序 Welcome to Magical World
外傷なし。
目撃者なし。
不審人物なし。
以上3点が娘の死を自殺だと警察が決定付けた要因だった。真夜中の学校で服毒自殺。不自然極まる状況だが考えられる可能性の全てを排除した上で警察はそう判断した。
「動機は?動機がありませんよね」
詰め寄る妻を応対した刑事はあくまでも事務的に突き放す。
「それはご両親でお考えください」
他殺ではない、と判断された時点で捜査は打ち切り。込み入った事情には関与しないという意思表示だ。警察は薄っぺらい書類一枚で娘の死を処理し、そうして俺たちにはただ今日からはもう娘が俺たちの元に帰ってくることはないのだという事実だけが残される。喪失感を抱えたまま一言も喋らない妻の肩を抱いて家路に着いた。帰りのコンビニで買った出来合いの弁当とカップ麺からは全く味がしなかった。妻が先に眠りに着くと俺はグラスに注いだタリスカー10年を一気に飲み干して脳を麻痺させ、そのままソファで眠った。
「こんな日でも会社に行かなくてはならないのですか?」
妻より早く目覚め、痛んだスーツに袖を通し、いつも通り藍色のネクタイを首に巻いていた俺に向かって発せられた最初の言葉はそれだった。思えば昨日の夜、突然警察に呼び出されて以降、妻と言葉を交わしたのはこれがはじめてだった。
「ああ。
「電話にして下さい。今日はあなたは家にいるべきです。あの子の父親として」
「あの子の父親として、最低限の社会的責務は果たすべきだろう」
「あなたは何でも合理的に考えるのですね。こんな時でも」
「性分だ。わかってくれとは言わん」
「早く帰ってきて下さいね。葬儀の日取りもあるので」
「ああ。わかってる」
思ったよりも俺も妻も感情的になってはいなかった。今の会話も事務的なもので、妻にはどんな文句をたれようと俺が会社に出社するであろうことはわかっていたようだったし、俺もそんな俺の姿を妻が歓迎はしなくとも普通に見送るであろうことを了解していた。たぶん、俺たちはまだ娘の死を感覚として実感していない。急に娘がいなくなったという事実にまだ感情が追い付いていないのだ。それは延々と続いていく日常生活を送っていく上でありがたい事でもある。
片道30分の道を自転車で駆けていく。
「ちょっとは健康に気を遣ったら?」
そう言ったのは娘だったのを思い出す。
職場に着くとタイムカードを切ってPCの電源を入れる。いつも通りの日常。努めてそれを装った。書類にサインを求めてくる部下の相手をしている間に社会人としての人格が立ち上がり、それは比較的簡単に達成できたように思う。退勤間近になって上司の元に出向く。娘が亡くなったことを淡々と伝えた。あの刑事のように何の感情も込めず、事務的に必要事項だけを話せただろうか。あまり自信はない。
「そういう事は早く言わんかね…」
部長は叱責を投げ掛けようとして部下は娘を亡くしたという旨を報告に来たのだと考え直す。
「お気の毒だったね」
それだけを短く言った。
自殺と判定されたことは伏せた。
そんな筈はないのだ。
俺はそんな結論を信じない。
帰り道、自転車のペダルを踏む足が重い。いつもより疲労が溜まっている事に気づき、自分が今日1日無理をしていたのだと思い返す。自宅では豪勢な料理を皿いっぱいに用意して、食卓に腰かける妻が待っていた。こちらはいつもと変わらない光景。ただし、妻の顔からは表情が抜け落ちていて、その影響からか、料理にはまったくといっていいほど味がしなかった。
「明日はお通夜です。沙夜の学校にも連絡はいれました。自殺…だというのは黙っておきましたが」
自殺という時、妻の声が若干震えた。
「お休み、取れましたか?」
「ああ、大丈夫だ。明日はずっと家にいるよ」
「安心しました。ひとりだと心細くて」
そう言った時、妻は少しだけ微笑んだ。妻のそんな顔を見るのは娘がいなくなってから始めての事で俺もつられて少しだけ笑みを浮かべて見せた。まるで互いに傷を舐め合ってるみたいだ。本当なら夫婦というものはこういう時、互いに手を取り合って支え合うものなのだろう。けど、俺にはそれは出来なかった。俺たちふたりが慰め合うのはいなくなった娘への裏切りだと思った。娘の魂の尊厳を踏みにじる行為だと思った。
妻が寝静まった後は昨日と同じくウイスキーをひとりで喉の奥に流し込む。アルコールが脳髄を溶かそうとする感覚だけが俺を現実に繋ぎ止める。翌朝、目覚めるのが億劫だった俺は娘の通夜にかこつけて昼過ぎまで眠った。仕事をしているほうがマシだったかもしれない。何もやる気にはならない。妻は妻でこんな時だというのに編み物なんかをして時間が過ぎるのを待っていた。会話はなく、無為に時間は流れ、やがて妻のケータイに葬儀会社から電話が掛かってきたので俺たちは喪服に着替えて車を出した。運転するのは妻だ。自転車に乗るようになってから、俺は車の運転を全くしていない。
通夜の参列者は思いの外 多かった。それは俺がそれなりに名前の通った企業に勤めているからというわけでなはく、娘の級友たちがこぞって最後のお別れに来てくれた事の証だった。制服姿の女の子たちは皆、心の底から娘の死を悲しんでくれているように見える。この中の何人が、本当に娘の事を理解してくれていた友人なのかは知らないし、興味もない。だが、これだけの人間に惜しまれる娘が、やはり自殺などはするはずがないのだと俺は確信する。対外的に自殺と判断された事は公にしなくても済んだ。娘の死は心臓発作による突然死、ということに落ち着いた。警察側のせめてもの配慮だろう。もっとも俺と妻にとって死因の違いなどに何の意味もない。
「この度は誠にご愁傷さまでした」
通夜式が終わり喪主の席に呆然と座っていた俺に声を掛けたのは娘の担任の教諭でもなく、学校長でもなく、娘と同じ制服に身を包んだ女子生徒だった。
「どうも。わざわざありがとう。沙夜も喜んでるよ」
当たり障りのない挨拶を口にした。この子がどの程度 娘の事を知っているのか、こっちは何も知らない。少なくとも俺の記憶の中にこの端正な顔立ちに理知的な眼鏡を乗せた少女の姿はない。
「君は沙夜の友達…なのかな?」
「いえ、直接的にはあまり沙夜さんの事はよく知りません」
「じゃあ、今日はどうしてまた…」
「生徒会長として、このような事が学校で起こってしまった事に責任を感じています。せめて沙夜さんのご冥福をお祈りできれば、と…」
人の口に戸は立てられないとは良く言ったものだ。生徒会長を名乗るこの少女は明らかに事情に通じている。どこから伝え聞いたか、娘が自殺したという警察報告を彼女は知った上で発言をしている。
「沙夜は自殺なんてしませんよ。あの子はそんな弱い子じゃありませんから」
後ろから妻が呟いた。虚ろな表情で生徒会長を名乗る少女に近づくと胸元を掴んで揺さぶった。
「沙夜はッ!自殺なんてしないッ!」
大声で喚き散らした。そんな妻が振り上げた拳を俺は手首を握って押さえ込んだ。けど、人目を憚らず思いの丈をぶちまける妻の口を閉ざそうとは思わなかった。妻の言葉は俺の言葉だ。喪主として余計な事は何も言わない俺に代わって妻は全てをさらけ出した。
「悪かったね。せっかく来てくれたのに」
妻が取り乱す姿を見て多くの参列者は蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまったが生徒会長の少女は残って霊前に線香を供えていた。俺の言葉に首を横に振って答える。
「私も沙夜さんは自殺なんかする人じゃないと思います。お母さんの言われる通り」
「沙夜の事、知らないんじゃなかったのかな」
「ええ、直接的には」
意味深な言葉を残して生徒会長は葬儀場を辞した。ひどく疲れた気がした。
翌日の告別式は通夜に比べれば簡素だった。俺と妻、親戚の他には娘と特別 仲のよかった友人を数名だけ迎えて式はしめやかに終わった。火葬場で荼毘にふされた娘は小さな骨壺に入れられて俺たちの元に帰ってきた。それで全て終わりだ。娘がこの世に居たという痕跡を消すための儀式はこれで全て滞りなく終わった。娘の遺影を抱いて葬儀場に帰る道すがら、始めて妻は涙を流した。娘はもういない。その涙は俺にもそれを強く認識させた。
葬儀が終わってようやく娘の死に現実感が伴ってきた。小さな仏壇とその中に納められた白木の位牌、高校の入学式の時に撮影した照れ笑いの娘が映った小さな写真。和室の一角に新しく添えられたそれらの備品が否応なく現実を訴えてくる。いつも通りの毎日を送ろう。そう思って眠りに着くのだが、朝起きれば嫌でも目に入る仏壇のせいでもはや"いつも通り"とは何だったのか忘れつつある。会社までの道のりから見える風景が違って見えるようになった。季節の変わり目だからな。俺は無理矢理にでもそういう事にしたのだが、オフィスから見る無機質な事務所の風景も違って映る事だけはどうしても納得させられそうにはなかった。
妻はめっきり口数が少なくなった。
俺は酒を飲む量が日増しに多くなった。
「平日は飲まないこと。私の目の届かないところで飲まないこと」
娘と決めたルールが紙屑のように破られていく。こうして娘は思い出になっていくのだ。吐き気がする。いったいどうして俺の娘が思い出なんかにならなくてはならないんだ。理不尽だ。世の中は理不尽だなんて事はこの年になれば知りすぎるほど知っていたけれども、そんな事実が気休めになることなんてない。
数日が過ぎ、1週間が過ぎ、娘の死は繰り返される日常の中に埋没していく。俺は淡々と仕事をこなせるだけの余裕を取り戻していた。娘が選んでくれた自転車を転がしながら進む通勤の道のりは重苦しかったが、それにもいずれ慣れるだろう。日常は戻ってきた。
何とかそう言えるまでには俺の精神状態は回復していた。相変わらず何を食べても味がしないのは変わらない。食事に関心が向かないのは俺が生きる気力を失っているからなのだろう。妻との会話はまったくなくなった。互いに優しい言葉をかけ合えるほど俺たちはもう若くない。同じ家の中で、同じ空間で過ごしているにも関わらず俺たちはもはや家族ではなかった。妻の事を他人だと感じたのは17年ぶりだろうか。娘が産まれた時の事をふと思い出した。仕事が終わってからまっすぐに帰宅することがなくなった。酒量は増える一方だ。味のしない飯と違って酒の強烈な薫りだけがわずかに俺の心を上向かせた。安いタバコに火を点けてほとんど現実逃避と変わらない勢いで酒をあおった。娘とのケンカの主な要因はいつも帰宅時間についてだった。遅くに帰ってくる娘に対して小言を言うのが俺の日課で、それすら俺にとっては年頃の娘とのコミュニケーションのひとつだったのだが、あの子にしてみれば本気でわずらわしかったのかもしれないな、と今なら少しだけ理解できる。俺も今は家に帰りたくないのだ。思い出になった娘をわずかでも遠ざけたい。父親として恥ずべき理由がそこにはあった。
酔いを感じながら帰宅すると家の明かりはまだ灯っていた。いつもならとっくに妻は就寝している時間だが、その日の妻はリビングに置いてあるテーブルの前に座って俺を待っていたようだった。妻が腰かける椅子の横にはそれほど大きくないキャリーケースが置いてあった。それで大体 話の内容には察しがついた。
「しばらく実家に帰ろうと思います。この家であなたと一緒に過ごすのは、今はつらすぎるから…」
別れよう、と言われなかった事は俺にとって救いだった。妻とは今時珍しく親から勧められた見合いで結婚した。夫婦生活20年を過ぎた今でも妻は一歩下がって俺に敬語を使うことをやめない。遠慮しているわけでもないだろうが俺たちはそういう関係だった。
特別 仲の良い夫婦だったかと問われればそんな事はない。だが、互いに見えない信頼は培ってきたと思う。端から見れば俺たちは親子三人とても幸せそうな家族に見えていただろう。それもこれも娘のおかげだったのかもしれないが、その娘はもういなかった。娘の存在は俺たち夫婦の間であまりにも大きすぎた。もう、俺たちは前と同じ家族には戻れないのだ。でも、そうだとしても娘と家族三人で過ごした時間だけは無かったことにはしたくない。絶対に。その点だけはきっと妻も同じなのだろうと俺は思った。それはもう心の奥底では繋がっていない妻との絆への最後の信頼だった。7歳年下の妻の髪に、俺の頭にも無いような白髪が混じっている。美しかった顔に射した影が妻を年齢よりもずいぶんと老けさせて見せる。昔のように妻の頭に手を置いて髪の毛を撫でようとしたが途中で止めた。俺も妻も馴れ合うことを求めてはいない。いま、俺たちに必要なのはひとりの時間だ。圧倒的に長いひとりで過ごす時間だった。
「
俺は妻の名を呼んだ。
「元気でな」
もっと言うべき事はあったような気もしたが口を突いたのはその一言だけだった。
「
懸命に作り笑いを浮かべてみせて、そうしてその笑顔を最後に翌朝 妻は家を去った。二階建ての一戸建てに中年の男がひとり。あまりにも大きすぎる入れ物だ。広すぎる空間は心の空洞と重なった。妻が居なくなったその日、はじめて俺は理由もなく会社を休んだ。娘の事もあって時期が時期だっただけに特に問い質される事もなくそれは受け入れられた。だからと言ってやる事もない。ただ、無性に気力が湧いてこないのだ。生きるための気力が完全に萎えてしまったといってもいい。娘は俺の全てだった。対して良い父親や夫であったと思ったことはない。だが、俺にとって家庭はふたつとない居場所だったということを今さらながらに思い知らされる。会社への連絡が済むと靄がかかったように働かない頭で何をすべきか考えた。この所、酒が抜ける時がない。頭は常に重く、身体には力が入らない。ふらふらと家の中を這いずって、気がつくと俺はウイスキーの瓶を手に書斎に佇んでいた。左手に握られたボウモアのボトルを見つめながら俺は壊れかけの自分を自覚する。グラスも使わず瓶に口を着けるとアルコール度数40を軽く超えた酒を喉の奥に注ぎ込んだ。胃が焼けるように熱い。心臓の鼓動が頭の奥から鳴り響いているように感じた。ボトルの酒が無くなっていく速度に合わせて鼓動は次第に早まっていく。割れるように痛む頭。脳の奥から聞こえる心拍の音。命が削られていく音。ボトルから全ての液体が無くなる前に俺の身体のほうが限界を迎えた。喉に激痛が走り、俺はボトルを保持できなくなって床に取り落とすと前後不覚になって書棚に思いきりぶつかって倒れた。衝撃で何冊か本が地面に降り注いだ。さいわい一冊も俺の頭上に落ちてくる事はなかった。全力疾走をした後のような疲労感と倦怠感が訪れ、湧き出す汗が全身を伝った。だが、身体に残っているのは爽やかな高揚ではなくどうしようもない厭世感だけだ。娘との約束を平然と破って酒に逃避する快楽も、もはや俺の心を慰めてはくれない。落ちた本を拾おうと立ち上がる。その中の一冊が開かれたままの状態になっている。視線が外せなかった。幼い日の娘と若き日の妻の姿がそこにあった。封じ込めたはずの思い出を呼び起こすように俺は遠い日の記憶の欠片…家族のアルバムを取り上げ、膝に抱えて腰を下ろした。妻と娘の笑顔がそこには多く映っていた。俺の姿は数えるくらいしかない。それはきっとこの写真を嬉々として撮影しているのが俺だからなのだろう。思い出は美しかった。被写体をまっすぐに映しただけの何の工夫もない写真だが、そこには確かに愛があった。俺たち家族の営みがそこにはあった。涙が頬を伝った。そして、失ったものを懐かしむのはこれで最後にしようと思い定めた。ありきたりな結論だが、死者は生者に自分のぶんまで明日を生きて欲しいと願っている。無理矢理にでもそう思うことにした。俺は明日を生きるのだ。思い出を振り返ることはもうしない。後ろを振り向くことはもうしない。床に落ちた本を全て片付けるとまだわずかに中身の残ったボウモアのボトルをゴミ箱に放った。今の俺に必要なのは酒ではない。
次にやることは決まっていた。娘の遺品整理だ。辛くて、怖くて、目を背けていたその行為に俺はようやく踏み出す決心が着いた。明日のために、俺は心に根付いた娘の死という非現実を現実に変えねばならない。納得はできなくても受け入れるために。娘の死後…いや、もっとずっと前から足を踏み入れることは無くなっていた2階の一角を目指す。
「さよのへや」
小さかった頃の娘が紙粘土でつくったルームプレートにわずかに埃が被っている。急速に胸に去来する懐かしさを押し殺す。俺は今からこの思いのひとつひとつにケリを着けなくちゃいけないんだ。ドアノブに手をかけて止めた。鍵がかかっているのだ。考えてみれば当然で、娘は中学に上がった頃から「私に無断で勝手に部屋に入らないこと。私がいない時に私のものに触れないこと」というルールを俺と妻に遵守させていた。ここは娘の聖域だ。この中には俺の知らない娘がいる。
リビングで引き出しをひっくり返し、ようやく娘の部屋の合鍵を見つけた。何だかんだと言ってもまだ高校生だ。合鍵を処分するという発想にまでは至っていなかったらしい。もしそれをされていたなら鍵を破壊するしかなかった。いくら娘の遺品を整理するといってもそれだけは避けたい。改めて2階へ向かうとドアノブに鍵を差し込んだ。今度は簡単に取っ手が回る。部屋の扉を開こうとして抵抗を感じた。開かない…内側からロックがかかっているのだ。よく見るとドアの隙間からスライド式の鍵が顔を見せている。そんなにプライベートを見せたくなかったのか。年頃の女の子にはありがちな考え方に苦笑しつつも俺は違和感を覚えていた。ドアが内側から施錠されている以上、娘は外出時にここを通ってはいないはずだ。つまり、窓から出かけてそのまま命を落としたということになる。だが、それはおかしい。俺は最後の日、娘としっかり会話を交わしている。いやそんな生易しいもんじゃない。あれは大喧嘩だった。
「こんな時間にまた出掛けるのか?」ではじまった俺の詰問はこれまでの鬱憤を晴らすように娘の心の内側を抉ったのだろう。
「うるさい、パパには関係ないでしょ」娘の最後の言葉は対話を完全に拒否した怒りと諦めの態度だった。あの後、娘は確かに玄関を通って家を出た。忘れる筈はない。俺はあの喧嘩が原因で娘は死んだのだと今でも考えている。おそらくは妻も、そう思っていたのだろう。だから妻は俺の元を去った。俺と一緒にいればきっといつか娘のことで俺を責めてしまうことがわかりきっていたから。妻は優しい人だ。俺を傷つけないために俺の前から姿を消した。俺の弱さを知っているからあえて俺をひとりにしてくれた。
思考を中断してドアノブから手を離す。取っ手には汗がべっとりと着いていた。嫌な予感がする。馬鹿げている…そう思いながら俺は家を出ると脚立を使って2階に昇り、娘の部屋の外に立った。窓枠に手を掛ける。窓は…開かない。鍵はかかったままだ。完全な密室。娘の部屋は外からも内からも誰も入ることは出来ない完全な閉鎖空間だった。心臓が脈打つ鼓動が耳に届く。もう酒のせいじゃない。俺の中で黒い不安が渦を巻いている。娘はどうやってこの部屋を出たのだ?当然すぎる疑問の答えを知ることが恐ろしい。恐ろしいと思いながらも俺は自分でも常軌を逸した行動に出ようとしていた。庭に落ちていた手頃な大きさの石を掴み取ると再び脚立に足を掛けて娘の部屋の前に立つ。喉を鳴らして唾を飲み下した。窓ガラスに向かって石を思いきり投げつける。高い音を立ててガラスが割れると俺は隙間から手を差し入れて窓を開いた。まるで泥棒だな。こうまでして俺は娘の遺品を整理しなくてはならないのか?いや、違う。もはや目的は別のところにあった。ここには娘の死の真相がある。考えることを止めた娘の死に対する疑念が首をもたげる。どうやらまだ俺は娘を思い出にすることはできないらしい。窓枠を潜って真っ暗な室内に足を踏み入れる。土足で娘の部屋へ侵入するのは聖域に対する侵犯のようで背筋がぞっとする。俺は何をしようとしているのか。もはや後戻りは出来ない。部屋の隅にある電気のスイッチを押して明かりをつける…俺はそこにあったものを見て息を飲んだ。
部屋の床には赤色の塗料で真円が描かれ、その中央には頂点を五つ備えた星や見たこともない象形文字のような奇妙な図形が配置されていた。魔法円、魔方陣…というやつなのだろうか?いずれにせよ娘がこんな気味の悪いものに傾倒しているなどという話は妻からも聞いたことはなかった。あるいは、妻にさえ話していなかった娘だけの秘密なのかもしれなかったが。勉強机のある部屋の隅に面した壁にも赤い塗料で真円が描かれ、こちらの中央は三角形を二つ組み合わせたヘキサグラムだった。机の上には短い銃身と引き金を備えた鉄の塊が置かれていて、銃身の側部には尾翼のような長い弦が折り畳まれていた。鉄の塊は時折、緑色の光を放ち、その度に銃身に刻まれた幾何学模様めいた何かが蠢いた。何だ…ここは。娘の部屋にいるという事実を俺は頭の隅から追い出そうとした。思い出に残る娘の笑顔とこの部屋の持ち主が結び付かない。娘はここで何をしていたというのだ。俺たちに隠れて娘は何に没頭していたというのか。勉強机に備え付けられた本棚には教科書や女の子が好みそうな雑誌の類いは無く、分厚い専門書のようなものが並べられている。背表紙のタイトルを見ても俺には何の冗談かわからない。
『第一魔術定理 基礎理論』
『現代魔術汎用魔導システム』
『魔力要素低減の法則』
魔術…そんな単語が娘の部屋を埋め尽くしている。占いやまじないといったレベルを遥かに超えた高度な研究をうかがわせる痕跡。何となく俺にはこれを娘が遊び半分でやっていたとは思えなかった。端的に言ってこの場所には学術探求の為に用意された研究室の趣があったからだ。窓から風が室内に向かって吹き込んだ。異臭が床から立ち上って顔をしかめる。生臭い魚の腐ったような臭気が部屋を満たす。俺は腰を屈めると魔方陣の端にそっと触れた。赤い塗料はぼろぼろになって掠れ、俺の指にわずかに汚れが付着する。埃っぽいそれを指で確かめて…俺はぞっとする。
これは血液だ。この魔方陣は乾いた血液で描かれているのだ。と、すると壁のほうのやつもそうなのだろう。いったい、何の血で?動物?娘自身の血?それとも…いや、少なくとも最後の可能性はあり得ない。娘が人を殺すなんてそんな事がありうるわけ…ない、と言い切れるのか。もはや俺にはわからない。もともと娘の事を何でもわかっていたなんて言える訳もない父親ではあったが、この部屋を見ればさらに混迷は深まるばかりだ。俺には娘がわからない。娘は何者で、ここで何をしていたのか?そして何故 真夜中の学校で命を落とさなくてはならなかったのか? なにひとつ俺にはわからないのだ。だが、ひとつだけわかる事がある。少なくともこの部屋に残された魔術とやらの痕跡が、娘の死因に何らかの関係を及ぼしているのだろうと。
自殺なんかじゃない。
俺の疑惑は確信に変わる。
娘を思い出にするにはまだ早い。
真相を突き止めるまで、俺は娘を思い出の中に風化させるわけにはいかなかった。
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