十八 せめてイーブンだと思っていいんですね。
僕がわざと背後から電源を入れたことから、
続くであろう疑問、あるいは叱責について、僕は機先を制して問うた。「逆に聞こうか。じゃあどうして、僕が勇奈の機嫌を取らなきゃならない。責められる
ズボンのポケットでスマートフォンが揺れて、僕は話を中途にして確認した。叔父からの連絡が入っていて、僕が頼んだことをうまくやってくれたらしかった。案の定、叔父はカードで前払いして、自分が全額出すという。
勇奈の目の前にあるパソコンの所有者は変わるか、どうか。書くことが自分より上に立つのか。「こいつを手にしないって手はないはずだ。親が協力してくれない中、自分のパソコンを失うリスクは避けたいだろう。」文章を書くだけ、性能どうこうというのは必ずしも必要ではないが、高値の分、ずっと丈夫でもある。「バイトをする暇があれば、一文字でも多く書きたいか。」先輩から譲られた物、親が強引な手段に出ないなら、取り上げられることはないだろう。「加えて、残してある。僕が今まで書いたものを。文芸部だけじゃない。仕事で書いたもの、初稿やプロット、全部だ。参考にして盗めばいいだろう?」夕刻、陽光は勢いを半ば失っていて、勇奈の戸惑う顔を照らすのは主として蛍光灯の役目となっていた。「仕事って。先輩、守秘義務って知ってますか? 契約書には書いてなかったんですか?」僕は首を横に振って、「書いてあったよ。」とだけ言った。
「正直にやってくれ。」僕が念を押して言うと、勇奈の顔つきは引き締まり、迷いも戸惑いも消える。「私が虚飾を捨てることが、先輩のためになるんですね?」問われて、僕は頷く。それを受けて、勇奈は薄く、しかし明らかな柔らかさで微笑んだ。「私だって人間です。捨てたくないものくらいありますよ。」と、前置きをしてから、「けれど、私自身の気持ちなんて、問題にならないです。ちっとも。恥に甘んじます。」強さだ。誇りの先にあるのは強さだ。勇奈が何ものと、仄明るく見えてくる。選ばせない。僕に恋を選ばせない。「先輩の作品から何かが失われること、それ以外、全部。私は何もかも要らない。私は書きます。」勇奈はきっぱりと言い切った。それは、パソコンの所有者が変わることを意味した。気性を同じくするゆえか、勇奈は真っ先に、新しいパソコンのキーの感触を確かめていた。画面を見ながら、僕に問うた。「先輩は、私がどういう人間か確かめて、どう得をするというんですか。」
僕は立ち上がり、煙草を手にして
勇奈はふっと、呆れを微笑の端に見せた。「完璧主義というか、美意識なのか、このパソコン、本当に必要なんですか。確認するだけでいいように思いますけど。」僕は考える。叔父が僕を名指ししたことを。あるいは、叔父が名指しされたことを。書き手の業は続く。これからも。「さあ。それで成立するとしても、ライバルがパソコンに困っていて、いい気分にはなれないな。」勇奈は
勇奈は確かな瞳で僕を見つめて、色合いのある、けれど曖昧な笑みを浮かべた。「よく、自分でもよくわかりませんけど、創作のことしか考えていない先輩のこと、好きに感じます。入れ違いですね。」そうと言われ、何も思わないではない。僕は僕の気持ちを消し去れてはいない。しかし選び取らない。喰らい合いを残し、そこに恋を残さない。
僕は僕を軽んじて、望みを消し、僕の書くものを見る。
僕は僕の小説を、勇奈は勇奈の小説を見る。そして――僕は勇奈の書くものを見る。勇奈は僕の書くものを見る。そして、そして――僕は勇奈を見ない。勇奈は僕を見ない。尊重する価値などないからだ。今までよりずっと、あるいは誰よりも互いを理解し合えているふうにさえ思えてしまった。
勇奈はパソコンをシャットダウンして、ゆっくりと閉じた。その間の沈黙の後、勇奈は意力ある声で言った。「今の私が知らない片思いが書きたいです。もしイーブンで済むなら、ラブホテル、連れて行ってください。そして、私のこと、好きな女とは見ないでください。」勇奈の瞳は僕を向いていたが、誰のことも見ていなかった。
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