、後で強引に振り込む心算だった。それで予算のうち、三十万円弱が消える。勇奈は僕が視線を上げてから話を続けた。「師匠が贈ろうとしている物を、ですか。わざわざ、新しい物を買ってまで?」「悪いけど、正直に選んでくれ。僕は確かめたいんだ。勇奈が僕と同種の人間かどうかを。このパソコンを受け取るかどうかを。」僕から何かをもらうこと、それは勇奈の最も忌避するところのはずだ。それを拒み、涙すら抑えられなかったはずだ。「勇奈は、書くことのために、何をどこまで捨てられる?」書くことのために、自らの落涙を裏切れるのか。

 勇奈の目の前にあるパソコンの所有者は変わるか、どうか。書くことが自分より上に立つのか。「こいつを手にしないって手はないはずだ。親が協力してくれない中、自分のパソコンを失うリスクは避けたいだろう。」文章を書くだけ、性能どうこうというのは必ずしも必要ではないが、高値の分、ずっと丈夫でもある。「バイトをする暇があれば、一文字でも多く書きたいか。」先輩から譲られた物、親が強引な手段に出ないなら、取り上げられることはないだろう。「加えて、残してある。僕が今まで書いたものを。文芸部だけじゃない。仕事で書いたもの、初稿やプロット、全部だ。参考にして盗めばいいだろう?」夕刻、陽光は勢いを半ば失っていて、勇奈の戸惑う顔を照らすのは主として蛍光灯の役目となっていた。「仕事って。先輩、守秘義務って知ってますか? 契約書には書いてなかったんですか?」僕は首を横に振って、「書いてあったよ。」とだけ言った。

 「正直にやってくれ。」僕が念を押して言うと、勇奈の顔つきは引き締まり、迷いも戸惑いも消える。「私が虚飾を捨てることが、先輩のためになるんですね?」問われて、僕は頷く。それを受けて、勇奈は薄く、しかし明らかな柔らかさで微笑んだ。「私だって人間です。捨てたくないものくらいありますよ。」と、前置きをしてから、「けれど、私自身の気持ちなんて、問題にならないです。ちっとも。恥に甘んじます。」強さだ。誇りの先にあるのは強さだ。勇奈が何ものと、仄明るく見えてくる。選ばせない。僕に恋を選ばせない。「、それ以外、全部。私は何もかも要らない。私は書きます。」勇奈はきっぱりと言い切った。それは、パソコンの所有者が変わることを意味した。気性を同じくするゆえか、勇奈は真っ先に、新しいパソコンのキーの感触を確かめていた。画面を見ながら、僕に問うた。「先輩は、私がどういう人間か確かめて、どう得をするというんですか。」

 僕は立ち上がり、煙草を手にしてくわえ、火を点けた。「恋人ではない、師匠でも弟子でもない、対等な同種になれる。勇奈の心配とは逆のことが起きる。僕は勇奈を喰らえる。僕が書くべきものを書くために。つまり、」ひと休みをしたら、勇奈の荷物をまとめて移動だ。「むじなだよ。」「同種の悪党ということですか。」僕は手にしていた煙草を口に戻すと、指を鳴らした。「そう。」煙草を銜えたまま肯定し、すぐ、長く話すために指で持った。「互いに、書くためなら顧みない悪党だ。遠慮は要らない。。作品を良くするため、おもさま、利用し、喰らい合えばいい。パソコンくらいくれてやる。たかが金の問題、むしろ安い。」恋人などとは正反対なのだ。互いに、互いを思いやりはしないのだから。「指を鳴らすのは格好付けすぎです。先輩の方が黒字か、せめてイーブンだと思っていいんですね。」「イーブン、あるいは、僕らはふたりとも赤字。僕らの書く作品がどちらも黒字になる。相利共生には違いない。」

 勇奈はふっと、呆れを微笑の端に見せた。「完璧主義というか、美意識なのか、このパソコン、本当に必要なんですか。確認するだけでいいように思いますけど。」僕は考える。叔父が僕を名指ししたことを。あるいは、叔父が名指しされたことを。書き手の業は続く。これからも。「さあ。それで成立するとしても、ライバルがパソコンに困っていて、いい気分にはなれないな。」勇奈は寸時すんじ、言葉に詰まってから、「将来の、ですよ。まだ足りません。」さやかな笑みを僕に向けた。「こういうのも、ときめく、って言っていいのかわかりませんけど、それ、人生で一番嬉しい言葉です。でも、」勇奈は今もまた勇奈であり、聡明だった。「先輩、私のこと、もう彼女とは見ないんですね。」見る、見ないは、もはや僕らの感情の及ぶところにない。僕らの書く物語に依拠いきょする。「どうかな。言ったろう。喰らい合うと。手段は問題にならないはずだ。むじなと狢で。」

 勇奈は確かな瞳で僕を見つめて、色合いのある、けれど曖昧な笑みを浮かべた。「よく、自分でもよくわかりませんけど、創作のことしか考えていない先輩のこと、好きに感じます。入れ違いですね。」そうと言われ、何も思わないではない。僕は僕の気持ちを消し去れてはいない。しかし選び取らない。喰らい合いを残し、そこに恋を残さない。

 僕は僕を軽んじて、望みを消し、僕の書くものを見る。むじなとして。僕と同等である勇奈もまた、勇奈自身を軽んじる。勇奈の書くものを見る。「普通の初恋で、普通の片思いを書くのでは、違う気がしています。私というものは。先輩、今、ちゃんとした恋人いますか。」同種の狢が、目の前にいる。僕は包み隠しなく話した。「いる。菅原すがわら早緑さみどり。」「いいですね、それ。ぞくっとします。」

 僕は僕の小説を、勇奈は勇奈の小説を見る。そして――僕は勇奈の書くものを見る。勇奈は僕の書くものを見る。そして、そして――僕は勇奈を見ない。勇奈は僕を見ない。。今までよりずっと、あるいは誰よりも互いを理解し合えているふうにさえ思えてしまった。

 勇奈はパソコンをシャットダウンして、ゆっくりと閉じた。その間の沈黙の後、勇奈は意力ある声で言った。「今の私が知らない片思いが書きたいです。もしイーブンで済むなら、ラブホテル、連れて行ってください。そして、私のこと、好きな女とは見ないでください。」勇奈の瞳は僕を向いていたが、誰のことも見ていなかった。




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